「祈る、って言葉を知っているかい?」
アゼムはベッドの中からだらりと半身を垂らして、行儀悪く鞄の中身を漁っていた。普段はローブに隠れている肌が、月明かりに白く浮き上がっている。ごそごそと音を立てているが、いつも適当に物を拾っては突っ込んでいる鞄からは、ろくに品物が探し出せないようだった。
枕に頭を預けて眺めていたエメトセルクは、ふんと鼻を鳴らした。
「その程度は知っている。上位の存在に願うという概念だろう」
この世界の管理者は、人だ。世界に存在する命を含めた物質のことごとくは、人の手によって創り出せるものである。つまるところ、生きる人こそが至上であって、さらに上位の存在など、想像の産物でしかない。
確かに人にも為せぬ業というものは存在する。死んでは灰から生まれ来る不死鳥の創造も、数多くの人が挑戦しては紛い物を生み出してきた奇跡と呼べる御業だった。しかしそれも、当代ラハブレアの技術により空想ではなくなった。今は不可能とされているものも、いずれ人は解明し、探求し、創り上げていくのだろう。
「そう。上位の存在……っていうと奇妙だなぁ。かみさま、だってさ」
あった、とアゼムは呟き、目的のものを鞄の中から取り上げた。エメトセルクの隣に戻ってきたアゼムが、よっこいせ、と気の抜ける言葉とともにふかふかの枕に頭を預ける。
手に持っていたのは、彼女の愛用の手帳だ。旅をする彼女を知る人間なら、彼女が歩きながら何かを書き付けている姿を見たことがあるだろう。こだわりがあるようで、革のカバーを掛けたそれの中身となる冊子は、彼女の机の引き出しにいつもストックされている。天から伸びた栞紐を引いて、アゼムはあるページを開いた。
そこには、華美な装飾を身に着けた人間の絵が描いてあった。傾けて見せられたエメトセルクは眉間に皺を寄せた。アゼムがくすくすと笑う。
「ついこの間、海を越えた先に行ってきただろう? これはそこの人が想像した『神様』さ」
神。万能の力を持つという存在。それこそ想像の産物であるが、創り出される前から物語として語られてきた幻想生物などよりも、人の間における認知度は低い。
世界にとってこうあればいい、と創造へ繋がる空想とも趣が違って、それは「仮にそんなものがあったなら」という弁論のためのアイデアに過ぎない。弁論のためのネタを探し尽くす一部の市民の間で出てきた、ある種の共通認識のようなものであって、実際の世界には関わりのないことだ。
アゼムは楽しそうに絵の縁を指先でなぞった。
「神様と言ってもだね? 万能のそれではないんだって。人と対等な使い魔、が一番近いかな」
「……人と対等であれば、それは使い魔とは呼べないんじゃないか」
使い魔とは、人の手で創られ、人に従い、与えられた役目を全うするためだけに存在するものだ。自ら使命を選び出す人とは、全くその有り様が違う。生まれるのも、消されるのも、人の意思のほか、ありえない。
「そう、だから使い魔じゃないの。神様。彼らは、神様がいたずらをすると考えてみたんだって。私達が迷うとき、神様が悩め悩めと、足を引っ張っているに違いない、と」
「……出来ない理由を、想像の存在に委ねてみたと?」
「ね、きみには絶対に納得できない概念だと思って、興味深くて色々聞いてきたのさ」
これは、木にまつわるもの。これは水。これは鳥。アゼムはスケッチを指さした。人ほど様々なことが出来ない代わりに、司るもの、それのみに限れば人の御業にすら影響してみせるという。
「オカルトだな」
妙に心がざわつくのは、理論が通っていないことだと思うからかもしれない。エメトセルクは溜め息を吐いた。不可能は確かに存在する。しかし人の力があれば、長く世代を重ねていくうちに、いずれ何もかもを解き明かすであろう。今成せないことは、たった今、そうであったという事実しかない。何が影響したものでもない。
「ねぇ、エメトセルク」
アゼムは空っぽのページを開き、クリーム色の用紙を指先でくるくると撫でた。
歌うようにアゼムは訊ねる。
「また明日から、私は新たな旅に征く訳だけれど。私の旅の無事を祈ってくれるかい?」
エメトセルクは、アゼムの手から手帳をそっと奪い、ぱたりと閉じた。彼女から遠ざけるように、ベッドの反対に据えられたチェストの上に置く。
あ、と追った手を、エメトセルクの手が絡めた。細く白いが、創造を編むよりも、創り出した武器を持ち、駆ける方が馴染んでしまった手だ。
不可能を、いくつも力尽くでこじ開けてきた、手だ。
絡めた手を引き、エメトセルクはその甲に唇を触れさせた。アゼムは驚いて金の瞳を見つめたが、その色を見てふにゃりと目尻を溶かした。
「信じている」
何に祈ることもない。ただ、それを成す女であると。知っている。それだけだった。
