キスの日

「ヒュトロダエウス〜!」
 今日も今日とて、我が友人は生きるのが楽しそうで何よりだ。跳ねるような足取りで目の前にやって来たアゼムは、後ろで手を組んでにこにことヒュトロダエウスを見上げている。
「今日はねぇ、キスの日なんだって!」
 ヒュトロダエウスは思わず笑ってしまった。視界の端には、彼女を見るなり声を掛けようとしていたもうひとりの友人が居たのだが、アゼムの言葉を耳にして表情を強張らせた。彼女には見えない位置でだけ露わにしてしまうのがいじらしい。
「へぇ〜、そうなんだ?」
「うん、記念日の協会が定めてね。今、絶賛宣伝広告中らしいよ」
 ははぁ、なるほど。やれ、あのイデアが認定された日、だとかあの功績を成した人物が還った日、だとか、あれこれと理由を付けてとかく記念日は増え続けている。それはもう、毎日が何かしらの記念日なんじゃないかと思うほどに。
 でも、真剣だったり冗談だったり、制定の理由はまちまちなのだろうが、その巷に溢れる記念日というものがヒュトロダエウスは案外嫌いではない。長く繰り返す人生であるから、一日にちょっぴり味付けをしてくれるスパイスは、結構悪くないと思う。
「アゼムは依頼で宣伝活動中?」
「いいや、自主的にだよ。キスの日、なんかもう存在が可愛いよね! 何だか耳にしたらぽかぽかしてきたから、友達みんなに教えてるんだ〜」
 あのアゼムが広めているとなれば、来年の今日は街中に知られた記念日になるのだろうなぁ、とヒュトロダエウスは微笑んだ。本人はあまり意識していないだろうが、アーモロートに流行させるにはアゼムの興味を引くのが一番なのだ。
 キスの日。キスの日かぁ。ヒュトロダエウスはアゼムにぱちんと片目を瞑ってみせた。
「もちろん、彼にも教えてきたんだよね?」
「えっ? だ、だれのことかな……」
 アゼムはあからさまに目を逸らしたので、ヒュトロダエウスは口元の笑みを濃くした。
「やだなぁ、エメトセルクだよ、エメトセルク。ワタシたちが知ってるのに彼だけ知らないのは可哀想でしょ?」
「そ、そうかぁ? 彼、この手の記念日のこと全部馬鹿にしそうじゃない?」
 それはまぁ、そうだろうな、とは思ったが、ヒュトロダエウスは全く顔には出さずに「そう?」と首を傾げた。創造者が自らの創造分野を盛り上げるため、無理矢理に記念日をこじつけたりしているのは若干ヒュトロダエウスや彼の耳にも入ってきていて、どの日にすれば一番広まるかと真剣に弁論している様に、エメトセルクは少し呆れていたように思う。
 キスの日だってそういう記念日の類なのだろう。けれども。最近少し彼を意識している彼女を焚き付けるチャンスだ。話し掛けられずに背景に溶け込もうとしているエメトセルクには聞こえないように、ヒュトロダエウスは声を低めた。
「彼に教えておいでよ」
 アゼムは少し顔を赤らめた。
「ヒュトロダエウスが言ってきてよ」
「キミが言うことに意義があると思うな」
「なんか恥ずかしいしやだ」
「どうして? 友達に言うくらい、キミならわけないでしょ?」
 友達、をあえて強調して言うと、アゼムは胸の前で指をつつき合わせた。もごもごとまだ何か言い訳をしていたが、そこでヒュトロダエウスは顔を上げて手を振った。
「やぁエメトセルク! 良いところに来たね! アゼムが何か話したいらしいよ!」
「は? え!? うわっ!」
「人の顔を見て随分な反応だな?」
 たまたまそこを歩いていたら捕まってしまったという顔をしているが、最初から目的としていたのは彼女だろうに。
 ほら、アゼム。ヒュトロダエウスは肘でアゼムをつついた。アゼムは驚いた顔で振り返ったが、にこにこと笑う友人が全く引く気がないのを見て、小さく息を吐いた。
「エメトセルク〜……?」
 いつになく気弱なアゼムに対して、エメトセルクの威圧的な顔と言ったら! くすくすと笑う口元を隠して、ヒュトロダエウスは特等席からの観戦を決め込んだ。
「今日って、何の日か、……知ってる?」
 うっすら頬を染めて、視線をうろつかせながら。ヒュトロダエウスはエメトセルクが喉で一瞬唸ったのを聞いた。ほんとここまで来てるのにどうして付き合わないんだか、と少し呆れつつも、彼の出方を見守る。
 エメトセルクは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「優秀なアゼム様の頭脳なら、まさかお忘れにはなっていないだろうが……。お前、先週末だった報告書の提出期限、今日まで伸ばしてもらっていたな?」
「…………あ」
 ヒュトロダエウスはアゼムの死角からブーイングのハンドサインを示した。そういう逸らし方は求めていないよ!
 一方のアゼムは、完全に忘れていた、という顔である。慌ててパラパラと手帳を捲ったが、書類の期限を書いているところを見た試しがないのでおそらく無駄だ。はぁ、とこれみよがしに息を吐いたエメトセルクに、アゼムは拳を握った。
「あと三日! 三日あれば上がると思う!」
「三日だと? お前、あの程度なら半日で済むだろう」
「書類仕事に慣れてるきみのペースで考えないでくれ! 私の苦手度合いを舐めるな!」
「胸を張るな。分からないやつだな」
 エメトセルクは、とん、とアゼムの仮面を指先でつついた。
「私が手伝ってやれば、それくらいで終わるだろうと言ってるんだ」
 アゼムは仮面の下でぽかんと口を開けた。そして、ぱあっと顔を輝かせる。
「エメトセルク! 愛しているよ!」
「うるさい往来で叫ぶなさっさと執務室に来い」
 エメトセルクはアゼムの首根っこを掴んで、引きずるように歩き出した。抵抗せずに連れ去られるアゼムが振っている手に同じく振り返して、小さくなる影を見送ったヒュトロダエウスは、彼の表情を思い出してにやにやと笑った。
「二人っきりになりたいって、伝わってるかなぁ?」
 まぁ、日頃よりはまともに話が進むだろう。なんせ、今日はありふれた特別な日だから!

 

 実際、アゼムはひどく書類仕事を苦手としていたが、補佐さえあれば全くできない訳ではない。いつも、興味のないことがお題だと簡潔すぎる文面しか提出できず、ラハブレアに何度でも突き返される。しかし案外記憶力はいいので、聞き取りに付き合う形をとってやりさえすれば、それなりに見栄えのする報告書が出来上がるのだ。
「お、終わったぁ〜!!」
 アゼムは半分泣いた声を上げてペンを放り投げた。エメトセルクも暇ではないので毎回付き合ってくれる訳ではないのだが、彼が一度付き合うと決めてくれれば、アゼムが期限をぶっちぎることはない。付き合ってくれないとまぁそこそこあるのだが。
 予定よりも早く終わり、使い魔に託して窓から書類を飛ばすと、アゼムはぐったりと窓の縁にもたれた。
「つ、疲れた……」
「褒めてはやらんぞ。本来の期限は既に過ぎている」
「知ってるよぉ……! 今日もありがとうエメトセルク! きみのおかげだ!」
 振り返ってへらりと笑ったアゼムに、エメトセルクは靴音を鳴らして近付いた。まだ落ちてはいないものの、少し傾いた日を眺めて、開いた窓に手を掛ける。 アゼムは身を捩って、彼の手から離れた。
 両開きの窓を閉め、鍵をかけたところでエメトセルクは小さく溜め息を吐いた。
「……ところでお前、ヒュトロダエウスのところに来るまで、散々今日が何の日か喧伝して歩いていたようだな」
「えっ? あっ、あー……そ、そうだけど、それが何? きみには関係なくない?」
 今日が何の日か、アゼムは思い出して目を逸らした。そういえば、もう風がない密室になったのだった。散々今までずっとふたりきりで顔を突き合わせていたのに、気付くとやたらと意識してしまって良くない。
「っていうか、きみにとって今日は私の書類提出日だろ!」
「あれだけの大声を出していたら、聞こえているに決まっている。キスの日、だったか」
 う、わー……。アゼムはエメトセルクの口から聞くにはおおよそ似合わない言葉にほんの少し熱を上げた。とてもよろしくない。
「お前のことだから、男女の差もなく会うやつ会うやつに言ってのけたんだろうな」
「そりゃ、そうだよ。そこには何の差もない」
「私には言えなかったくせにか?」
「……っ」
 アゼムは驚いて目を丸くした。バレてる! じわじわと照れが滲んで、少し後ずさると、すぐに棚に背中がぶつかった。
「き、きみはそういうの好きじゃなさそうだし」
「お前、少しでも気のある相手に『キスの日』だ、などと無邪気に伝えられれば、思うところのある男は少なからず居るだろう。お前も一応妙齢の女なんだから男女間の感情くらい意識しろ」
「はぁ〜? そんなの知らないよ! そもそも私のことそういうふうに見ている人なんて覚えがないね! きみは勘ぐりすぎじゃないか?」
 伝えてきたのはみんな私のいい友達だ! 誰も彼もが男女だと思うものではない! 予想外の言葉に憤慨して近付こうとしたアゼムは、待てよ、とはたと気付いて顎に手を当てた。
 確かにエメトセルクはアゼムより遥かに几帳面で、他人の感情への対処もアゼムよりも丁寧なのだろう。しかし、まるで。ちら、とアゼムは視線を上げた。
 いやいやいや、それは期待しすぎでは? だってエメトセルクだよ? ただの一般論からの忠告だって。そう思うのが心の健康にはいいのだが。
 アゼムが照れて言えなかったことを知っているのに、あえて触れてきた男である。アゼムはずい、と一歩前に出て顔を寄せた。
「エメトセルク、今日はキスの日だよ」
「……はぁ」
「キスの日! だよ!」
「知っているが」
「キスの日! なんだってば!」
「特に有り難がるものでもないだろうに」
 そっけなく返されたが、睨み続けるアゼムに、エメトセルクは手を伸ばした。頬を指の背が撫でるのを感じて、アゼムがぴくりと肩を跳ねさせる。
「今日を逃したら来年までないよ」
「来年なんて瞬きする程度で来るだろうが」
 そう言いながらも近付く金色を、アゼムは目も閉じないで、じっと見ていた。