ひとり分の食料を得るためだけなら、直接狙うよりも罠を仕掛けた方が効率がいい。
木を削り出して、革紐や丈夫な腱と組み合わせる。獣が踏むと体重で作動する罠や、紐が引かれるのに合わせて作動する罠など。元々分担としてはヘルカに教える側に回れる分野だ。口に革紐を咥えて、小刀で木を細やかに削る。時折調子を確かめるために体重を掛けると、いい具合にしなってくれる。これなら問題なく使えるだろう。
主な拠点としている洞窟は、自然に出来た便利な風除けだった。熊に類する獣の古巣穴であったようで、奥には擦れた地面に太い毛が残っていた。ひとりで過ごすようになって初めて見付けた拠点であり、点在する巣の中では一番資材が置きやすい。広い森を見回る為に拠点はいくつも置くのが慣例だが、必要がなければよくここに籠もっていた。
巣穴を出て、空を見上げる。月齢と星の位置を見れば、今がどれくらいの季節のどんな時間帯かは分かる。春の終わりに別れてから、半年ほど。
きみが居なくても、僕は生きていた。肉や魚を狩ったり、果実や木の実を集める。食べて、寝て、襲う獣に抗えば、命は問題なく続いていくのだ。生きていく要件は揃っている。その上で人らしく生きていく為に、水を浴びて垢や汗、獣の血を落とし、小さな骨を削り出して作った針に、虫の繭から撚った糸を用いて、服や寝床を整える。
余裕があるとは言えない。もう少し経てば、冬がやってくる。山脈に連なるこの大地の冬は厳しい。集落に居た時だって、皆で分担して冬支度をしたものだ。生かすのが数十人規模から一人きりになっているとは言え、必要を逆算して、早い時期から準備をしておかなければならない。干した肉や魚、乾燥させた木の実の粉など、食料の貯蓄もそうだし、拠点自体を防寒仕様に組み替える作業も。毛皮などを採集、加工して、防寒具も一揃え作らないと。資材集めに、実際の作業時間も考えれば、夏頃から取り組んで丁度いいくらいだ。
冬は生き物の数が減る。毎日食っていくだけの数を得るだけでなく、先々のことを考えて多めに狩らなければいけないから、狩りの支度の量も単純に増えていく。しかもだ。
「……どうだ」
人の気配を察知して、僕は夜の中に目を凝らした。そこには槍を持ったマスターが立っていた。こちらを見る彼に、僕は頷いた。
「指示通り、鹿は多めに狩っています」
森全体のバランスを整えるのも、狩りの役目の一つだ。もちろんヒトの利益のためだけに狩るなんて、森の中では大罪である。森がよく循環するように、生態系のバランスを上手くとる。集落の周りは女たちがしてくれるが、カバー出来ない範囲では僕らがそれを司っていた。
今年は、鹿が増えすぎてしまったようだ。鹿を食らう大型の獣の子が、上手く育たなかった為である。鹿は美味い肉や、皮に骨、腱、角などを提供してくれる、ヒトにとっては非常に有用な獣であるが、増え過ぎれば冬に樹皮を食んで、木々を枯らしてしまうこともある。
害にならないように適度に間引く。もちろん大型の獣が増えすぎてしまえば、僕らが狙うことになる。鹿程度ならまだ準備もそれほど多くはないが、熊やなんかを仕留めるとなると……。初めての冬前の課題は、それなりに恵まれているのだろう。
マスターは僕を一瞥して、目を細める。
「……良いだろう」
なんとか僕は、形になった生活を出来ているらしい。最初は叱責を受けることも多かったが、二月も過ぎれば隣に誰もいない生活にも慣れて、与えられた課題もこなせるようになっていた。しばらくはマスターの来訪が続くだろうし、一人前とはとても呼べないが、マシになったという意味で、自分の成長というものを実感する。
「あの、マスター」
僕はおずおずと声をかけた。マスターの視線がこちらを向く。腕を組んで、呆れたような顔をしていた。
「……彼は、どうしていますか」
毎度のことだったから、今更取り繕えることもない。
一人で、生きることは出来る。衣食住を整えれば、ヒト一人、問題なく息をする。動いている心臓に、温かな体温に、まさか死んでいると言うこともあるまい。
けれど。空を見上げては、きみのことを考えた。隣にいないきみのことを。
ヴィエラの雄と雄は、師弟でもない限り森の中で顔を合わせることはない。本来なら、雌を取り合うライバルという立場だ。自然界の習わしとして、強い雄が、子を残す。男であれば自分の血を残すことこそが、生きる上での最終の目的であり、他の雄は敵になりうるという訳だ。だから顔を合わせなくとも何も感じないのが至極当然のことと言える筈。
でも、長く積もった僕の男でない部分がそれを良しとしないのかも知れなかった。自分が生きる、それだけに必死になる程度には生に余裕はないというのに、ふとした瞬間にきみが何をしているのかを考えた。
僕が教えたとおりに、罠の細工は出来ているか。ああ、彼ならきっともっと上手く立ち回るだろうに。こんな風に木の実を挽くだとか、そういう手間はきらったよね。毛皮を剥ぐのはきみが上手かったけれど、鞣す処理は僕のほうが得意だった。
生活のためにするひとつひとつにきみの顔がちらついた。今、何してる? 何をして生きている? 気になって仕方がなかった。何を思うのか、きみから聞きたい。僕が何を思ったのか、きみに伝えたい。本当はとっくのとうに一人の筈なのに、きみのせいで僕は独り立ち出来ずにいるのだ。身体ばかりが大人になっても、僕の心は体温を求めるままに嘆いている。
だけど直接会いになんて行けるはずもない。いつだって僕は物事を先延ばしにした。マスターは、ため息を吐いた。
「健康そのもの。食料の調達もつつがなく。課題も簡単にこなす」
何も問題はない。毎回マスターはそう答えた。僕はそれ以上は聞けず、ただ、目を伏せた。言葉はあっても、具体的な話がある訳ではない。嘘をつくような人ではないから、信じて笑えばいいだけなのに、それが出来なかった。
「ありがとうございます」
会いたかった。直接見ることができればと、心の底では願った。頭を下げれば、マスターは踵を返し、夜の闇の中へと溶けていった。
自らの巣に戻る。蝋燭の火がちろちろと岩肌を舐めている。作業場の木片を隅に寄せて、寝床の準備をすることにした。ぐるりと思うことのある日は、さっさと床に就いてしまうに限る。
ひとりで眠るのにもとうに慣れた。厚く敷いた毛皮の上に、肌触りの良い布地を敷いて、ごろりと横になる。
ふと、手のひらに革が触れた。僕は薄い闇の中で、そっとそれを持ち上げた。
首からさげていた護符だ。ずっと肌身離さず身に着けていた。革袋は大事に撫でていたお陰で、適度な脂を吸って柔らかに光っている。中身はきみと僕の髪を編んだ輪で、繋目はきみの瞳の色をした石が飾っているのだ。
蝋燭の火を吹き消した。かすかに闇を退けていた炎が消え、洞窟の中が黒に満ちる。
両手で護符を握り、祈るように身体を丸めた。とくん、とくん、心臓の音が穏やかに胸を震わせる。
あの頃は。幸せだったと思う。くるくると表情の変わるきみを見ているだけで飽きなかった。ただ重ねる日々が何事もなく煌めいていた。どうせ終わるものだと知って、期限の切られた暖かな日々に視線を落としていても、それでも隣にある体温に心が安らいだ。きみの存在が、わたしをわたしとして確立させた。
生きるとは、息をするだけのことではないのだ。苦しい。……苦しい。大人になれば物わかりが良くなるのだと信じていた。期限を過ぎれば自動的に次の段階へと進めるものだと。普通なら、きっとそうに違いない。大人たちは全員が大人だった。なのにわたしは、息ができない。酸素を吸い込んでなお、はくはくとわたしは唇を震わせた。ぎゅっと祈る形に組んだ手を、 額に押し付ける。
うつろが胸に針を刺す。馬鹿みたいだ。どうして僕は賢くなれないんだろう。いつまでもきみに手を伸ばしている。正しい大人になりたかった。軌道に乗せられたら自然とその形に納まるものだと思っていた。身体が震える。寒くて仕方がない。縫い合わせた毛皮を被って、目を強く瞑っている。
落ちるような錯覚を覚えた。
たすけて。小さく心の中でつぶやく。
たすけて、……ヘルカ。
身体が熱くて目が覚めた。内側で熱が暴れているみたいだ。目を開けば、洞窟の入り口は白を取り込み、朝が来たことを知らせている。
熱くて、熱くて、仕方がなくて。熱病にでも罹ったなら、常備している薬草を擦り潰して薬を作らないといけない。でも、幼少期から幾度となく味わったそれとはまた違った感覚だった。身体の重さ、だるさはまるで無く、ただ熱が内側に籠もっている。単純に、冷たいものに触れたいと、僕は弓と矢筒を背負って洞窟から這い出た。
とにかくこの熱を捨てたい。目指したのは泉だ。洞窟からほど近くにある清らかな泉は、いい水浴びのポイントだった。下手に獣に出会うこともなく、まっすぐに辿り着く。
熱い。服の留め具を外すと、そのまま地面に落とす。汗ばんだ肌に、秋の風が心地よく触れた。でも、すぐに熱の方が上回るものだから、足りなくなる。
泉に爪先から、足を踏み入れた。ひやりとした冷たさに息をつく。ちゃぽん。もう片足も入れて、少しずつ深いところへと歩んでいく。熱が奪われていくが。やはり、どうにも足りなくて。
どうしよう。変な病気だったら。少し泣きそうな心地になる。ヘルカ、ヘルカ。最後にきみに会いたかった。胸にさげたお守りを、額に寄せて祈る。
がさり。背後で、音がした。
目を見開いた。そこにはきみが居た。居るはずのない、きみが。
そこではたと気付く。なんと現実的な夢であったのだろう。きっと目が覚めるところから夢だったのだ。思わず笑みが溢れる。眠る前にきみのことを強く考えたものだから、こんなことになってしまった。
「イルヴァ?」
声が耳に触れて、呼吸が荒くなる。ぎゅう、と胸が締め付けられた。きみが薬になると思ったのに、むしろ悪化するばかりだ。きみは泉に沈む僕へと近付き、しゃがみこんだ。赤い瞳が戸惑いがちに揺れている。
「ヘルカ」
ぼくは水面を揺らして、きみの傍に寄った。そして、手を伸ばす。きみの首の後ろに両手を掛けて、首筋に鼻をすり寄せた。息を吸い込むと、きみが居る、と実感する。はぁ、と熱い吐息が溢れた。
あぁ、だめだ。一度触れたら我慢がきかない。なんだか腰が重くて、むずむずする。首筋だけじゃ足りない。少しずつ体重がかかり、とさ、ときみが水辺に転がった。丸い目をしたきみを見下ろして、思うままに腰を押し付ける。
「お前さ、何してるか、わかってる?」
僕はふるふると首を横に振った。わかんないけど、こうしたい。頭がふわふわとして、ばかになっていた。きみ以外の何もかもが頭の外側へと消えていく。
きみは苦笑した。僕の髪をきみの手がそっと掻き上げる。
「わかんないなら、しょうがないな」
きみの脚が、ぐり、と僕の足の間を押し上げた。ぶる、と身体が震える。
「苦しい?」
「くるしい」
「じゃ、……貸しひとつ、な?」
ぺちぺちと頬を叩かれる感覚がして、僕は目を開いた。木々がぐるりと取り囲む、青い小さな円状の空が僕を見下ろしている。ゆらゆらと身体が軽く、まるで水の中に沈んでいるような。
……ような、というか。
ぱしゃん、と大きな水音を立てて僕は起き上がった。ゆっくりと横を見ると、服を纏っていないヘルカが、顔に跳ねた飛沫をぐいぐいと腕で拭っていた。
「ここどこ!? なんでヘルカが!?」
「お、正気だな?」
ヘルカはにい、と明るく歯を見せて笑った。それでいて目の細め方が、悪い顔をしている。僕は伸ばしていた手足をきゅっと身体に寄せて、自分の身を抱いた。
水の温度は火照った身体に気持ちよく、肌を優しくふやかしている。浅いところで縮こまりながら、僕はヘルカを恐る恐る見た。
「あのさ、ここ、僕の縄張りだよね?」
「ん? まー、そうなるな」
「……僕、なんでここにいるんだろ」
「お前が来たからだろ?」
「やっぱりそうなるよねぇ……」
どうやら夢ではなかったらしい。目が覚めて、自分で涼を求めて泉にやって来て、ヘルカが何故か来たから、僕は止まらなくなって……。夢だと思った痛烈な快感を思い出して、僕は両手で顔を覆った。あれは良くないことな気がする。
つんつんと横から楽しげなリズムで肩を突かれる。
「お前さー、さっきみたいになったの初めてな訳?」
「……うん、初めて。何なの、アレ」
顔から手を外し、横を見る。にやにやとヘルカは笑って言った。
「発情だよ、発情。良かったな、来たのが俺で。出会ったのが女なら事が事だし、師匠ならお前の命がやべえぞ」
「発情……」
本来なら、繁殖の時期に起こる現象のはず。しかも、女性が相手になって然るべきだ。なのにどうして、こんな時期に、……きみを相手に。ぐるぐると頭の中が混乱して極彩色がぐしゃぐしゃに混ざり合う。
ヘルカはそんな僕を見て、目を剥いた。まじかよー、などと呟いている。
「お前、男なのにそういうのホントに潔癖だったんだな。子作りの仕方、わかるか?」
「……バカにしないでよ。女性の生殖穴に挿れればいいんだろ」
「でも、挿れるまでに溜まるのは知らねえんだろ」
「溜まる……?」
僕は首を傾げた。やれやれ、と大袈裟にヘルカは首を振り、両手を掲げた。そして、意地の悪い顔をして、右の手を輪っかにしてみせた。
「手を穴に見立ててな、定期的に出すの。男なら自然に覚えることだと思ってたぜ。いやぁ、イルヴァちゃんのなんと清楚なこと」
僕は顔をかっと赤らめた。先程ヘルカにしてもらったこと、ヘルカにしたことを思い出したのだ。立てた膝に顎を乗せて、誤魔化すようにばしゃりと水を跳ねさせてぶつけた。……気持ちよかったけど、心臓が保たない。あれは良くないことだ、やっぱり。ぎゃーっ、と大袈裟に叫ぶヘルカが、水をかけ返してきたから、耳を押えて逃げる。
ばしゃばしゃばしゃ、水の掛け合いなんて子供みたいな真似をしたあと、ずぶ濡れになった僕らは顔を見合わせてけらけらと笑っていた。
目に入りそうな水を手で拭い、僕はどっかりと岩にもたれるヘルカを横目で見て訊ねる。
「きみがどうしてここに居るか、まだ聞いてないんだけど」
「ん? ……お前に呼ばれたからだと思うんだけど?」
事も無げに、ヘルカはそう答える。僕は目をぱちぱちと瞬いた。確かに僕はきみを呼んだ。心の中で、会いたいと。その声は空気を震わせている筈もなく、遠く離れたきみには届いていない筈だった。
むしろ奇妙な顔をするのはヘルカだった。彼は泉から上がり、ぶるぶると髪の水滴を振り落とすと、手で身体に残った水滴を掬って捨てる。裸のまま、すぐ側に落ちていた彼の服の所まで歩いて、ベルトを引き上げた。
そこには、小さな革製のポケットが付いている。彼はそれの留め具を外して、中身を取り出した。つまみ上げたそれを、僕へと見せ付けてくる。
金と青の輪になったリボン。付いているのは灰青の石。僕は自分の首にかけていた革の小袋を引き上げた。石が違う同じものが、中に収まっている。
「こいつがちょっと光ってさ。で、なんかお前に呼ばれてるような気がしたんだよ。特別なお前と俺の護符なんだろ? お前になんかあったんだろうって思ったから、こいつに呼ばれるまま来てみたんだよ。そうしたらお前、発情がコントロール出来なくて死にそうってばかかよ。はー、心配して損したぜ、まったく」
「……これ、効果あるんだ……」
「はぁ!? お前、自分でも信じてねえのに寄越したの?」
「あっ、ちが! そういう意味じゃなくってね!? 確かに僕にとっては効果があるものだけど、きみにそうやって伝わるものだとは、知らなかったんだ……」
僕は宝物を両手で握って考え込んだ。姉のカイサも、手紙にそんな効果は書いては居なかったけれど……。絆の証というのは、魔法的に直接結び付けるものだったのだろうか。
泉の中の僕を置いて、ヘルカはてきぱきと身支度を整えている。
「なぁ、それ、どうやって作ったんだ?」
「どうって、きみの髪と、僕の髪を編み込んだものだよ」
「それは知ってる。護符として作用するなら、何かしらの祈りが籠められてるってことだろ?」
「えと、うん……僕のエーテルが籠もってるよ」
「んじゃ、未完成なんじゃねぇの、それ。ふたりの護符なら、籠めるエーテルも二人分。違う?」
「…………う」
服を身に着けたヘルカが、泉のほとりでしゃがんで、僕を見ている。なんでわかるのかな。ヘルカは手の中の自分の護符に、額を寄せて小さく祈った。ふわりと青い光が立ち昇り、護符の中へと吸い込まれていく。
彼はそれを自分の腰のポケットに戻し、僕に手のひらを上に向けて手を差し出した。僕はおずおずと、首の後ろの留め具を外し、彼の手に載せる。同じように祈りを籠められるそれを見て、僕は少し俯き、顔を赤くしていた。
「ほら、できた。……何変な顔してんだよ」
「な、なんでもない!」
手から引ったくるように取り戻すと、首の後ろで紐を留める。胸の真ん中に来たそれは、なんだか少し重く……そして、暖かく、感じた。
どうしてきみはそうなんだ。あの日諦めた気持ちが、まるで結ばれてしまったように思える。あの日の気持ちを知るのは僕ひとりだ。それを。
それを今も忘れられずに、思い出しているというのに。
「じゃーな! 師匠に怒られねえうちに帰るわ」
「……うん」
槍を拾い上げた彼は、足音も軽く昼の森の中へと消えていく。その後ろ姿を見送って、僕は目を伏せた。
いっぺんに色んなことが起こって、理解が追い付かないけれど。水辺から上がって、心地よく冷えた身体で洞窟に戻る。昨日作りかけていた木と小刀を手に取ったけれど、やる気になれなくて指の寂しさを紛らわせるだけだった。
ぼんやりと思い出すのは、きみの顔だ。僕の下にいた。わからないまま腰を重くさせる僕の目には、ずっときみの赤い瞳が残っていた。仕方ないなぁと目を細める、兄ぶった優しげな瞳は、僕が欲のままに触れると、少し熱を持って綻んだ。
額に手を当てて俯く。僕の発情のきっかけは、間違いなく彼だ。彼を想ってそうなった。そして、彼に。……彼に、種をまきたいと。顔に熱が昇る。ほかの女の子じゃだめなんだ、僕は。男そのものであり、そうなろうとする彼を冒涜する想いを、この胸の中に抱いている。
僕は、彼のことが好きだ。
子供の、名もしれぬ恋だった頃を越えて。男女などなく、ただ傍に居たいと思う純粋な願いを踏み付けて。僕のそれは、間違いなく性の欲だった。
からん。乾いた地面に、手に持っていたものが溢れていく音がする。
僕は両手で顔を覆った。涙が滲み出していた。泣くな。そうきつく詰っても、泣き虫の僕の涙腺は言うことを聞いてくれない。ぼろ、と重力に従って球体から滴り落ちていき、指と地面を濡らした。
多分、ずっとずっと好きだった。恋ならまだ許せた。子供の頃の儚い思いだ。でも、それはどろりとした執着として頭をもたげてくる。物心ついたときには当たり前だったそれに、名前を付けたくなくて、いつまでも逃げていた。
だって、最初から叶わないと知っていたから。男女なら一度は結ばれるかもしれない。でも、それだけじゃ絶対に我慢ができない。僕は、全部、欲しいのだ。彼のすべてがほしい。彼を独り占めしたい。ほかの女の誰に種をまくのも嫌だ。女に良い雄として見詰められるのすら本当は嫌だ。彼の視線に映るのが、僕だけならいいのに。
ヴィエラの生き方全てに真っ向から歯向かう感情だった。しゃくりあげて、喉が鳴る。
ごめん、ヘルカ。ごめんね、母さん。ごめんなさい、マスター。
僕は、この気持ちを、どうやったって捨てられない。
生まれてから、今まで。性別がわかってからも。僕は成長したらいつの間にか、身体に沿って普通の生き方が出来るようになるんじゃないかって、ずっと期待をしていたのだ。女になれば、男を受け入れる心が作られる。男になれば、女に子を残させる欲求が生まれる。でも、そんなことあり得なかったのだった。ただ、きみが欲しかった。きみを僕のものにしたいだけだった。男とか、女とか関係なく。他人というだけで、愛の対象にはなり得なかった。
胸の中央に触れる。もう、名前は呼ばない。そこには、彼の祈りが籠もっている。間違えて向かい合ってしまった、心が佇んでいる。欲を知らぬままで居られれば良かったのに。きみが戯れに寄越した心の欠片に、こんなにも胸を乱されている。
好きだよ。
告げることのない想いだ。押し殺せぬそれを抱えて。僕は、最後にしたい涙を流した。
