そうして私の、朝が来る。

 柔らかく髪を梳く優しさに触れて、意識が浮上した。閉じた瞼の裏はまだ暗く、室内には明かりが灯されていないようだった。心地がいい。そうだ、最近は忙しくてすれ違うことが多かったけれど、昨日は久しぶりに会えて、触れ合えたのだった。
 互いに個よりも全を優先しがちな立場ではあるが、だからといって触れない時期が長いと込み上げるものもいくらかはある。個の幸せを追い求めて二人きりで過ごす時間はかけがえのないものだ。
 目を開くかどうか、アゼムはしばし考えた。この時が終わってしまうかも知れないと思うと、何だかもどかしい。しかしそれ以上に、今の彼がどんな顔をしているのかが気になって仕方がなかった。彼のことだもの、きっと私が目を覚ましたのには気付いている筈。その上で、温かな指先が耳を掠めるのだから、きっと。
 逡巡の後、アゼムはゆっくりと目を開いた。思ったとおり、向かい合う形で彼が横たわっていて、アゼムに手を伸ばしている。開いた瞳にも、彼は表情を変えなかった。鋭く睨むことの多い金色も、今は穏やかに輪郭をぼやけさせている。
 言葉を交わさぬまま、彼の顔をじっと見つめていた。寄せられてばかりいる眉も、今はほどけている。ああ、でもちょっと、眉間にくせがついちゃってるよなぁ。それを指摘したら多分、誰のせいだと眉を潜めてみるんだろう。私のせいだね! と明るく答えたら、おそらく溜め息が返ってくる。だから今は、何も言わずに、彼の表情を享受する。
 アゼムは、ともに眠った後の、彼の顔を見るのが好きだった。生真面目な彼の表情の緩む瞬間は、数えるほどしかない。常に真剣に周囲と向き合っている「エメトセルク」としての時間が長いものだから。そして、大抵アゼムのやらかすあれこれに胃を痛めているものだから。
 穏やかな顔をさせてあげられなくて、ごめんね、とは思ってみるものの、改める気は特にはない。それに彼も、改めろとは口で言うばかりで、実際にそうされたら寂しいんじゃないだろうか。
 すり、と頬を指の背がくすぐった。いたずらな指先に、アゼムは包むように触れた。血の通った肌の摩擦は、温かく、たまらなく気持ちいい。
 彼と来たら、とびきりの恥ずかしがり屋だから。こんな表情を見せてくれるのは、自分に対してだけだと、アゼムは自信を持って言える。外ではお互い、十四人委員会の仮面をつけている。古くからの友人の前では、二人はかつての名に戻れるのだけれど、それ以前に。名前のない二人になれるのは、互いにこの時しかないんじゃないか、と思った。
 愛している、と瞳に心を込めてみた。日頃からその想いは空気を揺らしているが、これが一番伝わる気がする。金の瞳が、仕方がなさそうに少し細くなる。アゼムは胸が、きゅうと切なくなった。好きだ。彼のことが、たまらなく好き。
 変わらぬ一日が始まるまで、このまま。もう少しだけ、彼を独り占めさせてはくれないか。

 

 夜の終わりに、目が覚めた。シーツは二人分の体温を、昨晩の熱量を残して包み込んでいる。じんわりと吐息が絡む、湿ったその空気のことを、自分は案外嫌いではない。
 瞳を開けば眼前に広がるのは、寝息を立てる恋人の顔である。彼女のそれが見たくて、今日もきっと、自分は揺り動かされたのだろう。時折訪れるこの時間は、滅多にないものが見られる機会であるから、逃すわけにはいかないのだ。
 表情を完全に失ったかんばせを、一体幾人が見れたものか。
 彼女はよく、表情を変える。いつだってその表情には心が乗っている。彼女は常に何かを聞き、感じて、考えた。思考のない時間などないのではないかとすら思える。無限に近い時を生きる人の身でありながら、時間が足りないと顔を覆うような女だった。
 旅人としての暮らしが長いからか、彼女は休息を取るのさえも上手かった。眠ろうと思えばどこででもすとんと深く眠りに落ち、人や獣が寄ろうものならすぐに平常と同じように瞳を開く。人前で眠る姿はよく晒しているものだが、本当の意味で彼女の表情が溶け落ちるのは。
 熱に疲れて意識は深く沈んでいた。安らかな寝息は、一定のリズムで二人の間に流れを作る。彼女の体力の回復は睦んだ後もそう変わらず、もうじき目を覚ますだろう。惜しいと思いつつも、だからこそ、これを目に出来る特別に酔いしれる。
 額から眉にかけてのなだらかな凹凸、女性らしい優しさのある鼻筋。よく動く唇は、今は慎ましく、微かに開く程度に留まっている。豊かな睫毛が、薄く差し込んだ光に弱く影を作っていた。眩しいほどの瞳は瞼の裏に隠されていて、彼女がただの「ひとり」であることを実感させた。
 手を伸ばして、細くしなやかな髪に差し入れる。普段なら、フードで隠せと叱ってやる部位だ。外の風に煽られるのが似合うそれは、しっとりと湿った空気の中で滑らかに指に触れ、落ちていく。ふる、とほんの少し睫毛が揺れた。もうじき、陽が昇る。
 思ったよりは粘ったな、というのが印象だった。彼女はゆっくりと目を開いた。
 冥い中で、その星はいつだって色鮮やかに主張していた。ぼんやりと焦点を合わせた瞳は、照れの色もなく、穏やかな体温を分かち合っている。指の背で頬をくすぐると、彼女は小鳥のように頬を擦り寄せて、ハーデスの手を自らの手で包んだ。肌と肌が絡まる。
 ああ、笑った。いつも快活に笑むその色はなく、彼女の瞳が緩やかに溶けた。じいと見つめた鮮やかな色は、震えぬ言葉とともに染み込んでくる。
 分かっている。軽く瞳に力を込めれば、満足そうに彼女は俯き、胸の中に額を押し付けた。
 腕の中にいるのは一瞬だけ。けれど、この星を捕らえられる人が他にあるか? 騒がしく平穏を切り裂いていくこのひとを。確かに愛しているのだ。
 飛び立つまであと少し。もう少しだけ、このままで。