ましろに虹を引く

「見て、ゼニス! 人がいる!」
 僕らが森を歩きだしてしばらく経った頃。周囲の木々が変わることに異郷を感じていたけれど、ヴィエラが寄せ付けない森に分け入るヒトなど少なく、他の民族を見掛けることはなかった。しかし、木々とともに足元の土も砂混じりに変化してきた頃、僕らはようやく、ひとつ目の集落に辿り着こうとしていた。
 その人影は、僕らよりも少し背が低い。その頭頂部に耳はなく、ヴィエラの森を出たのだという実感がじわじわと湧いてくる。近付くとどうやら男性のようで、声を掛けると振り返り、しわの刻まれた顔に驚きを乗せた。
「おやまぁ、ヴィエラ族じゃないか」
「この辺りの集落の人ですか?」
「ああ、そうだとも。……格好を見るに、北から来たのかい?」
「そうだ、北の森からやって来た。集落はどっちだ? 休めるような場所があるなら教えてほしいんだが」
「そうさなぁ……」
 男性は顎髭を手で弄って考え込んだ。そして僕らを上から下まで眺める。
 僕はゼニスと自分の格好を改めて見た。獣の革や、マスターから分けてもらった布で拵えた手製の服だ。元々集落に居た頃から裁縫は習っていたから、丈夫で着心地の良いものではあるが、獣にやられた跡などあて布をして継ぎ接ぎ模様だし、纏ったケープの裾はぼろぼろになっている。……うん、野盗もかくやと言った様相だ。
 ふたりで野営をしながら、とりあえず人に出会って外の事を知ろう、と話していたから、すんなり集落に入れないのは少し困る。
 どう繕っても怪しい人物に他ならないが、耳の先を垂らして誠意を込めてみる。僕達に身分を証明するものを持ち合わせている筈がないのだ。
「怪しい者ではありません。僕ら、旅を始めたばかりで、色々と準備を整える場所が欲しいんです」
「いやぁ、お前さんたちを疑ってる訳じゃあない」
 そう言って顔の前でひらひらと手を振った男性は、しわを深くさせて笑った。僕はゼニスの顔を見て首を傾げた。ゼニスも訝しげに首を捻っている。武装や格好のせいではない、と言う事か。
 男性は胸元から革の袋を取り出した。開くと中には、銅らしい金属で出来た小さな円盤が入っている。僕らはそれを覗き込んだ。何だろう、これ。袋に入れていると言うことは、身に着ける宝飾品の類でも無さそうだ。でも、集落を出るときにもわざわざ持ち歩く……? 僕らの反応を見て、男性が頷く。
「お前さんたちみたいなヴィエラ族は、長く生きていると時々見ることがあるのさ。外と元々交流があったならともかくとして、お前さんたちの土地から出たばかりの若者なんかは、先立つモノってのを知らんこともある」
「先立つモノ?」
「金だな。貨幣だ。身内の物々交換だけじゃあ外は回らんのさ。これのやり取りをして、モノを買ったり売ったりする」
「交換の間に挟むのか」
「身内ばかりじゃない多くの土地ではコレが常識さ。ま、流通する金の種類は違うがね。宿に泊まるだとか、そういうのでも必要なモノさ。……で、お前さんたちは持ってないんだろう」
「ですねぇ……」
「だな……」
 金。僕らの暮らしでは縁遠いものだった。そもそも森のかたちとして、持っている余分なものを必要なヒトへと配分する仕組みにより、支え合って暮らしている。誰かが多くの富を得るだとか、そういう欲求が出ること自体が珍しく、集落自体がひとつの命のようなものだったのだ。集落と集落を渡る同族の商人は居たけれど、彼女たちはそれぞれの集落で余る品を、別の集落において価値が高いモノへと交換する人々であり、物々交換の枠から外れたものではない。押し並べて宝石の類は沢山のモノと交換できたが、冬が長い年は肉や貯蔵できる野菜のほうが重宝された。
「それは、僕らが何かを売って手に入れることが出来ますか?」
 訊ねると、男性は頷いた。
「ああ、狩人なら、毛皮や肉を獲ってくれば金になる。だが……そうだな。人を紹介しよう。彼女ならお前さんたちの力になってくれる筈だ」

 

「シバル、この子らが例の? ……ヴィエラ族とは聞いていたが、まさか男が来るとはね」
 そう言って、長い紫の括り髪を揺らして振り返ったのは、同族の女性だった。年の頃は二百くらいか。彼女の声を聞いて、シバルと呼ばれたしわの刻まれた男性が目を見開いた。
「おやまぁ、随分たくましいお嬢さん方だと思ったら、男だったのかい」
「じいさん、俺たちのこと女だと思ってたのか! そりゃ傑作だな」
 だはは、とゼニスが明るく笑う。彼の隣で僕は、こっそりとケープの中で自分の二の腕に触れた。僕も里を出た頃よりは随分筋肉が付いたし、男らしくなったと思ったんだけど……。他種族から見ると、そんな僕でも女の子に見えるのか。ほんのちょっとだけ傷付いたのは秘密だ。
「ヴィエラってのは女ばかりの種族だって言うじゃあないか。俺も長く生きているが、男のヴィエラを見たのは初めてだよ」
「ああ、孤独に生き、人前に姿を現さないのが普通だからね。男が、それも、二人揃って。あたしも長く生きているが、初めてさ」
「シルキー姐さんが初めてじゃあ、俺が会えた筈もないさな。しっかし、ヴィエラってのは男も綺麗な顔をしてるんだなぁ」
「だろ? 繁殖期は女に囲まれるんだ、それなりの容姿じゃないとな」
 そう言ってゼニスはちょっとぶすくれた僕の頬をつんつんと突いた。整っている。綺麗。きっと彼にとっては褒め言葉なのだし、と僕は小さく頷く。男女に分化する過程の都合上、僕らの姿が女に寄っているのは仕方ないことなのだ。
「じゃあ、二人はウチで預かろう。案内してくれてありがとね、シバル」
「よろしく頼むよ、姐さん」
 手を振ったシバルさんにぺこりとお辞儀をして見送る。シルキーさんは、さてと、と息をついて僕らに向かい椅子を指し示した。座れということらしい。
 横に長いカウンタータイプの机の前に置かれた高めの椅子にふたりで腰掛けて、周囲を見る。
 シバルさんに出会い、違う土地に来たと実感を深めた僕らだけれど、村に案内されてからはずっと驚きっぱなしだった。
 まず、住む人々の人種の多さに。てっぺんの長い耳を持たず、顔の横に耳の生えた人々は、様々な体格を持っていた。シバルさんのような僕らよりも少し背の低い人たちに、肩幅が広く太い骨格をしているのが分かる、大柄な人。背が高く耳の長い、細身の人。僕らの腰よりも背が低い、やや耳の長い小人。それぞれは独立した種族なのだろうか。頭頂部に僕らのそれを短くしたような尖った耳を持つ女性は、尾が生えていた。耳がなく、頭に角の生えた人も居れば、爬虫類のような顔をした人、鼻の潰れた獣のような顔をした人もいる。それぞれが全く違った姿をしているのに、同じ村で暮らしているのだ。
 建築様式にも驚いた。森からそう離れた土地ではないが、大地には砂が混じっていて、建築に用いられているのは木材よりも石が多い。神殿でもないのに、重い石を切り出して住居に出来るなんて、よほど人手があるのだろうか。ザラザラとした石の壁には鮮やかな色をしたタイルが貼り付けられていて、随分と賑やかに見える。他にも、茶色く背の高い獣に口輪を着けて革紐で引いている姿を見たり、品物を並べている店が沢山あったり。まるで別の世界に来たようだ。
「おのぼりさんだね。森とは随分違うだろ? ……肌を見るに、山脈のヴィエラか」
「そう、北から来たんだ。俺はゼニス、こっちはレイニー」
「あたしはシルキー。東の大密林の出さ。……名前はもう、あるんだね?」
「僕達で、付けました」
「いい名じゃないか」
 聖地の名は、置いてきた。シルキーさんも肌の色は濃く、僕らとは出自が異なるが、街の名を名乗るしきたりに変わりはないようだ。そうかい、と彼女は大きく頷き、カウンターの内側にある椅子に腰掛けた。
 彼女の背後には液体で満ちた硝子の瓶が、所狭しと並んでいる。僕らが腰掛ける以外にも、部屋の中にはいくつも机と椅子が据え付けてあった。ここは人の集まる何かしらの店なのだろうか。
 ずっときょろきょろとしている僕らに、シルキーさんは小さく笑う。
「この村はダルマスカの東端にあるからね、里から降りてきたばかりのヴィエラがよく来るのさ。しかし、何度見ても初めのアンタたちは面白いもんだ」
「仕方ないだろ、見たことないことばっかりなんだから」
「馬鹿にしてるわけじゃないよ? ……森から出てきたってことは、全部捨てる覚悟があるってことだろう。そんな先ある若者に外の手解きするのが、あたしみたいなババアの何年かに一度の楽しみでね」
「結局楽しんでるんだな?」
「まあね。これから一生外で食っていくことになるんだ。聞いといて損はないよ」
 彼女はカウンターの棚から取り出した、大きな地図を僕らに広げてみせた。
「ここがスカテイ山脈、森を南に抜けて……ここが、今いる村さ」
 僕らの暮らしに地図は必要なかった。縄張りだけ分かれば良い。子供の頃には危険な位置を示したそれを読ませられたものだが、歳を重ねれば、星さえ見上げたらどこに居るか分かって当然。あえて読む必要すらない。地図に描かれているのは自分の集落と、取り囲む森、それから一番近くて交流のある里くらいだった。後は、北の果てにエーテルのない白く焼けた死の大地があること。森を抜けると他種族の里があること。その程度だけ知っていれば生きていられた。
 けれど、僕らは地図を覗き込む。縦横に、等間隔で線の引かれたものだ。彼女が指さした山脈は、白い大地と砂漠の間に立ち並んでいる。そこからこの村まで、女性の人差し指一本分の距離しかない。
 世界は広がっていく。山脈の北には焼かれた大地が広がるが、その更に北には、青々とした草原が描かれていた。北の果てにはさらなる果てがあったのだ。ぐるりと回って東を見れば、「ドマ」「ヤンサ」「ナグサ」と、国名らしいものが並んでいる。視線を辿る。ラヴァ・ヴィエラの聖地であるゴルモア大森林の名は知っていたが、こうして俯瞰して見ることになるとは。薄い茶色の砂漠があって、指で指した村から一周り。
 でも、それで世界は終わらない。ぐねぐねと難しい線で大地は括られていた。その周囲には、言葉でしか聞いたことのない「海」がある。海で囲まれた大きな陸地には「オサード」と書かれていて、その西側には「イルサバード」「アルデナード」と書かれた陸地が続いている。指一本分の距離の、なんと小さなことか。沢山の島が海には浮いていて、それぞれに地名が刻まれている。
「ここはダルマスカって国にある村だ。この辺りから……ここまでがひとつの国。この、西にある大きな都がラバナスタ。この王国は古くから交易が盛んでね。地元で毛皮やなんかを卸すのよりも、商隊のキャラバンの護衛のがずっと儲かるのさ」
「へえ……」
「ここは酒場と、傭兵の斡旋所を兼ねているんだ。あんたら一文無しだろ? 里を出たとて、曲がりなりにも男なら、それなりに戦えると見た」
「はい、ふたりとも槍や弓、斧が使えますし、治癒術の心得もあります」
「よしよし。外で生きるには、何をするにも金がいる。まずは稼ぎ方を覚えるんだね。簡単な仕事をいくつか見繕ってやろう。最初は小さい仕事しか与えられないが、ちゃんとこなして信用を得られれば、危険だが金額の大きな依頼も渡せるよ。しばらくウチの一室を貸してやるから、外に慣れるといい」

 

 寝台に身体を横たえるなんて、何年ぶりだろう。身を清めて、借りた簡素な麻の服に身を包み、酒場の二階の部屋にある二台のベッドのうち、扉側に転がる。
 ふかふかのベッドは柔らかく、僕の重くなった体重をあっさりと受け入れてくれる。しかし、浴場もすごかったなぁ。顔をシーツに埋めながら考える。里のように元々効能のある源泉から引いている訳ではないそうだが、石造りの湯船は広く快適だったし、なんと取手を捻れば湯が頭から降り注ぐ仕組みまである。石鹸もやたらと泡立つし花のいい香りが濃厚で、今も髪からはふわりと花の芳香が漂っている。
 里に暮らしていた時は不便に思ったことなどなかったが、様々な文化と交流している「外」の進化は目覚ましいということだろうか。そもそも外に出たヴィエラを里は受け入れないだろうが、一度外を味わってしまうと、もう森には帰れない気がする。
 僕と同じく感動しきりだったゼニスは、さっきまで布団に沈んで「雲の中みてえ!」と騒いでいたが……。僕はふと顔を上げた。彼の姿は寝台の上になく、窓際に設置されたデスクに座って、外を静かに眺めていた。いつも賑やかに表情を変える彼だけれど、ふとした瞬間にその色を失くすことがある。窓に掛かった日除けを手で払って、うつむき加減に階下の景色を見詰めている。僕はその整った横顔を見て、少し胸をどきりとさせた。
「……ゼニス?」
「本当に、外なんだな」
 まだ灯りのある外を、何を追うでもなく眺めた彼はそう言った。僕はゆっくりと身体を起こして、ベッドの端に腰掛ける。
 彼のことは、僕が連れ出した。やっぱりまだ、本当は……。どうやって切り出そうかと言葉を探す僕に、ゼニスは不意に振り返った。僕の顔を見て、彼は小さく笑った。
「なんて顔してんだよ。誰もお前のことなんか責めてねーし? むしろ、感謝してるくらいだ」
 硝子の嵌った窓枠の小さな鍵を外し、がたがたと音を立てて上にスライドさせる。外の風がふわりと室内に飛び込んだ。乾いた砂の香りが混じった、知らない匂いだ。窓を開けると外のざわめきがよく聞こえるようになる。夜だというのに、まだ外では灯りが動き、人の声がいくつも行き交っていた。
「俺は、こんなもの知らないで死んでいく予定だったんだ。……こんなに、賑やかで、楽しげで、鮮やかな景色を!」
 そう言って、きみは僕に向けて笑った。風が吹き、日除けの布ときみの髪を優しく巻き上げる。賑やかな夜を背景に笑うきみに、僕は胸を詰まらせながら大きく頷く。嬉しい。きみが生きていて、君と新しいものに出会うことが、とてつもなく嬉しいのだ。
 ゼニスはデスクから飛び降り、僕の隣にやって来た。きみが座ると、柔らかい寝台はばねを軋ませて音を立てる。同じ花の匂いが鼻を擽った。僕らだけじゃなくてシルキーさんからも同じ匂いがするのだろうけれど、また心臓がどきんと鳴った。
「これから、どうする?」
「ええと……」
 まずはお金を貯めることだ。食事なんかその辺の動物を狩れば何とかなると思っていたのだが、実際のところ、この辺りの猟師の組合が取り仕切る縄張りの兼ね合いがあり、僕らのような余所者が勝手に狩ると角が立つのだと、シルキーさんが教えてくれた。買ったほうが手軽とのこと。住居だって、同族のよしみで宿を借りられているものの、これも頼り切ってはいられない。服だって自分で縫うにしても、新しくこの辺りの土地にあった素材と道具を揃えるべきだろう。
「貰った依頼書の中で言うなら、隣町への商人さんの護衛かな。きみはそれでいい? 隣町にはシルキーさんの孫が居て、宿を借りられるって」
「あー、別に依頼はどれでも構わねえよ、俺は。お前が選んだんならそうしよう。でもな、俺が言ってんのは……」
 ゼニスはちょんちょん、と僕の額を伸ばした指でつついた。言って聞かせるような顔に、首を傾げる。彼は手を腰に当て、仕上げに僕の鼻先を押した。
「お前が森を出て、何をしたいか、だ」
「それは……」
 僕はシルキーさんに借りてきた地図を取り出し、ベッドの上に世界を広げた。
 今日出会ったもの。新しい世界。僕らの知り得なかった日常が当たり前に時を刻んでいる。
 僕のはじまり。正直に言えば、きみさえ居れば良かった。きみを殺す森から出たいだけだった。きみが生きていてくれるなら、僕の世界なんてなくなっても良かったのだ。それはただの逃避であり、目的地があった訳ではない。
 目的地はどこだろう。何をしたいのだろう。傭兵として名をあげたい訳でもない。僕はちらりと隣を見た。彼は広げた世界なんて見ておらず、ばっちりと目が合うのだった。僕はふにゃりと力なく笑う。
「あのさ」
「うん?」
「僕の答えによっては……きみの行き先が変わるのかい?」
「そりゃな、変わるよ」
 じゃあ、この心は胸に秘めておくべきなんだろうか。君を連れ出した、そこで僕はある程度満足していて。欲を言うなら、僕のしたいことは、きみの隣で息をすることだ。
「まーたお前ごちゃごちゃ考えてんな」
「だ、だって。きみと別れたくないし」
「お前ばかだなー」
 どん、とゼニスが肩口にずつきをしてきたから、押されて寝台に軽く転がる。もう、と睨む僕が見上げた先で、彼の青い髪が天井から吊り下がるランプの光を輪郭に纏っていた。ぴかりと光る赤い目が笑う。
「誰がお前と別れるって? 俺の行く先はお前と同じだ。お前が選べば変わるに決まってんだろ」
 それを聞いて、僕の腕から力が抜ける。もー! と唸りながらベッドに伏せた。ぽんぽん、と手のひらが降ってくるから、苛立ち紛れに手首を掴んでぐっと引いてみる。案外簡単にきみは釣れて、地図を挟んでふたりでごろりとベッドに転がることになる。
 回転した視界の中に、半分のきみが倒れている。僕は手を引いたまま、きみの目を見た。
「恥ずかしいこと、言うよ」
「どーぞ?」
 なんでもう、きみはそんなにあっけらかんとしているんだ。つんと唇を尖らせる。いつだってきみに振り回されてばかりだ。
 けれど、それが僕にとって生きている軌跡なんだ。
「きみと行くところならどこでもいい。どこでも行きたい。きみが初めてのものを見るとき、いつもそれを見ていたい」
 真っ直ぐに目を見て言った。きみはくふりと吐息を溢した。なんだか楽しげに、赤い瞳が半月のかたちになる。
「恥ずかしい?」
「……恥ずかしいよ」
「じゃ、お前の恥に免じて頷いてやるよ。俺の初めて、全部お前にやる」
「そういう言い方しちゃ駄目でしょ……」
 はぁ、と溜め息を吐いて僕は反対側にごろりと寝返りを打った。僕、きみのこと好きって言った気がするよ。でもきみと来たら何の態度
も変えないで、僕をからかうんだから。
 きみはベッドの上を這って、頬杖を突き、地図を覗き込んだ。
「ラバナスタは美しい都らしい。青いタイルが貼られた荘厳な建物が立ってるんだと。交易で栄えたダルマスカだ、世界各地からやって来た数え切れない位のモノで溢れているって。『砂漠の蒼い宝石』なんて呼ぶ奴もいるくらいの都だ」
「ラバナスタに行きたい?」
「それだけじゃない。ここに描いてあるところ、全部気になってる。美味いもの、楽しいこと、綺麗なもの、出会いたいのは全部だ! いいだろ?」
 きみの手がぐいと僕の顎を掴んで振り向かせた。顔を上げると、そこには僕を覗き込むゼニスの姿がある。やんちゃな瞳は小さな頃と何にも変わらない。いつだってきみの、鮮やかに色を変える瞳を追うのが好きだった。
「お金を稼いで、準備を整えて……王都へ行く商人の護衛に乗れたら一番簡単?」
「だろうな。ヒトが多いところの方が仕事も沢山あるだろうし、遠く旅をしてきたヤツなんかを王都で探せたら、そいつを護衛してまた別の都市に行けるかも」
 シルキーさんは、僕らみたいな田舎者は簡単に搾取されやすいからと、しばらく面倒を見てくれるつもりらしい。長く旅を続けるなら、初めは堅実に覚えるのが良いだろう。付け焼き刃、行きあたりばったりできみを失ったりしたら泣くに泣けない。簡単と言って見せても、着実に踏まなきゃいけない階段は長く続いている。
「ねえ、ゼニス」
「うん?」
「世界って、広いね」
 大きな地図を撫でる。ほんの少し前まで、その広さを知る必要もなかった。でも、僕らは足を踏み出した。
「いいだろ、広くて。俺たちみたいなヴィエラが、一生飽きずに知らないことと出会い続けるなら、これくらい広くて丁度いい」
 うん、うん、と僕は頷いて。それから言葉を噛み砕いてほんの少し頬を染めた。ぐい、と覗き込む彼の顔を押しやって、地図を丸めて革紐で括る。そして寝台の脇のチェストの上に乗せ、さっさとシーツを被った。僕の足元で不満げにゼニスが座ったままだったが、もぞもぞとシーツの中で動いてどかす。頭を掻いて大人しく撤退した彼は、部屋の大きな灯りを消し、僕と同じようにもう一つのベッドに潜った。
 まるできみは、一生僕に初めてをくれるつもりみたいに聞こえてしまった。深読みだろうか。いやいや、でも、彼は簡単に恥ずかしいことをしてくるタイプだ。心の中で唸ってシーツを頭まで被る。
 月明かりが部屋に差し込んでいる。暗い中でも、闇に慣れていた僕らにこの都市は明るかった。
「レイニー」
 きみが呼ぶ声に、僕は反射的に顔を出した。赤い目が、ゆるく閉じていく。
「おやすみ」
 ああ、なんて幸せなんだろう。明日から、またきみと生きていく。きみに振り回される心臓が、僕は嫌ではないのだ。これから、ヴィエラの生の分だけ付き合ってくれるつもりのきみ。
「おやすみなさい、よい夢を」
 僕に見せてくれるだけのいい夢を、きみにも見せられるといいのだけど。