チョコボの翼が、風を捉えて大きく羽ばたく。人工の地下空間、ラヴィリンソスの限られた空であるが、降り注ぐ光と確かに感じられる風は北洋諸島の空よりも暖かく、どこまでも広がっていくように錯覚させる。
私は、チョコボの首を優しく撫でた。クエッ! と呼応して鳴いた彼は、緩やかに高度を下げていく。研究対象である魔物が歩くのを横目に、ここはエルピスに似ている、と思った。選別の対象は「大撤収の後に役立つ生き物」であったが、今後はどうなっていくのだろう。
びゅう、と風を切ってぐんぐん敷き詰められたタイルが近付いてくる。柔らかく羽ばたき、チョコボは逞しい脚で大地に降り立った。目的地はすぐそこだ。チョコボから飛び降り、乗せてきてくれた相棒の嘴をそっと撫でると、大きな瞳がゆっくりと瞬きをして、空へと飛び立っていく。
大撤収の発表の後、今まで秘匿されていたラヴィリンソスの下層は開かれた場所になった。リトルシャーレアンに暮らしていた研究者も、久しぶりに外に出られたのだろう。しかし、それでもまだ、一般に対しては隠された場所があった。
整然と敷き詰められた白いタイルの上を歩き、大きな扉を開く。風脈が途切れるように感じるのは、吹き上がるエーテルの濃度が濃すぎる故かもしれない。
タウマゼイン。驚嘆の名を冠した、どこよりも星の中心に近い場所。ここと果ての宙、ウルティマ・トゥーレの道を結ぶ、魔導船ラグナロクが停泊する星の港でもあるその場所に、自分から訪れるまで少しだけ時間が掛かった。何となく足が遠のいていたのは、眼前に渦巻く星の奔流を真っ直ぐに見据えることが出来なかったから、だった。
終末の騒動の渦中で世話になった職員がこちらに気付き、笑みを浮かべる。
「どうしたんです、魔導船に何かご用ですか?」
いいえ、とゆっくり首を横に振る。そうですか、と彼は答え、すぐに持っていたボードに再び視線を落とした。私が依頼やら、採集やらで、そこらをふらふらと歩いているのはさほど珍しいことでもない。アポリア本部に立ち入ることはそれなりに多く、彼らもそんな私を幾度となく目にしていたのかもしれない。
今日の私に、目的らしい目的はなかった。ただ、……遠くの海に、思いを馳せることが増えていて。耐えきれなかった、なんて、そんなところだろうか。
職員の邪魔にならないように、巨大な穴を取り巻くデッキの上を歩く。人の往来が少ない奥までやって来たところで、私は手すりに手を掛けて海の入り口を覗き込んだ。
この穴は、星海を知るための機構。ただし、当初の目的としていた「彼女」はもう、ここにはいない。声は聞こえないし、魂はほどけて、世界の一部になってしまった。この星の海に潜ったとしても、彼女に出会うことはない。
逆に言えば。手すりを掴む手に力が籠もった。
エーテル界は、かつて冥界と呼ばれていたのだという。死者の還る場所。死者の眠る世界。そこで、私は、かつて守れなかった人に背を押され、かつて私が殺し恨む魂を、また打ち払った。
それは、「無」にならなければ、彼らと逢えるということだ。
大切な人たちだった。言葉を交わすことは出来なかったけれど、それが誰であるか、分からない筈がなかった。死してなお、私達を信じて力を貸してくれた。
ああ、これは確かに、秘匿されるべきものだと、潜る前に聞いた言葉を私は心の中で繰り返したのだった。死した大切なあなたに、少しでも良いから触れていたいと、誰もが願わずには居られない。生きる人には、後悔がある。争いや災害による爪痕は未だ深く残っている。「それ」を知ったとき、どうしても、と縋る人はいくらでも居るのだろう。
生と死が分かたれているのには、意味がある。その方法があれど、安易にそれを乗り越えてはいけないのだと、私は超えたことで改めて知ったのだ。
胸元をぎゅっと握る。太陽の刻印を持つクリスタルに、もう魂を呼び覚ます力はない。あったとしても、その為に使ってはならない。
なのに私は、星の海に焦がれている。
彼を殺したのは私だ。
もうひとりの英雄の魂を乗せて全力で放った光は、彼の身体に大きな穴を開けた。
私が死ねば、それは多くの命が霊災によって死に、いずれ全ての生きる人がゾディアークに捧げられて絶える予定だった。同時に、彼が死ねば、二度と古代の善き人々が地上に生きる未来がないことを示していた。だからこそ、全ての力を使って私は、彼を殺した。
命を奪ったことなど、初めてではない。今でこそ英雄などと言われるが、私の両手は血にまみれている。
身を守るために賊を殺した。重犯罪を犯した人間を追いかけて殺した。敵国の兵を殺した。どうしても思想が対立した人を、殺した。今更清い英雄だなどと主張は出来ない。私は自分の信じるものを守るために殺してばかり来たのだ。
なのに、あの一人の最期が、私の脳裏を巡って離れてくれない。
知ってしまったから、だと思う。敵国にも理由があった、犯罪者にも理由があった。そう、後から知ることは出来た。蛮族と、家族を返せと彼らに居た仲間や家族に罵られることだって幾度となくあった。しかし私が「見た」のは、あくまでも対立した一面だった。だからずっと、狂わずにいられた。
彼とは少しだけ。ほんの少しだけ、旅をした。光が刺すラケティカの森で、彼は私達の問いに答え、私達の大切な仲間の命を救ってくれた。彼はコルシア島の昇降機の上で、寂しそうに語った。私達にも、家族や、恋人が居たと。
結局、彼らアシエンが起こしたことは、霊災による大量殺人である。だから、私達「今の人類」にとっては、敵でしかあり得なかった。私は彼の語る過去を手にとって眺めて、美しさに目を細めたけれど、最終的には、だからと言ってこの世界を明け渡すわけにはいかないと腹に穴を開けたのだ。
その旅路の後、残された私は幾度も手帳を捲った。自らとどめを刺しておいて、もしもを探してさまよった。忘れることなど出来る筈もない。彼の言葉を引きずって、私は来たる終末に立ち向かった。
それがまさか、「生きる彼」と再び言葉を交わすなんて。
きっと。彼が等身大の「人」であることを、私は知らなかったのだ。アシエン。古代人。永くを生き、帝国の父となった男。そんな冠ばかりが目を引いて、彼がただのひとりであったことに気付けないでいた。
エリディブスの残滓と引き換えに得た、エルピスへの旅路。そこでアゼムの使い魔として傍から彼らを見ていて。どうして、この世界は終わってしまうのだろうと、泣きたくなるほど胸が苦しくなった。もしも終わらせないことが出来ても、終わった未来の私が、それを見ることはない。
この人たちの日常が、遥か先まで続けばいいのに。ただ、笑っていてほしいと、触れ合う全てに思った。
最後は結局、変えることなど出来なかったけれど。
彼が友を、世界を愛していたこと。言葉の上では知っていた筈なのに、触れるまで知らなかった。知ってしまった私は、どうすればいい。
終わってしまってから、感情が募った。だけど、古代世界から戻ったあと、私はずっと走り続けた。終わらせないために。絶望からこの世界を守るために。過去を振り返る暇なんて有りはしなかった。
「彼女」から託されて、下を向いている余裕なんてなかった。旧き人の全てを私は手にして、彼らの繋がる未来を目指して走って、走って。辿り着いた宙の果てで。
俯いた瞳の中に、ぐるりと渦巻く星が煌めいた。ああ、だめだなと親指一本で雫を拭って捨てる。
全て終わってしばらく経って、息をついてからやっと。もう一度ここに来てしまったのは、とある夢を思い出したからだった。
星の海を潜るということは、生身の身体に、かつて誰かであったエーテルの奔流を浴びる行為と等しい。だからだろうか。奇妙な「夢」や「幻覚」を拾い上げてしまうことも、ままあるらしい。
アイティオン星晶鏡を降り、ハイデリンと話した後。決戦前の慌ただしさに浸る暇もなかったが、夢を見た。
水底から、明るい先を見上げる誰かの夢を。語るたびに、泡が口からこぼれていく。溶けそうな思考で、それでもかえれないと、とおい彼方を静かに見つめる夢。
あの声に私は、聞き覚えがあった。
「どうしますか? あなたが降りると言うのであれば、星晶鏡の準備は出来ますよ」
ぼんやりとしていた私は、自分が話し掛けられていたことに気付き、驚いて顔を上げた。ミコッテ族の職員は、そんな私に少し目を見開いた。
「クルルさんほど、あなたのエーテルを捉えられる自信はありませんが、皆、ずっと観察を続けてきた職員ですから。浅層であればご案内は出来るかと」
寄り添う声に、私は微笑んで首を横に振った。
私は無理やり、奇跡を起こしてしまったのだ。もうこれ以上、私のわがままで眠る彼らを起こすことなど出来やしない。あの日、クリスタルに込められた力とハイデリンの優しい魔法で彼らは目覚め、今に存在して、私に言葉を遺した。それ以上の贈り物はあってはいけない。彼らは死人で、私は生者なのだ。
「私が降りたりしたら、せっかく眠ってる色んな人が起きちゃいますから。私はここから覗き込むくらいが丁度いいんですよ」
声が震えないか、少しだけ緊張しながら笑いかける。下手くそな芝居だけど、言っていることは本当だ。職員は何かに気付いたように少しだけ目を開き、そして微笑んで頷くと、白衣を翻して持ち場へと戻っていった。
私が立ち上がらないと、みんなが心配しちゃうもの。……私は、もう一度みんなに会いたい。この、終末を遠ざけた先の世界で。違う姿になった、まっさらなみんなと。
曲げていた腰を伸ばして、私は胸を張って歩きはじめた。指を二本咥えて笛を吹くと、施設の入り口に向かって相棒が空を降りてくる姿が見えた。
私はまた、冒険に出掛ける。
でも、今日だけは。ナップルームで寝かせてね。
夢を見た、あの日のように。
目を開いたとき、視界は少し隠されていて、ちょっと邪魔だな、と私は思った。けれど私の身体は慣れたものらしく、きょろきょろと世界の全てに目移りしながら跳ねるように歩いていく。
夢だ、と明確に理解をした。夢の中で、私は誰かの身体に入っていた。超える力による過去視にも似ていたが、目に映る世界は鮮やかで美しく、生き生きと風に揺れていた。
「私」は何か大きな荷物を抱えて歩いているようだった。一抱えもある大きな袋の中には、ゴロゴロと丸い何かが詰まっている。
「おい」
私ははっとした。「私」は、にこりと満面の笑みを浮かべて、くるりと背後を振り返った。
そこには、仮面を付けた一人の古代人が立っていた。顔は半分見えないけれど、白い髪に、仮面の奥で光る金の瞳。低く、ぶっきらぼうな声に。誰かはすぐに分かった。
「ありがと、エメトセルク! きみのおかげでまたひとつ、村が救われたよ! ヒュトロダエウスにもいい土産話が出来た!」
朗らかな声で「私」は言った。エメトセルクは低く唸り、やれやれといった様子で首を横に振った。
「たまたま、私の出先で、大暴れしている、アゼムとかいう馬鹿を、見付けてしまった。ひどい不運だ」
ひとつひとつの言葉に棘を含めてみせるのだけれど、アゼムは全く気に留めていないようだ。
この夢は、過去の記憶なのかもしれない。魂に焼き付いた何でもない一日を再生機に掛けたような。古代と思しきのどかな農村の風景には、花が咲き乱れ、空を悠々と青い魚が飛んでいく。……アレ、サメか?
内側の私に手足や口を動かす権利はなく、アゼムの視界はくるくると変わった。彼女の手が袋の中に入り、丸のひとつを手に取った。
「ふふ、美味しそうなリンゴ! エメトセルク、どうやって食べようか」
「お前の報酬だろう、お前の好きにしろ」
取り出したのは、艷やかに光るリンゴの実だった。女性の片手でようやく持てるほどに大きいそれ。古代人の縮尺でそのサイズなのだから、現代の私が手にしたらどれ程の大きさになってしまうのだろう。全面が真っ赤に色付いていて、すぐにかぶり付きたくなりそうなほど。
しかし、両手で抱えていた袋が不安定になり、おっと、とアゼムは軽くよろけた。ぱんぱんに詰まっていた袋が傾いていくのに、横から手が伸びてきて抑える。顔を上げれば、エメトセルクの姿だ。
「お前、持ちきれない程なら転送魔法で送れば良いだろうが」
呆れた顔にそう言われたが、アゼムは袋の中にリンゴを戻し、改めて大事に抱え直した。
「何だか、味気ないじゃない? みんなの感謝の気持ち、重さを味わって帰りたい気分」
「お前は相変わらず非効率に生きているな」
「流石にアーモロートに戻る時は私ごと転送するけどね。転送紋まではこうしていたい」
よっと、と抱え直してまたスキップしそうな足取りで歩き出すアゼムに、エメトセルクは溜め息を吐いた。そしてぬっと袋の中に向かって手を伸ばす。
「ああっとエメトセルク! きみ私の話聞いてた!?」
「私が百を話した時、お前が聞いているのは大体一、多くて二くらいだろう」
「心外だな、十は聞いてる!」
エメトセルクがひょいとリンゴを持ち上げるから、アゼムはむっとした顔でそれを視線で辿った。が、すぐに笑顔になる。エメトセルクが宙を指でくるくるとなぞると、蔓で編まれた籠が生み出された。持ち上げたリンゴはその中に。ひょいひょいと運んで、大体元々の袋の中身は半分になった。
リンゴで満ちた籠を片手に持つエメトセルクは、何だか気が抜ける程に似合わなくて、私は少し心の中で笑ってしまった。けれど、その姿はじわじわと柔らかな光となって胸を内側から染め上げるのだ。
アゼムは、エメトセルクを見上げて微笑んだ。
(あ……)
素っ気なく、を装ったが、照れが滲む横顔はすぐに歩調を速めて、後ろ姿になる。少し猫背の、真っ黒なローブの青年。アゼムは残った半分を、そっと抱き締めた。そして横に並ぶために走り始める。
気付いてしまった。この胸を染め上げる光は、彼女から生み出されたものだ。いじらしくて、可愛い人だなぁ、なんて。思う心の声が胸の中で響いている。
「落として傷めたら元も子もないだろうが。少しは頭を働かせろ」
「いっつもきみはそうだねぇ。つっけんどんな言い方するけど、本当は」
「うるさい、今すぐ転送紋を開いてお前の部屋に送り付けてやる」
「待った待った! 私はきみと一緒に帰る思い出を作りたい!」
「ストレートな物言いをするな、恥ずかしい」
隣に並んだアゼムは、周囲の様々なものに視線を遣った。まるで、このひと時を頭の奥の転写機に全て収めるかのように。
これは、紛れもなく。彼と彼女の、幸せだった。
「そうだ、きみ、新しいファダニエルの好物、知ってる?」
「……ファダニエルの? 職務に何の関係がある」
「同僚だもの、仲良くなっておくに越したことないでしょ?」
新しい、ファダニエル。私は少し驚いた。話を聞くに、私がエルピスで過ごした少し後の時間軸らしい。既にメーティオンは終末に向けて動き出した後ではあるのだろうが……メーティオンを喪ったヘルメスにも、この時とひと続きの平穏があったと知って、心の中で息を吐く。
エメトセルクは、大仰な仕草で宙を手で払った。
「お前、人たらしも大概にしておけよ」
「ちなみにエルピスで聞いた彼の好物は砂糖のリンゴ漬けだよ。たまにこれだけ食べて生きてるんだって」
「甘ったるい、アイツはペタルダか。……いやお前、逆じゃないか」
「どっちが主体か分からないほど砂糖を入れるのがコツらしい。きみも食べてみる?」
「いらん」
エメトセルクはそっぽを向いている。アゼムは楽しそうにけらけらと笑った。袋の重みを愛おしむように、紙でできた袋を手のひらで撫でている。
しばらく、足音だけが続いた。きっと創造魔法で使い魔を作り、空を駆けていくことだって出来るのだろうに、彼と彼女は歩調を合わせて一歩ずつ歩くのも悪くない、そんな風に思っていたのだろう。むすりと黙り込んだエメトセルクと、鼻歌でも歌い出しそうなアゼムにはコントラストがあったが、不思議と纏う空気は柔らかいのだ。
不意にエメトセルクが口を開いた。
「お前、それにしてもファダニエルに構うものだな。同情する」
「ええー? 確かに彼、内向的だけど、私が好きで構ってるんだよ」
「いや、お前じゃなくてファダニエルに。こんなのに寄られ、懐かれ……」
「私のことは珍創造生物と思えば可愛いものじゃない?」
「自分で言うか」
小高い丘へと道が続いていて、二人はゆっくりと歩いた。少し登っていくと、先の景色が少し見えてくる。アーモロートほど高層の四角い建物が並ぶ景観ではないが、周囲の景色と調和する白い石造りの建物が並ぶ、ひとつの街が見えた。見れば中央には大きなエーテライトがそびえていて、おそらくあれが彼女たちの一旦の目的地だったのだろう。
丘の上で、アゼムは立ち止まった。優しく吹く風がローブの裾を巻いてはためかせる。眩しそうに目を眇める彼女の姿に、数歩先を行ったエメトセルクが怪訝そうに振り返った。
「……寂しそうにするんだもの。ねぇ」
ぽつんと口にしたのは、ファダニエルのことか。主語のない言葉に、エメトセルクはついと視線を外した。
「……見た目は頼りないかもしれないが、先代が推薦するだけの知識と技量がアイツにはある。委員会の職責において問題があるとは思わない」
「そうだね、全を大切にするのなら、決して間違った見方ではないのだと思うよ」
でもね、とアゼムは軽く目を伏せた。風が髪を浚って吹き上げる。
「一人は考えを悪くさせる。隣に居るのに、一人ぼっちの目をしている人なんか、放っておけないじゃない」
エメトセルクはアゼムを再びじいと見据え。荒く溜め息を吐き、大股で数歩分、近付いた。
そして、大きな手でアゼムの頭を軽く乱した。
「お前ひとりでどこまで出来る? 世界中に博愛を振り撒くために、お前の分体でも創ってばら撒いてみるか?」
「あっ」
「なるほどって顔をするな」
「ごめんて」
エメトセルクは仮面の上から額を押さえ、背を丸めた。アゼムは両手が塞がったまま、エメトセルクに向かって軽く肘でつつく。
「ま、たくさんの分体は現実的じゃない。ファダニエルには一個確保しておくとして……まずは私が配れるだけリンゴのパイを配ることで手を打とうじゃないか。エリディブスとか甘い物好きだったよね? まだ若い子だし」
「博愛主義も行き過ぎると毒だな」
「きみにとって?」
エメトセルクがゆるりと顔を上げて、仮面の奥から睨むのが見えた。アゼムは笑った。
アゼムは、よく笑うヒトだった。ずっと楽しげに、全てに微笑むように笑顔を浮かべてばかりいた。だけど、私だから分かるのだ。
「大丈夫、大切にしたいものは、見えているよ」
彼女は、たしかに。
目を開くと、そこはたくさんの人が寝泊まりをし、生きる痕跡を残した仮眠室だった。よく手入れされたふかふかのベッド、サラサラのシーツの上で、私は軽く身を起こす。北洋諸島の朝の冷たさが、私の頬の雫を室内でも冷やしていた。
瞬きをすると、ぼろりと大粒の雫が溢れた。喪った大切の大きさに、私は顔を覆った。肩が震える。
私の分割された魂にも遺るくらい。彼女は確かに、人を愛した。人を、愛していたのだ。終末でアゼムがどう生きたのか、私は知らない。けれど、彼を残すことに何も思わなかったとは思えない。
彼女の想いに引きずられたのか。私の心に聞いても、分からない。私の内側には、ぽっかりと穴が空いていた。眠る彼らの想いのために、私はこの穴をどうすることも出来ない。生者の感情で揺り動かしてはいけないのだ。私はどうあれ、この穴とともに生きる。
「おっはよー、よく眠れ……あれぇ? ちょっと、どうしちゃったのさぁ?」
泣くのに慣れていなくて、ごしごしと目元を擦って誤魔化したのがいけなかった。バルデシオン分館の管理人であるオジカ・ツンジカがこちらを見るなり、ぎょっとした顔をした。私はくしゃりと顔を歪めて、曖昧に笑った。
「こういう時はコーヒーじゃなくてココアだよねぇー、飲める?」
オジカは私をナップルームに押し戻すと、キッチンに駆けていった。世話をかけるなぁ、と少し情けなく思いながら、ベッドの端に座って彼を待つ。しばらく経つと、ほこほこと湯気の立つ可愛らしい色合いのマグカップをふたつ、手にして戻ってきた。違う形をしているのは、バルデシオン委員会の誰かの私物故だろうか。
受け取って両手で覆うと、シャーレアン特製らしいそれは、温かいけれど火傷するほどの熱さはない。気を付けて飲んでね、と言ったオジカは、一人がけの椅子をガタガタと引き摺り、ベッドの脇に据えて腰掛けた。
「何があったか、聞いた方がいい?」
彼の言葉に、私は少し迷って、首を横に振った。まるで恋のようなこれは、今やっと私が見付けたばかりのものだ。他人に言えたようなものではない。オジカは、そっかぁ〜、と朗らかに答えて、ココアに口を付けた。
私もココアをひとくち。ミルクでよく練られたそれは、まったりと甘く濃厚だ。思ったより熱かったから、唇をちろりと舐めて冷ます。聞いてほしくはないけれど、聞いてみたいことならひとつある。
ねぇ、と小さく口を開くと、オジカは大きな瞳をこちらに向けて、目を細めた。
「聞きたいことでもある感じ〜?」
私はひとつ頷いた。ココアの水面をふう、と吹くと、クリームの泡が縁へ向かってなめらかに滑っていく。ずず、と甘い液体を口に含み、ごくりと嚥下する。
私は小さな声で囁いた。
「……帰らぬ人に、抱いた気持ちは。……どうすれば、良いと思う?」
オジカは驚いたように、縦長の瞳孔を縮めた。そりゃあ、私からそんな言葉が出たら、どんな仲間でも驚いただろう。ふ、と笑う吐息が零れる。口に出してみたら、何だか笑えてきてしまったのだ。
しかしオジカは、真面目な顔で顎に指を当てた。
「……大変な状況に向かうことになった皆を、ただ待つだけの俺だったからねぇ。どれだけ救えなかったか……、俺に正しく理解できるとは、到底思えないんだけどさ?」
オジカは、壁に貼られたメモに瞳を向けた。バル島の消滅とともに失われた命たちのかけらがそこにはあった。次の行き先や、これから買ってくるもののメモ。メモに対する別の書き込みもある。それらはこの部屋の一部として、静かに鎮座していて。……そして、少し埃を被って光に変色を起こしていた。
遠く、見つめる先はどれだけの仲間が居たのだろう。オジカは、小さく笑った。
「……帰ってくるような気がして、今日もサラサラのベッドを用意してる。……でも、知ってるんだ。帰ってこないこと。だから、今日も俺は普通に生きてるよ」
「…………」
私は、混ざる水面を見詰めた。濁るそれは、ぐるぐると渦を巻いている。
「いつか。俺たちは星に還るでしょ? ……獣になって、エーテルが何もなくなっちゃった人は、もうかえる場所がない。でも、俺たちは何とか生きてる。……あはは、次に会ったら、色々教えてやるつもりなんだ。見ない間にこんなすごいことが世界には起きてるって!」
彼は顔を上げた。その少し潤む瞳に、私は胸が詰まった。みんな、失くしている。それでも、生きている。
「いっぱい、土産話をするんだ。もちろん、さっさと生まれてきて、新しい誰かに語るんでも構わないけどねぇ? だから、……なくならない限り、終わってないってさ。魔法大学でも分からない先のことだとしても、信じるのは自由じゃない?」
私は、笑おうとして、ぐしゃりと顔が歪んだ。ぽつりぽつり、湖面に向かって塩辛い水が落ちていく。
ココアを飲み干す頃には、私の涙は枯れていた。オジカは満足したように私の分のマグカップも持って、部屋を後にした。窓のない部屋に残された私は、椅子を移動させて、デスクに分厚い手帳を広げた。
愛用の手帳には、今までの足跡が全て残っている。そのよれたページに、震える指を滑らせた。
いつか、私は土産話を持って逢いに行く。それまで、私はこの世界を歩いていく。今出会える全てと語らいながら、生者の世界を生きていく。
その果てで、待っていてくれるかなんて分からないけれど。私に星海は遠い場所だ。どこよりも遠い、行き着く場所。全て終わった時、私が眠りに就いたなら。
その時はきっと、新しい世界を。
新しい頁は美しく、心を躍らせるだろう。
また出会ったあなたと旅をするのが、今から楽しみだ。
