てのひら

 きちんと関係を作るまでは、あんまりべたべたするタイプの人ではないと思っていたのだけれど。同棲の誘いをかけられて、毎週末ごとにお泊りとなっている現状、その認識は完全に裏返ったと言って差し支えないだろう。
 ヒカリは、恋をするのが初めてである。告白なら何度かされていたものの、いつも友達以上に思えず、サークル活動等が忙しいのもあって、断っていた。少し夢を見ていた部分もあるかもしれない。好きになる人は、きっとほかとはまるで違って見えるのだろうと。結果として、それは正解で、不正解だった。確かに惚れ込んで、誰からも明らかな盲目になったが、ヒカリ当人がすぐに気付けるものではなかったのだ。
 恋人というものになって。擽ったい、と思う。
 多分、彼は絶倫? とか言われるタイプの人間だ。夜毎にそれはもう甘やかしてくるので、色っぽい部分は存分に刺激となって現れる。日々悲鳴を上げるばかりである。まぁ、実際ものすごく気持ちいいし、見上げているととてもとてもドキドキするし、腕に包まれている時の多幸感に、溺れるのもさもありなん、といった感じなのだが。流されつつも、思い知る。
 恋人の営みというものは、何もいやらしいことに限った話ではないのだ。
 やることは相当やっている。かと言って、日がな一日中没頭しているわけでは全くない。広いキッチンで料理をしたり、一緒にダイニングでご飯を食べたり。シアタールームで映画を一緒に見たり、リビングでテレビをつけたまま、お互い読書を楽しんだり。同じ空間でゆるりと、他人と過ごすのは幸せなことだった。使用される設備がいちいち大掛かりで、別世界の男! と内心で叫ぶことはあるのだが、案外、人間二人の過ごし方は、年収に左右されるものではない。
 側にいるとき、時間さえ許せば、彼はヒカリを抱え込みたがった。真っ昼間から雪崩込もうという気はあまりないようで、ある意味メリハリが効いているというか。本当にただ、一番近くに居たいだけだと主張するような温度をしている。
 友人付き合いは非常に幅広くとも、その距離感を崩すようなタイプの人は得意ではなかったから、こうして触れ合うのも初めてだった。これはいいものだ、とこっそり思っている。今だって、ドラマの振り返り特番を見ているヒカリをよそに、エメトセルクは片手で本を捲っていた。ヒカリのいる位置は、ソファに腰掛けたエメトセルクの足の間だ。
 最初は体重を預けられずに、緊張で身をこわばらせていたものだが、生来ヒカリは割と図太い性格をしている。ほら、こい、と抱き寄せられて、段々と背に触れる体温と逞しさにも慣れて。すっかりこの体勢は「いつものやつ」になっていた。リラックスモードで、リアルタイムに同じ番組を見ている友人と感想をやりとりしている。
 各話の盛り上がる部分だけを繋ぎ合わせたダイジェスト映像に、家のテレビの前で見た初見感想を思い出しては、はしゃいで語り合う。意識は別々のものに向いていて、同じ場にいる二人が共有しているのは体温だけ。これが不思議と、心地いいのだ。
 ドラマは最新話の山場に差し掛かろうとしていた。一度見ているのに、わくわくとした顔で画面を見つめてしまう。最近売出し中の男性アイドルが、ヒロインに壁ドンして迫っていた。年下の男の子の、造りから真っ先に感じる可愛らしさを押しのけるような、「男性」の顔。ファンである友人の二度目の悲鳴が携帯の画面に現れて、くすくすと笑っていた。
 恋愛モノのドラマを見るのは好き。現実のロマンチックは、筋書き通りに行かず、楽しめるほど肝も据わってはいないので。ああ、いいなぁ。オリジナル脚本のドラマは、誰も先を知らない。続きはどうなるんだろう! フィクションに揺さぶられる緊張感は、どこか他人のものとして体感できるから気楽だ。
 特番が終わり、ヒカリは手を伸ばしてリモコンを持ち上げた。番組表を眺め、うーん、と首を傾げる。休日の午後、なんとも微妙な時間帯だ。単発のバラエティをやっていたり、スポーツ中継をしていたり。欄の説明を読みながら、いくつかチャンネルをジャンプしてみていた。
 ふと、彼の手に気付いたのはそんな瞬間だった。片手で本を捲るエメトセルクの空いた左手は、ヒカリの腹に回っていた。それはいつものことであるので、何も気にすることではない。だが、娯楽に対する集中力が途切れたことで、急に鮮明に認識してしまったのだ。
 彼の手は大きい。先輩であるリットアティンや、仕立て屋のローズほどではないが、それでもヒカリよりはかなり上背があるから、身体のパーツのひとつひとつも、それくらいのサイズ差がある。更に、手は年齢や性別が驚くほど現れる部位でもある。
 恋人の手が、ヒカリは結構好きだった。力仕事をする人ではないが、余暇に鍛えていることもあってか、手のひらは少し皮が厚く、ごつごつしている。やや節の目立つ細すぎない指は、大きさから想像するよりずっと器用だ。それが黒く光るペンを持って、几帳面な字を書く様が好きだったりする。
 皮膚の様子を見ていて、世代の差を実感する。若々しいハリはないが、熟成された味を感じるというか。不思議だ。元々年上好みではなく、親子ほどに歳の離れた相手なんて、恋愛対象ではなかったのに。今は、肌の落ち着いた色を見て、胸を高鳴らせている。
 不意に、手のひらが動いて、ヒカリは瞬きをした。特に意図はないらしく、彼の意識はきちんと本に向いているのが感じられた。優しく、そっと撫でるだけ。悪戯だとか、そういう意味合いもなさそうだ。ほう、と息を吐く。触れるだけのそれが、なんだかとても気持ちいい。
 さらり、さらり。時々、ちょっと指先に力を籠めて。面白い番組をやっていないのも、不満ではなくなっていた。やってることも解説もよくわからないスポーツ中継の画面のまま、ヒカリはぼんやりとテレビを見ている。あー、眠くなってきそう。このまま彼に体重を預けてお昼寝してしまうのも、悪くない気がする。
 半分瞼を下ろしかけた。意識がより手のひらに向く。お腹の下の方、生理痛の時とかに温めるの、いいんだよね。今度辛いときに頼んでみようかなぁ、とか。考えたところで、思い至る。
 ……さっきから、同じところしか撫でてなくない?
 落ちかけていた瞼が、ぱっと開く。薄い腹の下は、夜、致している時に叩かれる場所のあたり。すなわち、子宮の位置である。
 無意識? 無意識だよね? 認識した途端、そうとしか思えなくなってしまう。そういう場所を、撫でている。今はちゃんと避妊をしているから、正しくそこを犯されたことは一度もないのだけれど。そこはいずれ、子を孕み、育てるための器官である。
 うえ、あ、ああ……。ヒカリはひどく動揺した。いや、多分、きっと! まだ日は高いのだ、彼はそんなこと、全然考えてしてないんだけど! 顔がじわじわと赤くなってきていた。
 もしかして、あかちゃん。ほしかったり、……する、のかな。
 同棲とか、指輪とか。先々の差し押さえっぽいことは、最初から示唆されていた。ヒカリだって、普通に結婚したいし子供もほしいと、「だからあなたじゃだめなんだ」という理由付けのために既に告げている。その上で私を選べと迫ってきたのだ。そうするつもりであるのは、察してしまう部分でもあり。
 や、でも、まだ、早くないですか。顔を赤くして俯く。優しく、手が下腹を撫でている。慈しむような温度だが、やたらめったらしつこい。湿度のないそれが、妙にねっとりと感じられるのは、受け取る側の心持ちでしかないのだろう。
 ふわり、ふわり、陽だまりのように感じられていた「気持ちいい」が、段々とすり替えられて来ている気がした。どこか、夜の行為を思い出してしまう。汚してしまった手が、直接腹を押した時のこと。内側をより鮮明にさせるためのそれが蘇って、ヒカリはぶるりと肩を震わせた。
「……ヒカリ?」
 赤くなった耳は、抱えた状態でもよく見えただろう。微妙な振動に、彼が昼の調子で呼びかけた。腹を撫でる手がぴたりと止まる。本が閉じられて、空いたスペースに置かれた。もちろん覗き込んでくる恋人に、ヒカリは顔を反対側に向けた。
「どうかしたか?」
 低い声は、緊張のないオフの時のものだ。いやらしい含みのない音に、ヒカリは早口で返した。
「なんでも」
 たった四つの音なのに、エメトセルクは「ほう」と意味深長に頷いている。カチリ、スイッチは回転式でなく、一息に押し込むものであるらしい。
 右の手が、ヒカリの顎を後ろから掬った。すりすり、と唇の淵を親指が弄んでいる。ヒカリは時計を見上げた。冬とはいえ、まだまだ日は落ちる気配がない。
「どうして、そんな顔をしている? なぁ、ヒカリ。私はこと、恋人の表情に関しては察しがいい自覚があってな。まるでお前、……抱かれている時のような色香じゃないか」
 ヒカリは両手で顔を覆った。ふるふると首を横に振る。
「まだ夜じゃないです」
 だがしかし、これから特に予定があるわけでもないのだ。
 唇が耳を辿り、ぁ、と甘い吐息を零す。今度は明確な意志を持って、指先がセーターの裾から侵入した。だめ、それをされたら。ニットの内側、平たい腹を、手のひらが、撫でる。
「〜ッ!!」
 たったそれだけで肩は震え、すっかりその気にさせられてしまう。
 家の中の時計は狂っているようだった。
 ご飯と、お風呂と、スキンケアしながらのドラマ鑑賞と。それだけは死守、しておかないと。
 そう思いつつも、興味のないテレビの音が消されるのは、ヒカリだって歓迎なのだった。