きみは大罪人

 お互いフルタイムで働いていることもあって、その手のことにはとても物分かりのいい恋人であると思っていた。
 定時を過ぎた時計を見上げて、ハーデスは溜め息を吐いた。朝から計画的に仕事をして、これでは終わらないなと覚悟が決まっている状態で取り組む残業と、終わり際に突発的に起きた事故による意図せぬ残業。どちらも同じ時間を働いたとして、無駄に疲労を感じるのは後者だった。
 何も残業の全てを忌避しているわけではない。金曜日は決まってギアを上げて作業し、定時にそそくさと帰っていたものだから、職場の同僚にどう認識されているかは分からないが。少なくとも、企業という共同体に身を置いている以上、自分の仕事だけが終われば良いという考えはなく、職場全体として消化できなければ意味がないと思っている。
 だから、いわゆる尻拭いだって、仕方のない許容範囲だ。いつ自分がさせる側の立場になるかも分からないのだし。助け合いなどと甘い言葉を使うつもりはないが、恩を売るのは今後の関係性を思えば決して悪いことではない。
 ただし。ハーデスは個人用の携帯を手に取り、席を立った。ちら、と隣から向けられる視線に、つい目を逸らす。後ろめたいことなど何もないだろうハーデス。
「……少し連絡をしてくる」
 廊下に出て、歩きながら連絡先を呼び出し、通話のボタンを押す。メッセージアプリへの一方的な通告でも良いのだが、向こうの反応を即座に得られない分、仕事中に余計なことを考えてしまいそうだった。
 すぐに電子音は、接続される雑音となる。
『仕事終わった? もしかして飲みに行きたいの? 今日はグラタン作るつもりで色々用意してあるよ〜』
 明るい彼女の声に、一瞬喉を詰まらせる。妙に機嫌が良いのは第一声から分かった。
 いや、でも。連絡をしてアゼムが怒った試しはない。むしろ付き合う前、突発的な用事による遅刻を伝えられていたのはもっぱらハーデスの方だった。お互い様というものなら、まだまだ貸しはある筈なのだ。軽く咳払いをする。
「……仕事が立て込んでいて、今日は遅くなる。一人で食べていてくれ。お前が寝るまでに帰れないかもしれないが、心配するな。起こさないように帰るから」
 うへえ、残業? だいじょぶか〜? 彼女のカラッとした声はとても簡単に想像できた。大変だね、お疲れ様。気遣わしげに続けるのも、聞いたことがあるからすぐに思い出せる。だが、声は即座に返ってこなかった。
「……アゼム?」
 無言の通話先に、呼びかける。黙り込んでいたアゼムが、ゆっくりと声を出した。
『……ゆるさん…………』
「は?」
 ハーデスは地を這うような声に、慌てて脳内のスケジュール帳を捲った。何か大事な予定でもあっただろうか。無いはずだ。きちんと用事はこっそり手帳に書き入れている。話したいことでも? いや、彼女の様子ならよく見ているし、大概分かりやすい女だから、特別なことがあるなら分かるだろう。
 それとも、何しらの記念日だろうか? ……長い付き合いだが、記念日を意識するのはハーデスの方ばかりで、アゼムは何も覚えていない。そんなものを気にしているなんて知られたら恥ずかしいし、ハーデスから示唆したことだってない。世間一般のイベント事も、思い付きでやったりやらなかったりする。それがアゼムという女である。
「ゆるさんと言われても、突発的な大クレームによるトラブル処理だ。私一人で何とかなる話じゃない。この状況じゃとても帰れない」
 瑕疵があるように言われれば腹が立つ。私だって帰れるものなら早く帰りたい。お前も勤め人なんだから分かるだろう。聞き分けがない女だと思わなかった、と溜め息を吐きそうになるのを必死で堪える。そんなハーデスに、アゼムが溜め息を吐いた。 
『…………悪戯仕掛けておいてやるから覚悟しておけ……』
「……は? おい、アゼム! アゼム!」
 切れた。通話時間を示したあと、ホーム画面に戻った携帯を睨み、ハーデスは頭をがしがしと掻いた。
 伝えるべきことは伝えた。言い訳をする時間も甘やかすための時間もない。急いでデスクに戻る。
「おい、どうしたんだその顔。っていうか連絡って? もしかして例のあの子とデートの約束でもあった?」
 キャスター付きの椅子を引き、いつになく乱暴な動作で腰を下ろしたハーデスに、隣の同僚が低めた声で訊ねた。首を横に振り、手をキーボードに置く。
「何の約束もしてない」
「じゃあ何の話?」
「遅くなるとだけ。下手をすると帰るまで夕飯を待ちかねないし、自分も明日の仕事があるのに何時になろうと起きていそうだから。一人で食え、寝ていろと……」
「エッお前同棲…………エッ!? つーか、おまっ、いつ成立したんだよ!! お前ずっと……」
 叫んだ同僚に、はっとして振り向いた。それ以上言ってくれるなと全力の眼力で睨み付ける。だが、既に大音量は響き渡ってしまっていた。苛立った顔をしてそれぞれの処理をしていたフロアの面々が、一斉にハーデスに視線を向けていた。
 居心地悪く、軋むような動作で視線を画面に戻す。
「いやーそうかそうかハーデスくんやっとあの子捕まえたかー。お前年始には『急に結婚の話をされたが向こうには何の意図もないし三十まで何もない』とかなんとか」
「それはおそらく私ではない誰にも明かしていないはずだ」
「それ、酔った席のやつだから彼覚えてないよ。言わないであげようって言ったじゃん……」
 更に向こう側の席に座った同僚が半笑いで言うのに、ハーデスは頭を再度掻きむしった。言われてみればそれらしきタイミングはあった! あの頃はアゼムからの衝撃を耐えるのに必死で、一度酔い潰された飲み会のことは記憶の隅に片付けていたのだが、そういえば特定の面々からの視線が変わっていたような気がする。
「よーしお前らハーデスを家に帰すぞー」
 おー、と半笑いやら棒読みやら、様々な声が重なった応答に、ハーデスは頭を抱えた。解決するべき問題は、怒ったアゼムの処理だけにしておきたかったのだが!
 妙にその後の処理速度が早く、予定よりも早く解放されたことだけは評価するべきなのだろう。弊社に貢献できて何よりだ。ハーデスは、キマった目で喜ぶ同僚に、死んだ目で返した。

 

 機嫌を取るには、何か手土産を持っていくべきだろう。そう思いつつも、こんな時間まで営業しているケーキ屋はない。ちょっとお高めのコンビニスイーツの入った袋を手に、ハーデスは帰路を急いでいた。
(悪戯って、何するつもりだ)
 定時すぎに連絡を入れた。その時間なら店はほとんど開いている。持ち前の行動力を活かし、突発的に素材を買い込み、錬成し、悪質なそれをトラップとして設置していたっておかしくはない。何も予想できないが、何をしても意外とは言えない相手だった。
 せめてスーツの無事は守りたいんだが。振り切れた彼女のすることだ、テレビ番組の炎上するドッキリレベルは、余裕で覚悟しておかなければならない。悪い信頼である。
 予定よりは早い。まだ、寝る時間では、ないはずだが……。ハーデスは家の前に辿り着き、すっかり灯りの消えた部屋の窓を見た。寝ている……とは、考えづらい。拗ねてはいるだろうが、怒りを発散するために、ハーデスの被害は確認したいと思っている筈だ。
 ドアノブを捻ろうとする。鍵がかかっている。まさか、この短時間で鍵を付け替えたりはしていないだろうな……。少し恐れを抱きながら、鍵を穴に差し込む。すんなりと入り、回せばがちゃりと音を立てた。これではない。
 上下に気を付けながら、ドアをゆっくりと開ける。無音。何も落ちてこないし、何も飛び出してこない。ここでもない。十分に警戒して、一歩、玄関に入る。
 外から入る光が薄っすらと照らすが、室内は暗い。どうやら全ての灯りを消し、カーテンまで閉め切っているらしい。どこだ。どこから来る。かちゃん、と背後を閉めきれば、もう闇の中だ。ハーデスは携帯のライト機能を起動した。
 さながらホラーゲームじゃないか。私は、叫びながらヘッドショットを決めるアゼムを横から見る専門なんだが。靴を脱ぎ、それほど強くない灯りで、廊下のドアや曲がり角を照らし、じりじりと進む。
 不意に、気付いた。廊下の床面に、何かが設置されている。不思議な形状の影を作ったそれに、ライトを向けた。
「……は?」
 トランプタワーである。ニ枚のカードで山を作り、平らにカードを乗せ、更に山を乗せる。ピラミッド上に組んだ、何の変哲もないトランプタワーが鎮座していた。いや、何の変哲もないトランプタワーが廊下の床にあるのは明らかにおかしいんだが。これは目を引くための引っ掛けか。ライトを上や横に向ける。本番はどこから来る。
 触れたら、何か起こるかもしれない。そーっと、よく組んだなという高さのそれを触れずに乗り越えた。
 が、微かなフローリングの軋みのせいか。足を置いた瞬間に、一箇所がずれる。ぱさぱさぱさ、と薄っぺらい音を立てて崩れていくそれに、ああ、とハーデスは小さく声を上げた。崩れた努力。何となく、申し訳ない感じがする。だが、絶対に次が来る。
 ほら、この通り!
「確保ーッ!!」
 廊下の曲がり角から、人影が飛び出してきた。直接攻撃か! 低いタックルは、軽い身体でもそれなりの衝撃だ。抵抗は今回の場合、得策ではない。大人しく押し倒されたハーデスは、乗り上げた女を見上げた。
 ライトを向ける。一瞬の目眩ましに眩しそうにしたアゼムが、唇を尖らせてハーデスの携帯を取り上げた。反対に照らされ、咄嗟に目元を隠す。
「悪かった、降参だ」
 両手を上げようとして、気付く。……袋が守りきれていない! 中途半端に転がったレジ袋を慌てて引き寄せた。それぞれを守るプラスチックカバーの内側に、クリームがべったりと付着していた。
「……すまない、詫びの品がこの有様だ」
 むむ、という顔をしたアゼムが、ハーデスの手元を照らした。がさがさと中身を確認する。
「存分にいたぶればいい。気が済むまで。……明日も仕事だから、スーツはやめてくれ」
 腹の上のアゼムに語りかけると、アゼムは雑に携帯を床に放った。そしてそのまま、ハーデスの上にべたりと倒れ込んでくる。袋から手を離して、アゼムの背中を抱き寄せた。アゼムが首筋に鼻先を埋めて、すんすんと匂いを嗅いでいる。アゼムの少し湿った髪からは、シャンプーの淡い匂いがしていた。
 怒っている、とは、違うような。
「なあ、どうしたんだ、今日。何か大切なことを、私は忘れていただろうか」
 穏やかな声で訊ねると、アゼムは何やら呻き、ハーデスの頭を抱き締めた。ぐしゃぐしゃと髪を混ぜ、背を伸ばして耳の下に強く吸い付く。ぺろ、と仕上げに舐めて唇を離し、ぐりぐりと肩口に額を擦り付けている。
「なにもないデス」
「……そうか」
「デモ、エット、ソウデナクテモ、デスネ」
 何だその片言な喋り方は。ハーデスは小さく笑った。普段素直に甘えてくる彼女でも、伝えづらい部分はあるらしい。
 特に理由はなくとも、甘えたい日があるだとか。
「……これからグラタン焼くけどいい?」
「それくらい、待ってる。それ以上に待たせた」
「おなかすいた」
 食わずに待ってたのか。苦笑して、背中をぽんぽんと叩く。
「週末は二人で過ごそう」
「……今日は?」
「ちょっと疲れてる。お前に触れるならちゃんとしたい」
「……ごめんね、お疲れ様。おかえり。してほしいこと、ある?」
 恐る恐る、といった様子の彼女を、強く抱き締めた。
「お前がしたいようにしたら、どうせ私は癒やされるさ」

 翌日、隈ひとつない顔と、耳の下の跡を同僚にからかわれたのは、言うまでもない。