親愛なるあなたへ。

 アリゼーは、空を見上げて、小さく息を吐いた。極北に近い帝国の大地は、晴れ渡った空だとしてもきんと痛むほどに冷え込む寒さだ。けれども、赤く星が降っていたあの空を思えば、やや白んだ青空は泣きたくなるほどに美しい、平和の象徴だ。
 薄く光る太陽に向けて、手に持っていた小さな輪を翳す。少し歪みのあるその輪は、透明な樹脂を削ったものだろうか。宝石ほどの硬質な輝きはなく、サイズもまだ二次性徴前のエレゼンであるアリゼーにすら、ピンキーリングにしかならないだろう小ささ。それもその筈、帝国の子供が大切にする玩具のアクセサリーなのだから。
 知らず、口元が微笑む。先程助けた少女が、押し付けるようにして渡してきたものだ。

 咄嗟のことで、何も考えてはいなかった。終わりを終えた北の大地は、終わりを退けたとて日常には遠く、放棄された魔導兵器が市民も識別できずに瓦礫の間をうろついている。そんな壊れた起動音が響いたから、慌てて窺えば一人の小さなガレアン族の少女が宙を漂う魔導兵器に追い回されていた。守りたいと思う間もなく、体が動いただけ。
 ガラクタになって地面に落ちた魔導兵器を前にして、ほっと一息吐いたとき。庇っていた背後から衝撃が来て、振り向いたら、涙で目を光らせた少女がこれを差し出していたのだ。地下駅に避難している市民たちは、着のみ着のままで逃げ出したこの街の住民たちだ。
「貰えないわ、あなたの大切なものなんでしょう?」
 そんな少女が持っていたものだ。きっと、この廃墟の中でも抱きしめていた宝物だろう。屈んで諭すように顔を覗き込んだが、小さな少女はぶんぶんと勢いよく首を横に振り、アリゼーの手のひらの中にぐいぐいとそれを押し付けた。
 ふと、何かを探すような女性の声がして、少女はぱっと顔を上げた。それはこの子の名前だったのだろうか。アリゼーがそちらを振り向いたと同時に、少女は指輪をアリゼーの手の中に残して勢いよく走り出した。どんどん小さくなる小さな背中に手を伸ばしたが、彼女はすぐに、母親らしき女性とその護衛だろうか、軍服を着た人影に合流して足に突撃した。
 追いかけて、無理やり渡すことも出来たとは思う。けれど、恩を知らせるようで、気恥かしい。アリゼーは指輪を分厚いコートのポケットにしまい、市街地を歩き始めた。

 まだまだ、この国が国のまま居られるかどうかすら分からず、行く先には暗雲が立ち込めている。それでもだ。アリゼーはきらりと弱々しい太陽光にきらめく指輪に目を細めた。
 支援はまだ、十分とは言えない。この街に生活が取り戻される、スタートにすら立てたと言えるだろうか。やることは山積していて、何より外部の人間である私達が出来ることも限られていて。……許されるかどうかも、全員の心に聞くことも出来なくて。でも。小さな小さな感謝の塊が、勇気をくれるような気がした。
(また、……シャーレアンに戻った日の、箱にしまうものが増えたわね)
 照れたように笑い、兄が居るだろう公園に向かおうかと、くるり、踵を返したとき。
 そこでやっと、アリゼーは視線に気付いてはっと目を見開いた。振り返った先には、ひとつの影。アリゼーは頬を染め、拳を握り込んだ。
「ちょ、いつから」
「クポポ、クポー! アリゼーさん宛にレターが一通届いたクポー!」

 

 アリゼーは、むすりとした顔で煤けたベンチに腰掛け、受け取ったばかりの封筒を眺めた。
『アリゼー・ルヴェユール様』
 裏に返せば、見慣れた名前がひとつ。ずっと憧れていた、遠くて近い背中の、彼女の名前だ。あなたは、私の名前をこんな風に書くのね。アリゼー、と自分を呼ぶ声は、穏やかなものも、茶化すようなものも、緊迫したものも、いくらだって知っているのに、彼女の筆跡が示す名前がどんな響きであるか、私は、知らなかった。
 アリゼーはちらりと隣を見遣った。配達員なら、配達員らしくさっさと次に行きなさいよ。鋭さを纏わせた視線は、楽しげに微笑む細められた目に簡単にいなされた。白いため息を吐いて、アリゼーはかじかむ指先でぴりぴりと封筒の端を破った。駅の構内に戻れば丁度いいナイフがあるだろうが、これを読むのを知り合いに見られたくはなかったのだ。

『アリゼー様、お元気ですか』
 手紙はそんな、ありふれた一行で始まった。

 突然手紙なんて、驚いたでしょう。あなたも私も、ひとところに留まる人ではないから、親しみがなくて。せっかくだから、アルフィノに書き方を教えてもらっていれば良かった、なんて書き始めてから思ってしまいました。
 それでもあなたに手紙を送ろうと思ったのは、こうして、私達が遠く離れたからです。今まで、そう。離れたことがなかった訳ではない。私を見送ってくれたこともあったし、あなたを見送ったこともあった。隣に居るのに、遠く第一世界に先に呼ばれてしまったあなたと会うまで、しばらくかかったこともあった。隣に居なかったことはいくらでもあったのだけれど、いつだって私達は、同じものを追いかけていたから。離れているとは思わなかった。
 本音を言えば、少し焦っているのです。秘密結社という形で、私達は同じものを大切にする仲間であるし、表が見えなくなったからといって、簡単に切れてしまう仲ではないと信じています。だけど、私と違う目的を持って旅立ったあなたが、遠くに行ってしまうようで、少し怖かった。
 あなたはきっと、私に言ってみせたように、すぐに素敵なあなたになるでしょう。その一瞬を見逃してしまうのが、とんでもなく勿体ないと思ってしまった。ただでさえ、エレゼンの二次性徴は著しい変化をもたらすと言うのだもの。
 あなたと繋がっていたい。あなたを大切にしていたい。だから、慣れないかもしれないけれど、私に手紙を下さいませんか。
 旅の中で、私はあなたを何度も泣かせてしまった。私のような、ただ前を向いて走っているだけの存在を大切にしてくれて、泣いてくれて、共にあろうとしてくれたあなた。離れてから、どんなに大切であったか突き付けられているのです。
 あなたと私は別の地で歩いていく。何度だって交われるだろうけれど、ずっと隣には居ない。どうしたって素敵な人になるあなたを信用していない訳ではないのは信じてね。ただ、私があなたの成長を教えてほしいだけなのです。
 どうか、この思いが正しく伝わりますように。

 アリゼーは、赤くなった頬に指の背を当てて、深くため息を吐いた。ええ、そうよ、この赤さは寒さのせいなんだから。だから、こんな、舞い上がる気持ちをあなたに知られたくなんかなくって!
 なのに、どうして!
「手紙、直接あなたが持ってきたら何の意味もないじゃない!」
「意味ならあるよ、形に残るんだから」
「そうじゃなくって! ああ、もう、ほんとあなたって……」
「言っておくけど、私はきちんと配達士の資格を修めているんだから。ちゃあんと、お仕事です」
「そう、安心したわ……」
 誇らしげに微笑んでみせるのは、正真正銘、この手紙を書いた主である光の戦士その人だった。やれやれと首を横に振って、アリゼーはがっくりと項垂れた。世界中を飛び回るレターモーグリよりも、きっとこの人の方がどこまでも遠くまで行けるのだろう。そして、それをするだけの思い切りの良さが備わった人だった。
 ずるい、ずるい。いっつもこうして私を振り回すんだから。突き出した唇も、年上の彼女には可愛がられる要素にしかならないんだろう。
 嬉しくないわけ、ないじゃない。ずっと、憧れの背中だった。追い付きたくて、どこまでも走っていける。今だって、彼女と肩を並べたくて、誇れる私になりたくて、前を向き続けている。そんなあなたが、……。ずるい、とアリゼーは何度も心のなかで噛みしめるように呟いた。
「……あなた」
「うん?」
「あなたでも、……その、焦ることなんか、あるのね」 
 それも、私が、離れていくだなんてことで。アリゼーは目を合わせられず、雪をかぶる魔導キャリッジの残骸を見つめていた。
 正直、自分の憧れの感情の熱さなんて、向けられているこの人が一番知っているだろう。ラハを笑えないわ、とアリゼーは思う。大人たちのような対等に渡り合う関係とも少し違って、いつだって彼女は光る太陽で、常にそこにある目標だった。太陽から離れられるもんですか、なんて、言えるはずもないけれど。
 本当に分かっていないのかしら。この人、ちょっと鈍感なところがあるから。ちらり、ほんの少しだけ、アリゼーは隣に座る彼女を見た。
 彼女は、柔らかく微笑んだ。その暖かさに、どきりとする。
「うん、……アリゼーったら、指輪なんて貰っちゃってるし」
「こ、これは! ちっちゃな女の子からだし、玩具よ! ……っていうか、どこから見てたのよあなた!」
「あなたが勇ましく飛び出すところから。……あはは、加勢なんかしなくても、もう大丈夫なんだね」
「当たり前でしょ、こんなのアルフィノ一人でもやれる程度だしね?」
 ふう、と微笑みとともに彼女が息を細く吐いた。そして手が伸びて、そっとアリゼーの頬に触れる。まだ冷え切らないその熱に、赤く冷たい頬がじんわりとしびれた。
「ね、アリゼー」
 渋々、アリゼーは努めて真顔になって、彼女を振り向いた。仲間に対しては笑顔ばかりが浮かぶ彼女の、真剣な表情が、自分にだけ向けられていた。その静かな重さに、棘を出すことも忘れて唇を薄く開く。
 言葉は、見付からない。
「あなたは、これからもっと素敵になる。歳を重ねるたびに、いくらだってあなたは魅力的になっていく」
「……なに、よ。口説いてるの」
 絞り出した言葉に、いたずらっぽく彼女は笑った。
「……そうかもね?」
 指先は、頬の冷たさに馴染んでいく。
「……そうして、これから出会うすべてが、あなたに微笑んでほしいと願っているのは、本当。……だけど。なのにね」
 アリゼーは、どん、と勢いよく光の戦士の胸を押し、立ち上がった。瓦礫に座ったままの彼女は、驚いた顔でアリゼーを見上げている。
 そんなの。言葉にされたら何だか耐えられそうになかった。寂しそうなその瞳の影をなんと呼ぶのか、理解したら叫んで走るしかなくなってしまいそうだった。私のこれから出会う誰かに。……ヤキモチ妬きそうとか!
 勘違いならそうであって良いのだけれど、とにかくこの人には分かっていて貰わないといけないことがある。
「言っとくけどね!」
 びし、とアリゼーは光の戦士に向かって指を一本突き付けた。その顔は隠すまでもなく火照っていて、これを見たら、アルフィノですら何があったか尋ねるだろう。
「あなたの方が、私は心配なんだから! この、人たらし! 相手が誰でも構わずすーぐ飛び出して救っちゃって、そんなの、好きにならずにいるわけがないじゃないの、馬鹿ッ!」
 ぎゃん、と叫んだアリゼーに、彼女は目を見開いて、固まって。
 その後、彼女がどんな顔をしていたかは知る由もない。アリゼーが勢いよく逃げ出してしまったからだ。寒くて痛いガレマルドの気温が丁度良く感じるなんて、思いもしなかった。
 結局アリゼーは、散々身体を動かして戻った駅で、アルフィノに「何かあったのかい?」と尋ねられる。そして一言返すのだ。
 便箋と封筒、頂戴、と。