「アゼム」の恋

 つま先をそっと降ろすと、清流が素肌に当たって飛沫を上げた。穏やかな日差しのもと、透明な水はキラキラと眩く反射して、晒された足に光を写し込んだ。岩場に腰掛けて手を水面に滑らせると、銀色の魚たちがするすると上流に向かって泳いでいく。
 アゼムは、自分を呼ぶ声に顔を上げた。見れば白いローブを着たヴェーネスが、屋敷の入り口から手を振っている。
「お茶の準備が出来ましたよ」
「本当に手伝わなくて良かったの?」
「あまりここを訪ねてくる人もありませんから。手ずからもてなすのが喜びであることは、あなたもよく知っているでしょう?」
 穏やかに語るとヴェーネスは、大地を踏みしめて小川へと近付いた。川に影を落とす木の枝には、黒いローブがはためいている。冷たい水へと足を着け、火照った身体を冷やすアゼムの着衣は簡素なカミーズとショートパンツのみだが、肌を出すな、個性を隠せと常識で絡める人間はこの場には一人も居ない。
 ヴェーネスは微笑んだ。
「あなたに何か迷いがあると、感じていたのは間違いでは無かったようですね」
「ほんと、師匠は何でもお見通しだね」
「いいえ、私にも分からないことは山ほど。けれど、あなたの剣はとても正直なのよ」
 たまにはいらっしゃい、ゆっくり話が出来たら嬉しいわ。そう言って、ヴェーネスは街外れに建つ自身の家へと彼女を招いた。お互い旅ばかりで、ひとところに留まらない性質の人間だ。惹かれ合うように、旅先で出会うことこそ稀にあるが、示し合わせて約束することはあまりない。
 だから、何か理由があるのだろうとアゼム自身も思っていたのだが……。理由は、どうやら自分の中にあるものだったようだ。空を見上げると、青い空に薄い雲がベールのように流れている。風が静かに流れていて、庭に自然と茂る、美しい花の香りを運んでいた。頂点からは少しずれた陽光も、いつもと変わらず平穏にその光を降らせている。平和そのものの風景だ。
 ちゃぷ、と水を跳ね上げて、アゼムは岩の上に登った。宙から取り出したタオルで水を吸い取り、サンダルを引っ掛けてヴェーネスへと近付いた。花の香りに混じって、香ばしい焼き菓子の匂いがしている。
 庭には、一対のガーデンテーブルが据えられていて、上には茶器が既に置かれていた。その片方に腰を下ろすと、屋敷に一度戻ったヴェーネスが菓子を持って現れる。皿に載っているのは円形のタルトとナイフだ。途端に目を輝かせたアゼムにヴェーネスは小さく笑って、タルトをテーブルに置くとナイフを手に取った。
 通常、二人で食べるには少し多い量なのだろうが、アゼムは食事という行為を好んでいた。補えない分のエーテルの摂取ばかりが、その理由にはならない。ともに分かち合う時そのものが、彼女にとっての食事の意味だった。
 切り分けたチーズタルトを、アゼムの前の小皿にひとつ。自分の皿にも取り分けて、ヴェーネスはアゼムの向かいの椅子へと腰掛けた。アゼムがポットから注いだお茶を手にしたヴェーネスの青い瞳が、ゆらりと星のようにきらめく。
「あなたが悩んでいることは、何かしら」
 さくり、銀のフォークがタルトの先端を分けると、切っ先で捉えて口元へと運ぶ。薄くジャムの塗られた表面は程よく甘酸っぱい。まったりと濃厚な味わいは幸せを運んでくれるが、アゼムの表情を晴らすまでには至らなかった。
 ゆっくり咀嚼している間も、アゼムの視線はテーブルに落ちたままだ。色とりどりのガラスで作られた表面を視線がなぞって、ようやく、こくん、と嚥下する。
 ちろりと唇を舐めて、息をひとつ。
「特別がもし、出来てしまったらと、思うんだ」
 アゼムは懺悔するようにそう呟いた。
 全てを掬い取るには、その言葉はあまりにも少ない。ヴェーネスは角砂糖をひとつ水面に落とし、くるりとスプーンでかき混ぜた。
「特別、ですか」
「……そう。特別な、ひと。世界中で私がこれを聞ける相手は、『アゼム』の他には居ないと思う」
 ヴェーネスは、いつもの笑顔のない、当代アゼムを静かに見据えた。人は今の彼女のことを、らしくないと言うかもしれない。けれども、ひっそりと向かい合うこの表情もまた、彼女の既に持っている顔のひとつだった。
 カップに口を付けたヴェーネスは、吐息とともに微笑んだ。
「恋を、しているのね」
「……恋。そうなのかな。あなたが言うなら、そうなのかも」
「私はそう、名付けてみただけよ。答えは、あなたが決めるもの」
 驚いたように睫毛を揺らしたアゼムに、ヴェーネスは心の中で小さく苦笑した。あなたと出会ってから、もうそんなに時が経っていたかしら。還りそこねた命は、長い時を知らずに過ごしている。旅の最中で彼女と出会い、弟子として成長を見守った日々は、ほんの少し前のことのように思える。今やもう、彼女自身がアゼムと名乗る人間だ。立派にアゼムとしての職責を果たし、その使命と向かい合っている。いつまでも子供でいる筈がない。
「アゼムは、全てのひとの困難に寄り添う存在であると、私は思っている。ひとを愛せとあなたに教わったし、私自身も、そうであるべきと、生きていて学んだ」
 世界に起こる困難を、聞いて、感じて、考える。人の中に在って、掬い上げる。どんな時でも、世界を守る目であるように、生身の人と生きていく。
 実際に動く彼女は、目の前の悩みにひとつずつ取り組む訳であるから、成すことは小さなものの積み重ね、小さな範囲で収まる仕事。しかし、それは広く全ての命を愛してこそ、成すことだ。
「正直に言うと、怖くて」
 アゼムは目を伏せ、そう吐露した。その操るフォークは、タルトの表面に刺さり、優しく本体から削り取る。欠けたタルトを見つめる視線は、ぐらりと大きく揺れている。
「判断が鈍るのが怖い。ひとりを愛して、思考が変わってしまうのが怖い。全てを見つめることが出来ないなら、それはアゼムじゃない。私が目を逸らしている間に大切なものを見逃してしまったら。それを思うと、怖くて。捨てなきゃと、思って」
 十四人委員会に属した者は、元来持って生まれた名ではなく、職責を表す座の名前で呼ばれるのが通例だ。
 それは、この広い世界を管理する人の中でも、特に使命と存在が結び付いていることの証左に他ならない。だから多くの者は、職責の終わりと共にその命を終える。座に就いた時点で、個人は優先されるものではなくなる、とも言える。ヴェーネスのように在り続ける人は、長い歴史の中でもそう多くはない。
「あなたは、愛が有限であると思っているのね」
 それは、分ければ質量の減るタルトのように。ひとりの持つそれを均等に切り分けて、配分していると。アゼムが視線を持ち上げた。ヴェーネスは目を細めて彼女の輝く瞳を見つめている。
「大丈夫。あなたが人を愛したって、心は溢れるばかりでしょう。想いは無限に湧いてくるもの。あなたがアゼムでなくなるなんて、とても私には想像が出来ないわ」
 アゼムはそれを聞いて、小さく鼻を啜った。俯いても、仮面のないその顔は、木の葉を写して注ぐ陽光のに照らされている。ヴェーネスは、いたずらっぽく笑った。
「私も、あなたも、人なのですよ。アーテリスの全てに目を向けて、全てを均等に愛することは、人の身ではとても叶わないことよ。そうあれと創られていない身の私達だけれど、だからこそ、そうあろうと賢明に生きている。それだけで、十分なのではありませんか?」
「ヴェーネス……」
 アゼムはようやく、その寄せていた眉を緩めた。長い旅を続けるヴェーネスにだって、大切な弟子の笑顔は特別だ。人の中で生きるのに、誰も好くことがないのなら、それこそアゼムの座に就く人の器ではない。大切に想う人の一人も居なければ、誰もが誰かの大切であると、気付くことすら出来ないだろう。
 笑顔の戻った彼女に、ヴェーネスも顔を綻ばせる。潤んだ雫を瞬きで散らして、アゼムはフォークの先でくるりと弧を描いた。
「ヴェーネスも、人を好きになったことがあるの?」
「……まぁ! まさか、私達の間で、恋の話だなんて」
 ふふ、と可憐な少女のように微笑むヴェーネスに、アゼムは口を大きく横に開いて太陽のように笑った。思えば、出会ってきた人々や、旅の話は尽きず、甘い話のひとつもしたことのない師弟だった。語るよりも早いと、武器を構えて刃を交わすような間柄の。
 ヴェーネスは口元に指先を添えて、楽しげに宙へ視線を動かした。アゼムもにこにこと機嫌よく、大きな一口分をフォークで切り出し、ぱくりと頬張る。ほとんどお茶も飲めていない。まだまだ、甘い菓子はテーブルの上でその存在を主張している。
「私にだって、大切な人はいたのですよ」
 役目を終えれば、今を生きる人へと日向を譲り、星へと還っていく。かつて、研究者として歩き始めた時のこと。アゼムの座を先代より譲り受けた時のこと。アゼムとして世界を駆けていた時のこと。今この時に隣に居らずとも、思い返せば感情は色鮮やかに蘇る。
 アゼムはぺろりと平らげた皿に、もう一欠片、タルトを切り出して運んだ。わくわくと踊る瞳が、ヴェーネスを明るく照らしている。
「私達の生は、人の営みを知ってこそ。さて、何から話しましょう?」
「師匠の恋とか、私、想像もつかない」
「あら。案外、ありふれたものだと思いますよ? ……ありふれたものであるけれど、私にとっては特別なもの。見える世界が、変わるものだった。あなたも、そうなんじゃないかしら」
「……師匠って、本当に心が読めないの?」
「少し先を生きているから、想像が及ぶだけよ」
 ヴェーネスが、アゼムの空いたカップに茶を注ぐ。
 アゼムはシュガーポットの蓋を一度開けたが、中を覗いてすぐに戻した。ヴェーネスも、注いだ今度の一杯は、そのままに。
 慣れぬ甘い話には、きっと、それくらいが丁度いい。ヴェーネスは、ゆっくり口を開いた。
 世界に愛を捧げる前に。私達は、恋をしていた。