エンドロールは終わらない

 腰を曲げて、姉がオーブンを覗いている。辺りにはチーズが焦げる香ばしい香りが漂っていた。じゅわ、と滲んだ唾液をヒカリはごくんと飲み込んだ。
「どう?」
「いい感じ〜。もうちょっと!」
 背筋を伸ばしたアゼムは、振り返ってオーケーのサインを作った。広いキッチンには、あとはもう運ぶだけの大皿が並び、手を付けられるのを待っている。
「地中海料理、だっけ」
「そうそう。いいオーブンあるっていうからさぁ。ウチで出来ない料理作ってみたくって」
 姉に頼んで引っ越しの準備をしたヒカリは、移り住んだ豪邸に目を回してばかりだった。ハウスキーパーが入っている家は、個人宅だと言うのにどこもかしこもピカピカで、まるでホテルのようだったのだ。おまけに家電はそれぞれリンクして作動する、いわゆるスマート家電というやつばかりで。
 どこに触るにもおっかなびっくりだったが、元来好奇心はある方である。特に初めて訪れた翌朝から触らせてもらったキッチンは宝の山。こんな機能がある、と纏めてあった説明書を読んでは、アゼムに報告していた。
 ヒカリもそれなりに手際よく自炊をする方だが、アゼムの方がレパートリーは多い。ビルトインタイプのオーブンまであるの、と教えたところ「触りたい!」と即座に返事があったのだ。古くからの友人たちにも突然同棲を始めたことは言いづらく、職場の同僚達には関係を隠している身。それでも、やっぱり、自慢したい。すごいキッチンは、すごい!
 エメトセルクに「お姉ちゃんを呼んでもいいですか?」と訊ねると、二つ返事で了承が得られた。いいワインを仕入れておくか。私もあいつらに聞きたいことはあるからな。そう、にやりと笑われて、そういえば姉と彼との成就祝いもしていなかったと思い出す。好きに使えとお墨付きを貰い、早速エメトセルク邸での食事会の日取りを決めにかかったのだった。
 ヒカリの姉は、行動力の鬼だ。恋人は、振り回されるのに慣れている。提示した日取りは、見せるなり決定事項になり、次の土曜日、食材を抱えた二人と、何故か後ろからひょこりと顔を覗かせた三人共通の親友が訪れ。つつがなく、晩餐の準備が始まる。
 メインシェフはアゼム、ヒカリはサポートメンバーである。容赦なくあらゆる戸棚を開け、瞬く間に空間を把握したアゼムの調理を手伝いながら、色々な話をした。リビングでも、男三人で楽しんでいるようだった。
 隙間の時間で片付けを並行して行い、最後の焼き上がりを待つ時間は、姉妹二人で、シンクにもたれて横並び。アゼムはヒカリに笑いかけた。
「私ね、おにいちゃんは一生独身だと思ってたの」
 ヒカリは苦笑した。
「……あの人も驚いてた。誰かと暮らすなんて、もう無いと思ってたって」
「でも、本当にそうかな? って。私、思っちゃったんだなぁ」
「どういうこと?」
 首を傾げるヒカリに、アゼムはキッチンをぐるりと見渡した。
「彼、料理しないでしょ」
「うん。使ってたのは、依頼を受けたときに食事の準備するハウスキーパーさんだったって」
「……お金使うところがもうないから注いだだけ、とかなんとか、あの人なら言いそうなものだけど」
 ふぅ、と息を細く吐いて、指先を磨き上げられたシンクに滑らせる。水滴が広げられ、きゅきゅ、と高い音が立った。横目でヒカリを見つめた姉は、にんまり、唇を横に引き伸ばした。
「今日初めてツラを拝んだわけだが、私にはきみが初めてキッチンに立ったときの彼の表情が見えるようだよ」
 ヒカリは宙を見上げた。どう、だったかな。思い出せない。彼のシャツ一枚という頼りない格好で立ったヒカリは、どこに何があるのか、どこまで侵食して良いものか迷って、ずっとおろおろしていたのだから。
 ううん、と唸って首を横に振ると、耳元で小さく金具が揺れた。アゼムの指先が伸ばされる。そっと触れて、アゼムが目を細める。
「かわいいね。彼のセンス?」
「……うん、そう。着けると、その、喜んでくれるから。外に出ないときも、気分で色々。……贅沢すぎるかな」
「いいんだよ、それで。……ふふ、釣った魚に餌をやるマメさはありそうだものな、おにいちゃん」
「あの、ちょっと頻度が高すぎるとは私も思ってるところ……」
「そうしたらあれじゃない?」
 アゼムがいたずらっぽく笑った。手を広げて、とんとん、ともう片方の指でつつく。
「ずしんと重たいやつが、一個だけ欲しいって言ったら?」
 指し示したのは薬指だ。ヒカリは顔を真っ赤にした。俯き、何を告げれば良いのか分からず、顔を姉から軽く背ける。
 ん? ん? と、どこぞのヤカラのようにずいずいと下から顔を近付ける姉に、ヒカリはシャツの胸元へと手を突っ込んだ。細いチェーンを手繰り、まとめて引き出す。
 チェーンの先には、銀色に光る華奢な輪が、揺れていた。
 ぽかん、と隣で口を開ける姉に、ヒカリは更に顔を熱くしてシャツの中にしまいこんだ。両手でその上を押さえ付け、もう見せないのサインだ。
「ちょ、おま……手が早い!」
 叫ぶアゼムに、慌てて首を振る。
「あの、正式なあれではなくて! ちょっと虫除けにしろくらいのそういう、軽い感じで貰ったやつだから!」
「ペアリングだろ。薬指測られただろ」
「あっ、う、えっと……」
 どちらも正解だ。口籠るヒカリの足元で、オーブンが設定した時間の終了を告げた。お姉ちゃん! と気を取り直して呼び掛けると、分厚いミトンを装備したアゼムが、おう! と返事をした。
「ヒカリは他の運んどいて」
「わかった!」
 どうにか切り抜けられたらしい。そそくさと大皿を片手ずつに乗せてキッチンを飛び出す。
 リビングで話していた三人は、ヒカリの登場に揃って振り返った。満面の笑みのヒュトロダエウス、気まずそうなハーデス、そして上機嫌らしいエメトセルク。……少しロクな盛り上がり方ではなかったような気がしたが、気付かないふりをしてテーブルに近付く。
「これ、そっちにお願いします」
「うん、わかったよ。他のも取りに行く?」
「あ、はい! 頼んでもいいですか?」
「どれ、私はワインを取ってくるか」
「エメトセルク、ワタシも飲みたい!」
「駄目だ。帰れ」
「フフ、しょうがないなぁ」
「もちろんお前もだぞ」
「誰が好き好んで『愛の巣』なんかに宿泊するか」
 一斉にわらわらと動き始め、取り皿に、ナイフにフォーク、マットが人数分並ぶ。
 広いとはいえ、キッチンに何人も居たら邪魔かなぁ、と小間物を配置しながら、そういえば、とヒカリは思った。彼以外の人の気配はあまりしないのに、買ってこなくたってカトラリーは揃っていた。大皿だって、食器棚の中に。耐熱皿までどっしりと。口元に手を当て、ふふ、と小さく笑う。
 案外、こういう日が来るのを、楽しみにしていたのかもしれない。
「はーい、危ないよ〜、どいてどいて〜」
 オーブンから出したてのずっしりムサカは、アゼムから奪えなかったらしい。ハーデスとヒュトロダエウスを従えてやって来たアゼムが、鍋敷きの敷かれたテーブルの空きスペースに耐熱皿を置いた。
 ボウルには色鮮やかなサラダ。スープ皿には、たっぷり野菜のミネストローネ。ローストビーフはアゼムがほったらかしで予熱を入れた自信作だ。薄切りバゲットにはチーズやハム、トマトやアボカドが乗せられて、花びらのように並べられていた。
 エメトセルクがワインのコルクを抜いている。エプロンを外したアゼムとヒカリも席につき、それぞれ空いたグラスを前に視線を向けていた。アゼムがボトルのキャップを外し、赤い葡萄ジュースをヒュトロダエウスのグラスに注いでやっている。
 傾けられたグラスに向けて、赤い雫が順番に。吊るされたランプの下、話のタネは勢ぞろいだ。誰から、何から、聞き出してやろうか。そっくりの顔が二組、わくわくの友人が一人。
 誰が音頭を取るでもなく、皆揃ってグラスの脚を掴んだ。顔の高さに掲げて、笑顔を浮かべる。
「乾杯!」
 さぁ、ゆっくり、話をしよう。
 これまでと。これからのことを!