小さく息を吐いた。口元から生じた泡は、音を立てて遥か頭上へと昇っていく。もはや死した身であり、呼吸の必要などないのだが、まだ溶けずにいる魂は原初の肉の形を再現していた。握れば指先は念じたままに動くし、呼吸も同様だった。
初めにここを「星の海」と形容したのは誰だったのだろう。世界が砕かれると同時に形骸化したが、かつて「エメトセルク」はエーテル界を見守る役目を持つ座の名称だった。少し焦点をずらせば飛び込んでくる、冥く輝く世界は、エメトセルクにとってとても身近な場所だった。しかし、実際に沈んだとき、どんな風に思考し、その時を待つのかは、未知の領域だった。
海、だ。穏やかなエーテルの流れが渦を巻き、絶えず循環し続けている。揺蕩う魂は微睡み、完全にほどける時を待っている。消え行くその瞬間まで、おそらく生きた短い日々を回想し続けているのだろう。意識がまだ濃い者は時折波間を泳いでいたが、旧き人と比べて薄ぼんやりとしたその魂は、ほどけるまでの時間も短い。
エメトセルクの人生は、旧き時代から始まり、砕かれた世界と同じだけの長さが加わる。彼らと違い、振り返るだけでもどれだけ時間がかかるものか。今更に思い返すことはない。託すものは託し終えた。舞台を去った役者は眠るだけだ。そう、大穴が開いた身体が崩れ、魂が冥界に導かれる瞬間、思っていた。
思って、いたのだ。
やってくれたな。海に沈んだエメトセルクを待っていたのは、安寧でも何でもなかった。
魂が還るまでには順序があると、古代の時代、既に知られていた。魂というのは人を成す核の部分だ。冥界に落ちたとき、一番外側の容れ物である肉体は既に壊れている。肉体の次に洗われるのが、そのすぐ内側。魂に付随した記憶の領域だった。中でも、魂が経験した部分は残りやすく、逆にエーテル照射や魔法などの外的要因によって加えられた記憶は、簡単に剥がれ落ちるとされている。
それはかつて、欠け落ちた記憶だった。ファダニエルが還ると決め、後継を指名した時。指名された彼が働いている場所まで視察に行ったのは、エメトセルクだった。最後のファダニエルとなった男の名は、ヘルメスと言った。思い返せば不可解な出来事であったのだが、魔法によって何もかもを為せた万能の「人」であったからこそ、受け入れてしまったのだろう。
エメトセルクはヘルメスを見定めるために、彼が長を務める生命の試験場、エルピスに向かった。しかし転移によってその入り口、プロピュライオンに到着してからの数日間の記憶が、ヒュペルボレア造物院の記憶改変機構、カイロスの誤作動によって吹き飛んでしまった。巻き込まれたのはヘルメスとエメトセルク、そして同行していた友人のヒュトロダエウスだ。……そういうことに、なっていた。
洗われ、思い出した本当の記憶に、エメトセルクは唸るしかなかった。とんだ道化を演じさせてくれたな、ヘルメスよ。
覚えていろ、と言った自分が何もかもを忘れていたとは、情けなくて溜め息しか出てこない。あの日ヒュペルボレア造物院に向かったのは、外宇宙から「ヘルメスの問いに対する答え」を得たヘルメスの使い魔メーティオンを回収するため。ヘルメスは彼女を連れ去った逃亡者だった。そして何より、同行者はヒュトロダエウスだけではなかった。
エメトセルクの知る彼女との出会いは、彼女にとっての初対面であり、エメトセルクにとっての再会だったのだ。
薄ぼんやりとした、吹けば飛ぶような佇まい。ヒトに似た形をしているが、おおよそ人とは呼べない生き物。それを視た時の記憶が、鮮明に蘇った。それを視た時のげんなりとした感情も、ついでに。
その生き物は、ヒュトロダエウスとエメトセルク、共通の友人であるアゼムと、同じ色の魂をしていたので。明らかに、彼女の関係者であった。その手の展開でろくなことになった試しがない。事実、ヒュトロダエウスなど、一目視ただけで期待に胸を膨らませる始末だった。
同行者が拾ってしまったので仕方なく補強し、面倒を見た「アゼムの使い魔」の正体は、数日後に露呈する。
造物院にいた最後の一人、今や光の神となった女、ヴェーネスと遭遇したことで、彼女が「未来からの稀人」であることが判明したのだ。ヴェーネスの術を、ヴェーネスと初めて出会った筈の彼女は纏っていた。
それから、エメトセルクたちは未来の話を聞いた。これよりのち、来たる終末のこと。終末への対抗策として、人は半分の命を差し出し、星を蘇らせるためにさらに半分を切り渡すこと。そこから、初めて人と人で争ったこと。勝利した光の神が世界を砕くこと。
砕かれてから、残されたエメトセルクはかつての世界を取り戻すために生き続けること。その果てのこと。
馬鹿らしい、不愉快だ、と怒りをあらわにした当時のエメトセルクは、まことに「真の人」らしい思考をしていたものだと思う。役目を終えたら還るのは当然の仕組みであるのに、郷愁に駆られてかつての街と人を再現するなどあり得ないと。ああ、そうだとも、当時の私はそうだった。エメトセルクは思う。しかし、彼は知らないのだ。ぼやけて肉の形も定かでない生命たちが蠢くさまを。
わざわざ感情を切り離して、変わらず眺められるかたちにした。一仕事終えれば、「ハーデス」の姿をとって静かに眠った。そうしないと、変わってしまいそうだったから。時は平等で、残酷に人を変えていく。忘れることは恐れとなる。それをまだ、知らないだけだった。
結局、一度別れたエメトセルクも、彼女の様子に、……そして、彼女の魂の色に思うところがあり、最終的にはもう一度彼女と同行することになった。幸せを象徴するような青い鳥が消えて、稀人の追い求めていた終末の意味を知る。星の外よりもたらされるもの。ありがた迷惑な生命への優しさ、ギフト。
……あの、世界が変わった数日間を覚えていたのなら、今のエメトセルクに繋がることはなかったのだろうか。思い出して真っ先に考えたのは、それだった。あの楽園の日々を失うことはなかったのか。未だ輝く天の檻に、人々の魂を眠らせることはなかったのか。
未来の彼女が過去に繋がることを、今のエメトセルクは知っている。クリスタルタワーの端末となった男が成し遂げようとしたことだ。その結果、男の時代が未来ではなくなることも知っている。未来の彼女が介入したとて、同じ未来に行き着かない道もあったのではないか、と。
終わってから悔やむから後悔となる。忘れる道が避けられずとも、ヒントは散らばっていたように思う。忘れたのはヒュペルボレア造物院の中にいた人間だけだ。様子のおかしいヘルメスを注視し続けていれば。再調査となったエルピスへの来訪の意義を認識していれば。彼の行った問い掛けを知ることがあったかもしれない。
また、「アゼムの使い魔」について早々に諦めてしまったのも痛かっただろう。無闇矢鱈と働きものな「使い魔」は、エルピスの職員たちに認知されていたのだ。一緒に居たあの子はどうされたんですか? と聞かれた時。ヒュトロダエウスとエメトセルクはその存在を認識した。故に、一応本人に問うまではしていた。
今思い返しても溜め息が出る。二人で次に会ったとき、アゼムは「私も行きたかったのに! 二人だけで行くなんてズルい!」と騒いだ。ヒュトロダエウスは「だから使い魔なんてエルピスに寄越したの?」と訊ねた。アゼムは目を真ん丸くした。
「えっ、どれが行っちゃったんだろう……」
思い当たる節が欠片もなければ、異常を知ることが出来たのかもしれない。……何を考えても、たらればであるが。罪をなすりつけるなら、アゼムの実績が、エメトセルクの目を曇らせた。彼女がしでかすことに日々振り回されていたものだから、気付かぬうちに消失していたのならこれ幸い、と思ったに違いない。
それが、記憶を失う瞬間、全てを託して微笑んだ相手だとも知らずに。
終わってしまったものは仕方がない。エメトセルクは遠くの空を見上げていた。
冥界と結びつきの強い、エメトセルクだから許される権利だったのかもしれない。向こうからこちらを覗き込むことが出来たのだから、逆もまた然り、であった。ひたすらに惰眠を貪って長い時を一人きりで無為に過ごそうと思っていたのに、それだけでは居られなくなってしまったのだから、暇つぶしの対象があるのは幸運なことだった。
まるで劇場の特等席でも宛てがわれたような心地だ。こぽ、と空気の漏れる雑音だけが交じるが、焦点と意識を重ねれば、俯瞰するかたちで視界が広がる。手の出しようのない降りた舞台の色は、ひどく鮮やかである。
エメトセルクが散って。最後に残されたのは、エリディブスだ。なんと残酷なことをしたのだろう、と。それを悔いる気持ちがないとは言えない。
光の戦士たちが原初世界への帰還を模索し始める一方で、彼は一人きりで、残された「最後の真なる人」として動き始めていた。
けれど、もはやその在り方は人のそれではない。最初から分かっていたことだった。あの日、ゾディアークから零れ落ちた「何か」を見たときから。
中心を成す魂の色は、間違いなくエリディブスのもの。かつてテミスと呼ばれた、エメトセルクもよく知る小柄な青年のものだった。無垢なその色は、目の前から失われると知ったとき、誰もが惜しんだものなのだ。見間違える筈がない。しかし、その身は。
それはやがて、人の形をなし、ぎこちなく微笑んだ。白い法衣の、エリディブスの姿で。
彼は初めから人ではなかった。迷い、決断を迫られた人々の「願い」だった。人々は世界の今後を考え、意見はばらばらになっていた。こんな時、調停者が居たら。穏やかな世界で人々を助けた彼を願ってしまったのは、おそらく誰のせいでもなかっただろう。
いわば彼は、人の魂を核とした、創造魔法の産物だった。初めは歪みなどなく、「彼らしく」在った。願うのは、「彼」を知る人々のみだったから。エリディブスは悩む人々をたしなめ、助け、ともに考えた。結局、弁論で答えが出ることはなく、闇の神と光の神による戦いで決着がつき、世界は砕かれた。狂ったのはそれからだ。
視界に意識を向ける。今彼女は、水晶の塔を駆け上がっている。彼女は目指すエリディブスが何であるのか、聡いミコッテの女に諭されて知っている。その上で何を思い駆けているのか、本人ではないから知る由もない。
……ただ、悪いようにはならないだろう。それはエメトセルクの願いであったかもしれない。
思えば、最初に欠け落ちたのは、彼女のことだった。
エリディブスは、ゾディアーク召喚を旨とした人々が生じさせたものだ。人々と世界が分割されて、彼の力は大きく削がれた。彼を構成する願いも分割とともにぼやけてしまったからだろう。エリディブス自身の願いが彼を彼として成立させていたが、その時点で、エリディブスとして揃っていた記憶のいくらかは抜け落ちていた。
分割された世界で、残されたたった三人は、かつての愛しい星を取り戻すための算段を立て始めた。人為的にそれぞれの世界のエーテルバランスを崩し、次元の壁を壊すことで、原初世界に向けて世界のエーテルそのものを流し込み、統合する。分かたれたゾディアークを元の形に戻せば、神は願いを叶えられる。
そのためには、たった三人では都合が悪い。十四人委員会を揃えよう、というのは真っ先に挙がった意見だった。十四分割されて、やはりそれは薄ぼんやりと漂うばかりであったが、まだ転生を迎えていない魂にはゾディアークの召喚者としての印が刻まれているし、何より星の代表者として意見を交わしあった仲間だったのだ。その魂の頑強さは他の誰よりも信頼できる。
人のなりそこないを掬い上げて、かつての記憶を学習させよう。蠢くだけの命に成り下がった彼らは、忘れてしまっただけなのだ。星と愛し合ったことを思い出せば、人としての役目を取り戻せる筈。
エメトセルクたちは、教材となる「最後の十四人委員会の面々」の記憶を、クリスタルとして創り出すことにした。天を巡る、それぞれの座を示す星が刻まれたクリスタルの作成。順番に、一人ずつ、記憶を形にしていく。それが終わりに近付いたとき、エリディブスが呟いた。
「第十四の、座……」
その響きがあまりにも空虚で、エメトセルクは衝撃を受けたものだった。
第十四の座、アゼム。エリディブスは皆から弟分として想われていたが、特に彼女は本当の弟のように可愛がっていた。それは一方的なものではなく、エリディブスもまた、アゼムを姉のように慕っていた。むしろ引き剥がそうとしても勝手にお互い懐きあうので、ラハブレアやエメトセルクは、無垢な調停者が悪い影響を受けずに済むよう苦心していた程なのだ。
旅から帰ってきたアゼムが、身振り手振りを交え、善も悪もなく、出会った全てをエリディブスに伝えようとしていた。エリディブスは目を輝かせ、共に驚き、喜び、悲しんだ。旅の同行者として連れ歩いたことさえある。彼女の言葉は、行動は、知識は、エリディブスの裁定の材料としてきちんと秤に載せられていたのだ。
気付けば、エリディブスは顔を上げていた。
「第十四の座は、ゾディアーク召喚前に離反した。果たして、召し上げたとして同じ目的のために動くだろうか」
アゼムどころか。彼とも、彼女とも呼べなくなっていたのだろうと、気付いてしまって何も言えなくなった。
エリディブスにとって、アゼムは大切な友人だったはずだ。しかし、ゾディアークの嬰児から見れば、彼女は調和を乱す異分子でしかなかった。薄らいだ多くの人々の願いの中にも、彼女の姿はない。
ラハブレアが頷いた。
「……あいつは、ハイデリン召喚の折、アニドラスには居なかった。恐らく贄とはなっていないのだろうが、ゾディアークの召喚計画が出て真っ先に離反した女だ。その記憶と思考を与えて、同じ目的に進めるとは考えにくい」
そうだ、人類の半数を贄とすると決めたとき。その核に適合するのがエリディブスであると分かったとき。誰よりも取り乱し、縋ったのは彼女であった。
『絶対に、他に手段があるはずだ。みんなが犠牲にならないで済む方法が。きみが、死なずに済む方法が……! 私が何としてでも探し出す、だから、お願い、そんな道、駄目なんだ……っ』
『アゼム』
エリディブスは、自らの肩に食い込む手を、そっと拒んだ。その表情には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
『犠牲なんかじゃない。計画が進めば皆を取り戻せるんだ。一時の眠りに過ぎない。私もまた、一時はこの身体を失うだろう。しかしそれは押し付けられた死ではない。いつだって皆と共にある。私がすべき役目を見付けたんだ。誰に強いられたわけでもない。私が、皆のために。君のために選んだ、正しい道なんだよ』
『そんなの詭弁だ! こんなの認めない。待ってろよ、いつもどおり、驚いた顔で『君の発想はすごいな』って言わせてやるんだからな!』
……分かたれた世界で、何より先にその色を探した。どこまでも強かったあの輝きは、ぼやけて輪郭さえも失っていた。贄となっていないことを、エメトセルクは最初に知った。彼女は、何も果たせず、終わりの時を迎えたのだ。
言葉を尽くしても分かり合えなかった。その末の離反であった。なんてわからずやなんだ、と本気の抵抗をぶつけてきた彼女に対し、これが最善の策だと信じぬいたエメトセルクは、手を取ることなく委員会の決定を是とした。
それでも、それでもだ。背を向けた彼女に思ったものだ。爪の先ほどにも満たない希望を、世界中の海を泳いで捕まえるのが、アゼムという女なのだ、と。星が降る世界の中で、微かな希望を抱いていたのは、エメトセルクだけだったのだろうか。
「第十四の座は空席のままとする。……エメトセルク、それで、構わないな」
ラハブレアが静かにそう告げた。エリディブスは空虚な瞳を向けてきた。二人の視線の前に、歪んだ心を見せられるはずもなく、エメトセルクは決定に従った。エメトセルクだって分かっていたのだ。アゼムの記憶と感情を知ったなりそこないが、どのように生きようとするかなんて。
天高くから、星が降り注いでいる。エリディブスが創り出した幻影の空。至るところに召喚式が無理矢理に固定され、「英雄」たちの幻影が現れてはエリディブスの意のままに駆けていく。
塔の中では、光の戦士が幻影に足止めを食らっていた。悲鳴を上げる塔は端末を侵食している。足音も変わった男が杖を手に、光の戦士を促した。彼女は頷いて、さらに階段を駆け上がっていく。
十三人分しかクリスタルを用意しないと決めた後。エメトセルクは一人きりで、ひとつのそれを創り上げた。橙色の中心には、誰とも線で繋がらない一つ星が刻まれている。煌々と輝き、星々を引き寄せる、太陽だ。
エメトセルクの創ったクリスタルには、誰かを塗り替えるべき記憶は込められていない。記録されているのは座の名称と、たった一つで彼女という人を示す術式だけだった。誰に与えられることもないそれを。エメトセルクは、一仕事終えて眠りに就くたびに眺めた。
アゼムだった誰かは、幾度も転生を繰り返した。星海で洗われた魂が誰であったか気付けるのは、もうエメトセルクしか居なかった。彼女、あるいは彼は、突き動かされるように世界を駆けていた。何もなせずに生きて死ぬだけで良いはずなのに、その魂は決まって世界の変革に現れるのだ。
幾度も敵対した。手を取れないことを知るたびに落胆する心を、誰にも悟られてはならなかった。ひとつ統合を進めるたびに輝きを増す魂は、大抵の場会、百年も立たずに消え行く。
だから今回も、同じなのだろうと思った。
……一人で眺めていたクリスタルは、今、彼女の手の中にある。
まさか、自分が舞台から降りたあとに、彼女に与えられることがあるだなんて。エメトセルクはその日、星海で唸っていた。
アーモロートを再現する時、創り上げたのは終末の直前の日だ。エメトセルクはただ、その日そこに在ったものを写し取っただけに過ぎないと言い張るのだが、どうやら雑念の泡は思った以上に大きかったらしい。
再現された中に居た友人は、日々を繰り返すだけの存在ではなかったようだ。創造魔法は繊細だ。あいつなら、気付くかもしれない。そんな一瞬よぎった思考が、存在自体を全く異なるものにしてしまった。
だかしかし、果たしてそれは「ヒュトロダエウス」であっただろうか。
旅を続けて。エリディブスに誘い込まれ、アーモロートを再訪した光の戦士は、落ちたクリスタルを拾い集めて、行き着いた先で彼に出会う。物質界にあったとき、エメトセルクはあえてヒュトロダエウスを眺めに行くことはなかった。そこでようやく見つめ直した「友人の影」に、エメトセルクは顔を覆って溜め息を吐きたくなった。
ヒュトロダエウスと光の戦士の出会いは、再会であるらしかった。楽しげに小さな「懐かしく、新しいキミ」を見下ろす彼の穏やかな言葉の数々に、もう巡る血もないのに顔に熱が集まるような気がした。
そう仕組んだ覚えはない。けれど、ヒュトロダエウスの行動は「かつてエメトセルクが出来なかった望み」のかたちをしていた。やもすると、太古の昔も、似た姿をしていたからか。……エメトセルクの素直でない心を、何でも見通す友人は勝手に掬い取って、彼女に示唆してしまう。度々あったそんな出来事を、今更に思い出した。
エリディブスに拒否された記憶のクリスタルも。誰にも言えない渡すことが出来なかった太陽のクリスタルも。きれいに揃って、光の戦士の手の中に収まった。
『どうあれ、キミには生きていてほしいかな』
ついぞ口にされることがなかった言葉は、あっさりと空気を震わせるのだった。
それを創ったとき。自分の中にしか残っていないあのどこまでも明るく無邪気で人騒がせな女の存在を、ただ一人、抱えておきたかっただけだと思っていた。
どれだけ迷惑をかけられ、何度怒鳴り付け、溜め息を吐いたものか、数え切れないほどである。けれど、彼女は確かに、大切な親友だった。失ってはならない光だった。本人についぞ言うことはなかったが、あの美しい魂の輝きは、エメトセルクにとってひとつの拠り所だったのだ。
たったひとりきりで抱えていたその想いが、彼女の手の中に収まっていた。本来、敵対する相手のそれは霧散して消えていくしかなかったはずだ。だが、彼女は拾い上げた。当然の行いのように。それを見て、ああ、……彼女と同じ根源をもつ生き物なのだ、とやっと理解できた気がした。
光の戦士。エオルゼアの英雄と呼ばれる女。アゼムの欠片が合わさったなりそこない。まっさらな魂にかつての記憶はない。辿ってきた人生も違う。彼女ではない。どれだけ祈ってもかつての記憶を取り戻すことはないし、彼女本人に成り代わることもない。
それでも、彼女と出会ったことには、エメトセルクにとって大きな意味があった。
アゼムが砕かれて、漂い蠢く命に成り果てたとき、彼女の歩んできた道のりの無意味さを嘆いた。しかし今なら分かる。彼女は最後まで足掻いただろう。そして、ヴェーネスの意図があったにしろ、なかったにしろ、彼女が砕かれることには意味があった。
この世界は、あの未来に続くのだろうか。きっとこのまま歩んだ先に、エメトセルクと出会う稀人が居る。それはつまり、終末の再来を許すということでもあり、手放しに歓迎できる状態ではない。だが、エメトセルクが忘れ、ハイデリンが授けることが出来なくなった終末の真相を知るには、それしかないだろう。
託す相手が、彼女でよかった。エメトセルクは穏やかな気持ちで、塔の最上階に現れた彼女を眺めた。第一世界の英雄の肉を纏ったエリディブスが、彼女と対峙している。
エリディブスは自身を真なる人の最後の一人であると称する。……違う。魂はそうであっても、もう、旧き時代の意思は彼の手の中にないのだ。
世界を救いたいという意思を束ねて力とする。人ならざる存在の彼は、時代の流れと共にさらに歪んでいった。記憶はどんどん抜け落ちた。「エリディブス」であることだけが彼の存在意義となっていた。もはや、かつての記憶を取り戻そうとすることもなくなっていた。もう忘れたくないと、願った理由を今の彼は知らない。
エリディブスは、エメトセルクにとっても大切な弟分だった。あの美しかった日々の中の彼を知るからこそ、思うのだ。救って、ほしいと。
『アゼム、今度の旅、なのだが』
『もちろん、約束通り。ちゃんと白い仮面用意してくるんだよ! 私もそうする!』
『……企むなら、少しくらい隠そうという気概はないのか?』
『きみも行きたい? しょうがないなぁ』
『誰がそんなことを言った!』
『エメトセルク、心配なら、君自身がついてくるのは悪い選択ではないと私は思う』
『お前まで……! こいつの影響を受けすぎるなとあれほど……!』
笑いあった。共に生きた。あの日がもう一度来ることはもうない。過去には生きられない。
しかし、未来が失われたわけではないのだ。
彼女は旧い人の心を全部抱えて、彼方まで持っていく。お前の心も、きっと。
エリディブスが、召喚した救世の力を束ねる。激しい光の本流の中心で、生まれたのは原初の、なりそこないたちの英雄だ。どこかテミスと似た面立ちの「ウォーリア・オブ・ライト」は、その手に持った剣を振るった。空間を切り裂く斬撃が、対峙する相手の身体へとまっすぐに突き進む。
それを散らしたのは、溢れ出るエーテルだった。
中心に位置するのは、橙色のクリスタルだ。エメトセルクは小さく笑った。使い方をよく分かっているじゃないか。窮地に陥ったとき、いつもギリギリでその術を使っていた。もう少し使い所を、と叱ることもあったが、間に合わなかったことはなかった。
召喚された英雄たちは、光の戦士に向かって武器を抜いた。先陣を切る盾役の一撃とともに、決戦が始まる。
華々しく、エーテルが輝く様を眺めていた。剣が閃き、炎が散り、光が迸る。それと直接交わした時、何故なりそこないにそれほどの術が使える、と憎々しく思ったものだが、あれは意志の力だったのだろう。
お互い本気だ。魔法剣が切り結び、すかさず癒やしの術が飛ぶ。激しい戦闘を、手を出すことも出来ない死人は静かに眺めている。
本来、エメトセルクの目的は旧き世界の復活であった。懸命に走り続けるエリディブスは、その遺志を継ぐのは自分だと信じている。事実、海に沈んだ心を明かさねばそうであっただろう。彼と交わし、残した言葉は嘘ではなかった。
しかし今、エメトセルクは押される光の戦士を見て、眉根を寄せて微かに笑っている。長く走り続けた同胞に、終わりをもたらしてほしいと願っている。大切に思えばこそだった。お前は誰を愛していた。虚を抱えて、「エリディブス」のために走るなら、それは彼じゃない。
劣勢に陥ったエリディブスが、その手で編んだ術式を見て、エメトセルクは目を見開いた。まずいな、と小さく呟く。鎖による拘束魔法だ。いよいよ彼は、形振り構わず排除を目指した。勝つつもりならそれは正しい。どのような勝ち方でも、最後に立ったほうが正義だ。ボロボロのアゼムがそう言って笑っていたのを不意に思い出した。
「境界を裂き、かの地にお前を封じてみせよう。次元の狭間に浮かびし、我らが『果て』へ!」
鎖に囚われた英雄たちの姿が、物質界から掻き消える。先程まで激しく散っていた光は残滓だけを残して、あるのは静寂だけだ。さて、とエメトセルクは視点を切り替えた。暗く冷たい次元の狭間は、慣れ親しんだ闇が広がるエメトセルクにとっての休憩地点だった。
鎖は深く英雄たちの身に食い込み、押し潰そうとしていた。単身での次元の跳躍は、今の人の身には不可能な術だ。英雄たちは抵抗を続けている。しかし、解いても戻る手段がない。次元の狭間はエーテルの流れが少々特殊なのだ。元の場所の座標など目でも感覚でも測れない身体には、願った世界に辿り着くことさえ難しいだろう。
「決着か……終わりは静かなものだ……」
エリディブスの声が響く。ここで終わるのか。あの日の稀人へ続く未来は、いつだって途切れる可能性があった。いくつもの選択肢の中から繰り返し選び取って、やっとあの日の彼女に辿り着く。黒薔薇で呆気なく死ぬ未来のあった英雄だ、そんなことは知っている。
だが。エメトセルクは、じっと彼女を眺めていた。
人の身にその場所からの脱出は不可能だろう。ただひとつ、ある手段のほかには。
ふぅ、と息を吐いて、首を回す。気付くかどうかは賭けだった。本当にこの瞬間、狭間で擦り潰されて終わるかもしれない。けれど、それはどうにも選ばれない気がしてならなかった。いつだって、極限の状態で最良を選んできた。切れそうな糸を何度も繋ぎ直す執念が、彼女をここまで進ませたのだ。
さあ、願え。星々を繋げ。お前が手繰れば、運命は集うだろう。
――たとえ今は天地に隔たれ、心隔たれていようとも。
鎖が砕ける音がする。彼女はアゼムのクリスタルを頭上に掲げた。術式が、発動する。
魂に問い掛けられる感覚が、ひどく懐かしかった。ああ厭だ、と何度も呻いたけれど、結局彼女が自分を「しかるべき星」であると認識しているのは、そう悪くない心地だったのだ。委員会から離脱した彼女が喚ぶのなら、応えてやっても良いと思っていた程度には。最後に彼女を叱った時、次の出番が一万と二千年の時を経てからになるなど、エメトセルクは思いもしなかった。
お前が選ぶ、星であるなら赴こう。魂そのものを喚ぶことさえ可能とする術式に、薄く笑って応える。
クリスタルに込めたエーテルを用いても、死人の身体を留めるには難しい。物質界に魂を固定できるのは、たった一瞬だ。けれど、その一瞬があれば十分だった。
足の裏が地面に着く。閉じた目を開くと、肉眼に青い水晶が映った。
「そんな……君が……何故……!」
振り返り、驚きを隠せない光の戦士を見据えて、エメトセルクは手を掲げる。
八つの魂を掬い上げるなど造作もないことだ。ぱちん。指先が軽やかな音を響かせる。周囲に召喚式の輪が広がる。昇る光の柱と共に、再度英雄たちはこの場に顕現した。
必要とするのはこれだけだろう。言葉を交わすこともなく、エメトセルクは背を向けた。
さようなら、光の戦士たち。
ひら、ひらり。挙げた手を気だるく振って、歩き出す。一瞬息を呑んだ彼女の気配にも目を伏せた。仮初めの肉体は崩れていくが、もう心残りはどこにもない。
進め、前を向いて。連れて行け、砕けぬ想いの全てを。
目を閉じて、その魂は再び冥き海へと誘われた。
静かで、穏やかだ。吐息は泡になって、遥か頭上へと昇っていく。特等席に腰を落ち着けて、遠見のための目を開く。
当分こちらへは来るなよ。人に大穴を開けてくれたのだ。精々足掻いてもらわねば、退場した甲斐がないじゃないか。
想えば素直に微笑むことができた。
眺める瞳の色を指摘するものはまだ、誰もいない。
