きみはわたしを置いていく

 きみが振り返る。高く括った髪がふわり、獣の尾のように揺れる。弓の弦が、びいん、と震えて鳴っていた。
「見たか!?」
 わたしの顔を見た、きみの大きな赤い瞳が光っている。くるくると色の変わるそれを見ているのが好きだった。ずっと見ていたよ、とわたしは頷いた。森に入る後ろ姿も、狐を見付けて嬉しそうに小声でわたしに知らせる姿も、弓を引き絞る横顔も、全部。
 きみは隠れていた木陰から飛び出し、たった今射抜いたばかりの狐のところへ駆けていく。まだきみは、十二歳、わたしは十になったばかりの子供で、狩りをするには大人たちの許可がいる。森の守護者であるヴィエラ族に生まれたなら、誰だって従うべき決まりだ。きみは少しでも早く一人前になりたいから、もっと実践を積みたいのに、と唇を尖らせていたけれど、その分一回一回に真剣に打ち込んでいる。
「へへ、いい感じだろ!」
 たった一矢で仕留めましたとばかりに、きみは小型の狐の胴を抱えてわたしへ向けて掲げた。ずっと見ているから、知っているの。きみがわたしにバレないように、もがく獣をくびったことを。にこりと笑んで、わたしは頷いた。周囲をちらりと確認して、きみのもとへと歩き出す。しゃがみこんで毛皮の検分をする隣に屈んで、手元を覗き込めば、きらりと輝く瞳がわたしを見上げた。少し眩しくて、目を伏せる。
「いい狐だね。まだ若いけど、きっともう巣立った子だ」
「おう、毛も随分柔らかくてふさふさしてる! 防寒にはもってこい、だろ?」
「うん、お母さんに帽子にしてもらったらどうかな」
「だな。上着にするには小さいけど……ま、合格点だろ!」
 ここはスカテイ山脈中腹に広がる、鬱蒼とした森の中。わたしたちは森の中に点在するヴィナ・ヴィエラの集落のひとつ、スピサルの里の子供たちだ。
 ヴィエラの暮らし方は、他民族には理解し難いものだと言う。わたしたちは聖地を護る守り人として生まれ、大抵の場合、古くからのしきたりに従って森に暮らし、歳をとっていく。地理的には砂漠や熱帯の国々を森の外側にいくつか数えられるそうだが、互いに不干渉だ。わたしたちは森の外を侵さぬ代わりに、外から来たものの全てに切っ先を向ける。一人一人の寿命がハイデリンに住むほとんどの他民族よりも長いこともあって、その生命の巡る周期は長い。だから、外の暮らしの隆盛に流されることなどなく、国という括りとも切り離された、独自の文化体系が作り上げられていた。
「怪我してない? 大丈夫?」
 わたしはあえてそう聞いた。きみは、慌てて右の手を身体の影に隠した。
「大丈夫だって。俺がそんなヘマするわけねーだろ?」
 はぁ、とわたしはため息をつく。カッコつけたい気持ちは分かるけど、心配する気持ちも分かって欲しい。毎回同じやり取りをしているのだから、バレるのもそろそろ覚えてくれないかな。きみのことなんか、手にとるように分かるんだから。
 手を伸ばし、きみの右の手を掴む。耳が垂れて、後ろを向いた。三本の爪痕が、かすれを引きながら手の甲に刻まれている。
「ほら、この程度唾つけときゃ治るから、怪我とも思ってなかったっつーか?」
「傷口から悪いものが入ったら熱病に苦しむことになるって、姉さんたちが口を酸っぱくして言ってるのに」
 獣が起こした最後の抵抗の跡に手をかざして、治癒術を唱える。エーテルが空気中から手の周囲へと集まり、緑色の光になって傷口へと注がれた。獣の血と、微かに垂れたきみの血の筋だけを残して、美しい皮膚が元通りになっていく。
 きみは少し所在なさげに、治ったばかりの手で髪を梳いた。そっぽを向いて、つんと唇を尖らせている。一言目は、こう。
「俺はさ、男になんだから、一人で何でも出来るようになるんだよ。お前はわざわざそんなふうに世話焼かなくてもいいの」
 ヴィエラという種族の特殊な生態の一つに、大人になるまで性別がはっきりしない、という点がある。生まれた時から性別は確定しているが、未発達の体は、外見からは同種族であろうと雌雄の判定が難しい。十代半ば頃に訪れる二次性徴によって、ようやくどちらか判明する、というわけだ。
 男と女。森において、この二つの違いは大きい。森を護ることに違いはないと、大人たちは言う。けれど、女は集落に残るが、男は集落に留まることを許されない。共同生活を送る女に対して、男は一人きりで何もかもを行い、生きる。食料や寝床の調達も、薬の調合も、何もかも一人でやれないといけないのだ。そうやって、わたしたちは幾重にも命を重ねてきている。
 この子は、男になりたいと常日頃から言っていた。ヴィエラの男女比率は、大きく女に偏っている。そもそもの出生数に差があるし、生まれて大人になり、集落の外に出てから命を落とす確率も、共同生活を送る女に比べて格段に高い。
 どちらになるかは、神の思し召しだ。既にわたしたちの性別は決まっている。どちらになっても良いように生活の知恵を授け、育てるのがヴィエラ族の常だ。性別がじわじわと心に影響を及ぼして、判別が付くようになってから心の性が寄ることも多い。だから、この子のように「なりたい性」が確立されている子は里の中では珍しかった。なりたくても、なれないこともしょっちゅうなのだ。望んだものと結果が乖離していても、わたしたちは森の掟に従って「男」と「女」として生きるしかない。
 わたしたちと同世代の子供はそれほどたくさんいない。元より少人数で集落を営む森の民だし、雄の生殖の時期がそもそも五年に一度ほどと、機会自体がそう多くない。長寿で出産の適齢期が長く、焦る必要がないというのも加わっているだろう。里の周囲で暮らす数人の男が里を訪れるタイミングでないと、子供は増えていかないのだ。
 わたしは、きみが男になりたいと語るたびに、胸を小さく針で刺されたような痛みを感じていた。きみの願うことなら叶ってほしいと思う。親が違っても、わたしたちはきょうだいのようなもので、里全体が大きな家族だ。狭い関係性の中できみは、わたしのきょうだいで、友人で、恋人だった。きみの隣は心地いい。ずっとこの時が、続けばいいと思う。
 黙り込んだわたしの頬を、焦ったようにきみが指先でちょいとつついた。
「おいおい、俺が一人じゃ生きていけないとか言うつもりか〜? 言っとくけど、ちょっとくらいなら治癒術も使えるんだからな! 今唱えなかっただけで。お前が心配しなくても、ちゃんと大人になってお前にまた会いに来るって」
 多分、数が元々それほど居ない、わたしたちの世代の中で、男になるのは多くて二人やそこらだろう。
 わたしを置いて、きみはひとりで行くつもりなんだ。それが無性に悲しかった。男は一人で生きていく。彼にわたしは必要ない。旅立てば、里に戻ってくるのは生殖のためだけだ。巣立つまではマスターの元にいるし、経験を積めば新たな若い男を連れて森へ帰るのだろう。でも、そこにわたしはいないのだ。
「会いになんか、こなくてもいい」
 わたしは喉を詰まらせてそう言った。じわ、と涙が目に浮かぶ。きみはぎょっとした顔でわたしを見詰めていた。
「ちょ、おい。いつものことだろ、俺が男になりたいのなんて。なぁー、腹でも痛いのか?」
 顔を覗き込むきみの額を押して、わたしはそっぽを向いた。違うの、きみにはバレたくない。
 きみが男になるのがいやだ。きみが女になるのがいやだ。ずっとこのまま、あやふやなまま時が積もっていけばいい。
 きみがもし男になれたなら、外へと旅立ってしまう。同じ里のヴィエラであることに変わりはなく、死ななければまた出会える。それは、種をまく男として。きみはたくさんの女たちに歓迎されるだろう。血縁の濃い相手でなければ、求められるだけ種をまいて、また森へと旅立っていく。わたしときみの血縁は濃くはない。きっときみはわたしの手を取ってくれると思う。でも、それじゃいや。
 きみがもし男になれなかったなら、面倒見のいいきみのことだから、子を持つことに抵抗もなく、誰かを腕の中へと招くだろう。この里の人間なら、子をなすことが恋や愛に結びついたものじゃないことを知っている。それでも、きみが誰かを受け入れるのがいや。
 わがままなんだ、わたし。男の役目も、女の役目もいやだった。同じくらいの歳の子は他に数人いる。だけど、きみだけが特別だった。生まれてからずっと、きみのことばかりを見ていた。
 多分これは、恋だった。
「お前が何と言おうとな」
 きみは、そう切り出して、口をむずむずとさせて、上を見たり、下を見たりした。うつむいて、豊かな髪の尻尾をわさわさと血の付いていない手でいじっている。言葉がまとまらない時のきみの手遊びだった。
「あー、なんだ、うん」
 わたしは、涙を溜めたまま顔を上げた。真っ直ぐにきみの顔を見ると、赤い瞳が真ん丸く見開かれた。そして、薄く頬に色が灯る。ややあって、きみは目を伏せて。わたしの手首をぎゅっと掴み、強い視線でわたしを貫いた。
「……お前が嫌がっても、絶対会いに来るからな。ほかの男は無視してろよ。……お前、どんくさいから、俺くらい俊敏な男のがいいだろ、里的にもさ」
「……え」
「だーかーら! 離れてようが離れてねえって言ってんの! そんな、寂しそうな顔すんなよ、ばか」
 わたしは、口元を抑えた。鼻の奥がツンとして、駄目だった。多分きみのことだから、男として女の子は確保しとこうとかそんな考えに違いないのだけど、それでもわたしをまるで特別のように扱う言葉に泣けてきてしまったのだ。ぼろぼろと次々に雫が溢れていき、拭っても拭っても頬を濡らしていく。
 でも、やっぱりいやなんだよ、ごめんね。
 ヴィエラじゃなかったら良かったのに。この森に生まれなければ良かったのに。
 離れていても、同じ森にいる。そんな言葉じゃ誤魔化せないくらいに、きみは私にとって必要不可欠なのだ。
 ただ、理由もなく、そばにいられたら。それだけできっとわたしは、生きていけるのに。