グッド・バイ・マイ・ディア

 恐らく、年が明ける前にヒュトロダエウスだけは知っていたのだろう。
 仕事が始まって最初の金曜日、ハーデスは先に入った居酒屋のテーブルで、焼鳥の盛られた皿を前にしてそう思った。騒々しい相席予定者からは連絡が来ていて、少し遅れるとのことだ。
 親族二人に対する情報解禁は、恐らくそれほど前後しない。さて、明日から仕事始めだ、という夜に、突然兄から電話があったのだ。
『彼女と結婚を前提に交際することになった』
 わざわざ家も出ている弟相手に宣言することだろうか? と思わなくもなかったが、協力……いや、加担と言ったほうが正しいか。それをした弟に対する、一種の義理のようなものだったのかもしれない。
 兄の想い人が発覚した夜、ハーデスとアゼムは大いに悩んだ。ヒュトロダエウスは応援しようよ、と選択肢などはなから存在しないように鼻息荒く勧誘したが、随分年上のエメトセルクと、自分たちより当然年下のヒカリが関係を結ぶなら、それなりに苦労が待っているだろうことは予測できて。手放しに早くくっつけよう、と背中を押すことは出来なかったのだが、根は善人のハーデスとアゼムであるから、結局不幸なすれ違いはよろしくない、という結論に至った。
 完全なお節介である。自分と兄の関係においては「らしく」なさすぎる、と思いつつも、片方だけが前向きになったところで、かけちがったボタンが自動的に修復されることはない。ハーデスは兄に電話をした。
 伝えたのは、お前の日頃の行いが悪すぎて、彼女に誤解されているんじゃないか、という指摘だ。本気だったんだろう、と告げれば「ヒュトロダエウスか」と兄はネタの出処を察して苦く呟いた。ハーデスは、武器を手放して、早々に諦めるなんてらしくないんじゃないか、とも追加で煽った。
 それに対するエメトセルクの反応はこうだ。
「私の執念深さは、お前も知るところであったと思うのだが」
 女を深追いするタチではなかったが、初めての恋らしいからな。笑うでもなく、淡々と返した兄に、ハーデスは目元を覆った。吹っ掛けずとも、最初から諦めてなどいなかったらしい。
 彼女の拒絶に多少心は毛羽立ったものの、武器を全てハーデスに横流ししようとしたのは、「その手段が有効ではないどころか、嫌悪の対象である」と気付いたからだと。他の手を考えるべきだ、と思考を巡らせる過程で、不要になっただけ。初心者相手に、遊び慣れた男としての技量の全てを注ぎ込んで、あらゆる手段を試すつもりだった兄に、ハーデスは溜め息を吐いた。
 そういう男だった。今回に関しては、ヒカリの方にも捨てきれない好意が最初からあったから、綺麗に纏まる話であったものの。そうでなくてもいずれそうなるように仕向けただろう用意周到さと計算高さに、我が身内ながら恐れを抱く。きっと、どうやっても逃げ切れなかった。同時に、自分の中にもそんな感情の種が眠っていることを思い出して、やるせなくなる。
 電話口でエメトセルクは、ハーデスにもう一つ告げた。
「父にも結婚したい旨は伝えて、了承を得た」
 は? お前、それ。ハーデスは言葉を失った。年に一度くらいは、と三ヶ日に親族が集ったとき、父と兄がしばらく部屋に籠もっていたのを思い出す。あの時か。お陰で普段は兄が弄んでいる小さな親戚に絡まれ倒した。完勝してもわざと負けてやっても、ひたすら勝負を挑んでくる子供に苦労していたのだが、裏でまさかそんなことになっていたとは。
 父と兄はとても性が似ている。ただし、ハーデスと父よりはマシとはいえ、距離が近いわけでは無い。そんな父に、わざわざ告げた。もはや兄にとって決定事項と同義だということだ。聞けば関係が成立したのは年末の話らしいじゃないか。一週間も経たぬうちにその有様、手が早いどころの騒ぎではない。
 念のため、彼女に承諾を得ているのか訊ねてみると、「向こうも結婚願望を告げてきたからほとんど合意だ」と返してきた。ほとんど。都合よく言うはずの兄がその単語を使わざるを得ないなら、間違いなく今のところプロポーズは無い。きっと恋が叶っただけでほくほく顔だろう、年若いアゼムの妹を想像して、ハーデスは顔をしかめた。既に人生を絡め取るつもりでいるぞ、お前の恋人は。
 エメトセルクとの電話が切れた直後、アゼムから送られてきた大量のメッセージに気付いた。会いたい、会えない? 聞いたか? 生きてる? 返事しろ! こちらの事情もお構いなしに接触してくるので、通知を溜めがちな相手ではあるが、未読を示す数字にぎょっとした。このタイミング、妹から同様の事実を告げられたのだろう。
 既読を付けてしまうなり、通話の呼び出しが掛かった。もちろんアゼムである。面倒な気配しかしない、と厭々出てやると、第一声から叫び声。
「ヒカリが!」
 ああ、ああ、わかった、知っている。要領を得ない混乱中のアゼムに半分呻き声で相槌を打ってやると、アゼムは長く長く、溜め息を吐いた。
「私は正直、お兄ちゃんのことを舐めていたようだ……」
「老い先短いから必死なんだろう……」
「ヒカリが女になっていた……」
「生々しい表現をするな……」
 つい数日前、大晦日と正月、アゼムはハーデスとヒュトロダエウスとともに、ハーデスの家で年を越した。近くの百貨店で買った蕎麦を茹で、オリジナルレシピだ! と腕まくりしたアゼムを中心に温かいつゆを作っていた平和な時間が懐かしい。年末の特番を見て、鐘のつかれる映像を視界の外に話した時、二人は既に出来上がっていたのだ。
 何も知らないハーデスとアゼムは、ヒカリがどうなったか心配だと話していた。アゼムに対しては「年末年始は知り合いの家でゆっくりするから大丈夫」とのメッセージが届いていたようで、アゼムは「知り合い」を、大学時代に妹が精力的に活動していたサークルのメンバーたちだと考えていた。未だに交流が深く、様々な分野で活躍する自慢の友人たちだと話していたから、きっと落ち込む彼女に寄り添ってくれるはずだと。
 ヒュトロダエウスは終始にこにこしていて、「大丈夫だよ、素敵な年越しを過ごせてるはずさ」と妙にふんわりと楽観的なコメントを述べた。微笑むばかりで具体的なことは言わなかったが、裏を読むまでもなく、ネタバレを回避するために何も言及しないことを選んだだけだと分かる。
「ヒカリが幸せならいいんだけど、いいんだけどぉ! 手が早すぎて私どんな顔したらいいのかわかんないよ! 助けてハーデス!」
「残念ながら同じ状況の二人が会ったところで解決などないと思うが」
「すごい嬉しそうに言うからもう、おめでとうしか言えないじゃんか……!」
「そうだな……」
 ハーデスは、兄が既に結婚の段取りを密かに組んでいることは何とか隠そうと思った。それこそ火炎瓶が住宅街に投げ込まれても不思議ではない。兄のことはどうでもいいが、ヒカリを泣かせる事態になるのは避けたい……。
 その日、日付が変わる時間までアゼムはハーデスを相手に呻き続けた。仕事始めの日、同僚から正月ボケか? と笑われるミスをしたのはアゼムのせいと言って良いだろう。

 ハーデスはちらりと腕時計に目をやった。焼鳥の串の数は半分以下に減っている。遅れるとしか言葉はなく、何をして、だとかそんな理由が説明されないのはいつものことだった。元々アゼムに付き合うことでしか酒を飲まないハーデスにとって、一人きりの居酒屋はそれほど居心地のいい場所ではない。泡の減ったビールを、ハーデスは静かに傾けた。
 がらら、と勢いよく引き戸が滑る。ハーデスはずっと向けていた目を逸らした。アゼムだ。
「何名様ですか」
「先に一人入ってまーす。あ、あそこです。おーい」
 案内も待たずにずかずかと入ってくるアゼムに、少しカタコトの店員はすぐに次の客についた。
 怒り心頭だ、という顔でもしているのかと思いきや、電話の夜から数日経って、アゼムは案外カラッとした顔をしていた。トートバッグを空いたスペースに置き、手早く防寒の装いを解いていく。どぞ、おしぼりです、とビニールに包まれた熱いおしぼりを差し出されたアゼムは、流れるように「生中」と告げ、ハーデスの目の前に座った。
 ビニールを剥がし、あちち、と言いながら丸まったタオルを広げていく。手を拭い、許可も取らずに焼鳥の串を一本つまみあげる様子は、至っていつも通り、通常営業のアゼムだった。ハーデスは拍子抜けした。
「なんだ、案外正気じゃないか」
「あのさ、ハーデス」
「何だ」
 ねぎまを咥えながらメニューを眺めるアゼムは、こともなげに言った。
「三十までお互い恋人が出来なかったら、結婚しない?」
 時間が止まった。
 むせるとか、そんな反応にすらならなかった。ビールに口を付ける前であったのは、一応幸運としておく。ハーデスは、唖然とした顔でアゼムを見つめた。何を言っているんだ、こいつは。中途半端な高さでジョッキを持ったまま視線を向けるハーデスに、アゼムは二口目、よく焼けた白ねぎを咥えたところだった。
 結婚しないか、と。条件は、恋人が、出来なかったら。今のところハーデスに、そんな予兆は一切ない。大学の時に出会ってからこちら、アゼム以外に目をやる余裕もチャンスもなかったのだ。十年近くそんな時を過ごして、たったあと二年ほどで劇的に状況が変わるとは思えなかった。
 ハーデスはジョッキをとりあえず下ろして、机に置いた。店員が生ジョッキをアゼムの前に置く。アゼムは持ち上げて勝手にハーデスのジョッキにぶつけた。ごく、ごく、と喉を鳴らして飲むと、あっという間に中身は半分になる。
「ぷはぁ……! 仕事終わりはやっぱりコレよ、コレ!」
「お前、何、言ってるんだ?」
 喜びとかより前に、困惑しかない。まだ表情筋の戻ってこないハーデスの呟きに、アゼムはぱちんと瞬きをした。
「きみ、童貞じゃん?」
「お前、もしかしてハシゴしてきたから遅くなったのか?」
「失礼な、今のは黄金の一口目だ」
「全く正気じゃなかったな」
「いーや、正気だとも。ほら、ウチのヒカリちゃんが手籠めにされたじゃん。それで気付いたんだよ、妹がそういう歳ってことは、私はもっとそうなんだって」
「いや、まぁ、それは、そうだが……」
 実家に帰った時、ハーデスだって母から「そろそろあなたも良い人紹介してくれないの?」と言われたばかりだ。思い返せば、エメトセルクの告白があったゆえにハーデスがつつかれた、という時系列だったのだろうが、そうでなくとも、一応は適齢期というやつである。友人の結婚式にはそれなりに出ていたし、家に届いた年賀状には、乳児や幼児の写真が載っていた。
「私もさ、一回くらいはしとこうかな、って思ってたんだよ、結婚。でも相手が居ないと出来ないじゃん? きみならちょうどいいかな〜って思ったわけさ。きみ、魔法使いになっちゃったら、誰に捧げてもそろそろ良くない? ダメ?」
「駄目じゃない要素がどこか一つでもあったか?」
 ハーデスは額を押さえながら、はぁぁ……と深い溜め息を吐いた。お前にとって、いっぺんしとくか〜、程度の軽い感情で出来るものなのか、結婚は。少なくともハーデスにとってそうではない。身体の関係だって、きちんと愛情が確かめ合えた上で持つべきものだと思う。だから童貞なんだよ、と言いそうな身内たちは脳内からさっさと追い出す。
 アゼムはそんなハーデスをよそに、呼びつけた店員にてきぱきと追加注文をしていた。以上で! の言葉の後、両手の指を組んで楽しそうにハーデスに向き合う。
「……お前、うちの兄に怒り心頭で、結婚なんて単語、禁句だと思っていたのだが」
 数日前の状態を思えば、当然の推理ではないだろうか? ハーデスに対し、アゼムはついと視線を逸らした。
「まあ、やり口に対して思うところがないわけではない」
「やり口? ……あいつ、妙な手でも使ったのか」
 声を低めたハーデスに、アゼムは目を伏せる。
「ロングアイランド・アイスティー」
「…………は?」
 単語には、聞き覚えがある。というか、苦い思い出がある。過ぎった記憶に渋い顔をしたハーデスを見て、アゼムが小さく笑った。
 それは、紅茶を一滴も入れていないのに、配合によって不思議と紅茶の風味が出るという、カクテルの名称だ。物珍しさと女性でも飲みやすい口当たりは、とても有名である。……曰く付きの、レディー・キラーとして。
 飲みやすさと裏腹に、そのアルコール度数はかなり高い。勧められるがままに飲んでいるうちに酷く酔わされ、気付けばベッドという代物だ。いわゆるお持ち帰り用。何故そんなものの名前をハーデスが知ったのかと言えば、やはりアゼムのせいである。
 不思議なお酒があるんだって! 私飲みたい! とはしゃいだアゼムに、飲める酒場を探そうと検索して、真っ先に出てきた情報が「狙った相手に」という単語であったので、これは他人とはとても飲ませられないと、ハーデスは身内が経営するバーにアゼムを連れて行くことにした。
 グラスにどんどん混ぜられていく液体に目を輝かせるアゼムと、顔をしかめるしかないハーデス。出来上がった「アイスティー」の味は、すぐにアゼムを虜にした。アゼムは酒に強い体質だ。キツい酒を飲むことに、躊躇も抵抗もない。洒落たつまみを傍らに、グラスはあっさりと空いた。
 こんな席でしか飲めないお酒がもっと飲みたいなぁ、とアゼムはねだった。ハーデスはこんな店ばかり遊び歩かれたら困る、と味をあまり覚えさせたくなかったのだが、気を利かせたのか何なのか、バーテンダーはアゼムの気を惹きそうな酒の話を始めた。酒飲みのサガとして、誘われれば止まらないし、もとよりアゼムに止まる気はない。
 諦めて美味い酒を味わい始めたハーデスは、楽観視していたのだ。なんだかんだアゼムは酒に強いし、自分がいるのだから無事帰れるだろう、と。しかし見込みは甘かったとしか言いようがない。
 普段居酒屋で飲むのとは全く別の世界だ。気付けば、アゼムはまともに立てない程になっていた。バーテンダーの男性は、ニコ、と笑った。しっかり酔わせておきましたよ。ありがた迷惑である。
 へらへら笑うアゼムを引きずって夜の街を抜けるのは、もはや不可能に近い芸当だった。仕方なく。本当に致し方なく、ハーデスはアゼムを裏通りのホテルに連れ込んだ。誓って何もしていない。アゼムは広いベッドの真ん中で爆睡し、翌朝、起床とともに激しい頭痛と記憶喪失を訴えて這いつくばった。
 アゼムもアレは流石に酷かった、と反省したようで、外で飲むときは気を付けるようになった。普段軽い口もピタリと噤んだから、ヒュトロダエウスすらこのエピソードは知らないはずだ。
 まさか、とハーデスは口の端を引きつらせた。
「妹の口から、『紅茶を使ってないのに紅茶の味がするお酒』のワードが出たときは、まぁ、色んな感情が過ぎったよね……」
「昏睡した相手に手を出したのか、あいつ」
 そこまでの外道ではないと思っていたのに。ハーデスは呻いた。珍しく「恋」などと言うからには、きちんと口説き落とすくらいの甲斐性があって然るべきではないのか。
 アゼムは首を横に振った。
「うちの子も、そこまでアホではないんだ」
「お前の妹なのに……?」
「あの子はお酒で失敗しない子です」
「お前よりは真面目そうだが、同じ血が流れていると思うとな……」
「やぁだ信頼が痛い! ……手口としては、古典的な酔わせてお持ち帰りだ。でもさ、うん」
 ごくり、ごくり、金色を流し込んで、空のジョッキを下ろす。
「手段を選ばないのは、盲目な恋ゆえなのかもしれないし。それなりに気を付けていた彼女が隙を見せたのは、油断じゃなかったんだと思う」
 伏せていた瞳がハーデスを向いて笑った。
「見え透いた罠に掛かるのは、故意だよね」
 いつかアゼムが妹を叱りつけた時。二人きりで飲むのなんか同意だ、と叫んでいて、お前が言うなと思ったものだが。それを確かに認識した上で為したなら、そういう意味なんだろう。ましてや、好意を既に知らされていたわけで。何をされたって、騙されたとは主張しそうになかった。
 ハーデスは自分のジョッキも空にした。アゼムが頼んだ追加の焼鳥や枝豆、たこわさびが届いたから、店員に今度は酒を頼む。アゼムをちらりと見ると、元気よく「ウーロンハイ!」と声を上げた。空のジョッキが二つ、片手でまとめて下げられる。
 場を濁すのに、一旦枝豆を手に取る。どうも、駆け引きの話を広げるのは気恥ずかしかった。ハーデスは話題を探した。
「そういえばお前、今日は何で遅れたんだ」
「ん? ああ、ちょっと人助けしててさ」
 時間潰しの問いに、アゼムはひらりと手を振って、照れた様子もなく答えた。なるほどな、とハーデスも二つ頷く。よくあることだし、らしい話でもある。
 すぐに配達された真新しい酒に手を伸ばし、アゼムはハーデスに向かって目を細めた。
「最近、この辺あんまり治安よくないんだよね。知ってる?」
「……そうなのか?」
 今日飲んでいるここは、アゼムの家の最寄駅から徒歩三分の立地だ。眉をひそめたハーデスに、アゼムが頷く。
「さっきのもさ、スリの疑い掛けてゆする、ってやつで。口の開いてるカバンに他人が財布を入れてる現場を見ちゃったから、こっそりついてったらビンゴってわけ。現場が監視カメラついてる通りだったから、確認したらわかるって言ったら逃げてったよ」
 しれっと何でもないように答えるアゼムに、ハーデスは首を横に振った。
「……はぁ、お前のお人好しには溜め息が出るな」
「貶されるのは意味がわからない」
「相手は何人だった」
「三人組」
「お前に何かあったらどうするんだ。一人で行ったんじゃないだろうな」
「いやだって、見ないふり出来ないし、通報して誤解だったら、警察にも悪いじゃん。最良の方法だったと確信している」
 ハーデスは頭を抱えた。昔からこういう女なのだ、こいつは。そもそも初めての会話がひったくりの追跡劇によるものだったし、その後も割と頻繁に警察に犯人を突き出している。
「逆恨みでもされたらどうするんだ。相手、逃げたんだろう」
「心配性だなぁ、きみは。……あ、そうだ。おかげでひとつ、要件を思い出したよ」
 にっこりと笑うアゼムに、ハーデスは軽く身構えた。厭な予感がする。この手の勘はよく当たる。よく当たるが、予想可能、回避不可能である。
「ハーデス、パンツ一枚くれない?」
 出た、トンチキ要求だ。ハーデスは項垂れて呻いた。
「通報されるのはお前の方だったようだな……」
「誤解だ。でも良かったよ、ズボンのことと勘違いされなくて。話が早いな」
「何も納得していないんだが?」
「使い古しのでいいんだよ」
「なお良くないな。使用済みの下着を女に握らせる趣味はない。……アゼム、結論だけ喋って細かい部分を察させようとするのは、お前の悪い癖だぞ」
 んー、と言いながら、アゼムは自分の髪をいじった。衝撃的な発言をし、困惑して固まっている間に丸め込むのはアゼムの常套手段だ。耐性がついてきたから何とかなっているが、ちゃんと相手を選んでやっているんだろうなこいつは。じとりと睨みながら、ハーデスはハイボールに口を付ける。
「いやぁ、うちのマンションで下着泥棒が出たっていうからさ? 男性物の下着って魔除けになるらしいじゃん」
「お前の家何階だ」
「五階」
「…………よほどの馬鹿じゃない限りお前のは狙わないんじゃないか」
「気分の問題として、嫌でしょ、やっぱり」
 普段性別という区分を忘れ去ったような言動をしている割に、そのあたりの意識はまだ女性らしさを残すらしい。そこは尊重してやりたいと思いつつ、結果、手を付けようとする方法があまりにも頂けない。ハーデスは渋い顔をする。
「吊るしておいたところでカラス避けのCDくらいの効果しかないと思うし、その前に友人の下着を吊るすことに抵抗を持ってほしいんだが」
「だめか」
「だめだな」
「ヒュトロダエウスにも断られたんだよねー……。『使ってないやつあげてもいいけど、キミの感性が近所に疑われるよ?』ってさ」
「そんなの持ってるのかあいつ……」
「昔の女からの趣味の合わない貰い物だって。『タンスの肥やし以外はあげたくないな、ハーデスに頼みなよ』だそう」
 いい考えでしょう! と満面の笑みでハーデスに差し向けようとするヒュトロダエウスが鮮明に思い浮かんだ。やめろ、こんなところから関係が発展してたまるか。
「はぁ、ヒカリはいいなぁ」
 これみよがしに溜め息を吐く。ハーデスも溜め息を吐き返す。
「……惚れた女に下着を渡す兄など想像させるな」
「知らないの? あの人はその上を行くよ」
 アゼムはウーロンハイで唇を濡らし、楽しそうに笑った。
「防犯が心配だからとか何とか言って、同棲申し入れてるらしい」
「今月に入って、まだ十日も経ってないんだが……?」
 関係性が出来上がったのは、年末の話だと聞いていたのだが。ああ、アゼムに結婚云々の話が伝わるのは明日のことかもしれない。
 頭を抱えたハーデスは、ジョッキを握ったまま人差し指を伸ばした。
「……わかった、室内用の衣類乾燥機を買ってやるから、家の中で干せ。友人の為ならそれくらいはしてやる」
「えっ、高いでしょ。いいよいいよ、パンツなら原価ゼロ円……」
「下着から離れろ」
 どうしてこの女はまた……。特に深いことなど考えていない顔である。
 出会ったときから、距離を誤り続けている。異常な近さのこれは、決して適正ではないはずだ。アゼムにとってはそうかもしれないが、ハーデスは苦痛を感じている。
 ずっと、好きな相手だ。いつの間にか、落とされていた。これといったタイミングはなく、気が付けば、大切な相手だった。だからこそ気を遣っているのに、彼女は親友としてハーデスを扱う。
 今夜も。何も、起こらない。

 

 それから、一週間後の話だ。今日はハーデスの家で飲むよ! と宣言してやってきたアゼムは、妙に大きな荷物を抱えていた。
「旅行か?」
 ハーデスは訊ねた。アゼムはううん、と首を横に振る。
「しばらく泊まろうかと思って」
「はぁ!?」
 一晩泊まるのは、もういつものことだ。最初はきちんと抵抗していたのに、キッチンだけでなく、家の中にはアゼムの生活用品が散りばめてある。洗面台の周りなど、ハーデスが買った物よりアゼムが持ち込んで使用している物の方が多いのではないだろうか。歯ブラシが二本並んでいる時点で、よく考えたらおかしい。
「どういう合理的な理由がある」
「来週早出残業しなきゃいけなくて。こっちのが会社近いんだもん」
「金曜日から泊まり込む理由は?」
「単純に今日飲みたい。土日帰るのめんどくさい」
「お前…………」
 思いつきの根拠は、妹の同棲話か? 妹が家を出るとき、アゼムは「うちに来ればいいよ! 家賃安くなるよ!」としきりに誘っていたらしい。実家は出たが、基本的にアゼムは人との生活が好きなようだ。長年の一人暮らしで収まった欲求が、ここに来てぶり返したと、そういうわけじゃないか。
「一晩泊めたら二晩も一週間も変わらないよ」
「変わる! お前と私の関係は何だ?」
「婚約者」
「妄言じゃなかったのか!」
 酒の席の発言だ。さらっと流して、なかったことになったのでは! 威嚇するハーデスを気にも留めず、アゼムはドアを押さえるハーデスの腕を潜って室内に侵入した。
「お前、そんな状態で恋人が出来ると思っているのか? あと二年しかないんだぞ!」
 自分なら、好いた相手が他の男の家に入り浸っているとしたら、明言はせずともそういう関係にあるものと認識する。芽生えるものも枯らしてしまう。ハーデスは焦った。
 手を出す勇気はないくせに、諦められないハーデスは、その瞬間を待ち望んでいるのだ。
 アゼムが誰かを、選ぶ日を。
 ……今まで、彼女に対して好意を持つ相手が居なかったわけでは決してない。アゼムは言動はともかくとして、見目は普通の女性だ。言動の方も、好いてしまえばあばたもエクボだ。底抜けに明るい彼女に惹かれる男は多い。女にだってそういう目で見られることがままあった。それを、ハーデスは隣で睨み続けていたのだ。
 誰が近付いても、追い落とすように視線を向けた。そんな権利などないのに。想いを告げることもなく、隣に居座るハーデスは言い訳を述べる。こいつの意思を優先している。こいつが友人を最優先としているだけで、誰かをパートナーにするならいつだって退く用意は出来ている、と。
 アゼムはさっさと部屋に押し入り、荷ほどきをしながら答えた。
「時間切れが来るなら縁がなかったってことさ。それとも何だい? 私がここに居ると知られたらまずい女でも居た?」
 ずるい物言いだ。居ないでしょう? と言外に圧をかける。その通りなのだが、腹に据えかねる。ハーデスは地を這うような声で訊ねた。
「……予定は」
「仕事の具合なんて片付けてみないことにはなんとも」
「期限を切る。このまま永住でもしかねない」
「やだなぁ、身銭切って家賃払ってるんだから、そんなことには多分ならないよ」
「『多分』という言葉が出てくる時点で駄目だ」
「信用ない?」
「ない」
 ちぇっ、とアゼムは唇を尖らせた。
「とりあえず、一週間ね」

 

「で、既に十日経っている、と」
 オレンジジュースを飲みながら、ヒュトロダエウスは出来上がっているようにけらけらと笑った。一匙でも酒を入れてるんじゃないだろうな。厨房を睨むハーデスは、遠慮せずに酒を入れている。面倒を見なければならない女は、今日は大人しく「ハーデスの」家の中だ。たまには他人に面倒を見させてもバチは当たらないだろう。
「もう好きって言いなよ。エメトセルクの大胆さを少しは取り入れたら?」
「死んでもああなるのは厭だ」
「似たもの兄弟だと思うけどなぁ。ああなれる余地はキミにもあると思うよ? 顔の好みも一緒みたいだし」
「顔とかそういうんじゃない。在り方を好いている」
「エメトセルクも言いそうなセリフ」
 ハーデスは思いきり顔をしかめ、ヒュトロダエウスの脇腹をどついた。アゼムがいるとアゼムのツッコミに掛かりきりになるから、同性同士の距離感は随分久々な気がする。痛い痛い、と苦笑したヒュトロダエウスが、肘をついたままサラミをピックで刺して口に放り込む。
「……ねぇ、ハーデス。ワタシ、彼女も分かってる気がするんだ」
「何を」
「どうせ、時間切れになるってこと」
 伏し目がちにヒュトロダエウスは笑った。ハーデスはワインを一気に煽る。アゼムが居るときには絶対にしない仕草だ。ボトルを片手で掴んで一人注ぐ姿など、アゼムは自分の専売特許と思い込んでいるに違いない。
 香草入りチーズのキューブを口に入れ、ハーデスはワインを傾ける。離した唇で、小さく息を吐いた。
「あいつにとって都合のいい相手が私だってことだろう。私と結婚したいんじゃなくて、結婚するのに適当な相手が私だ。そんなの、」
「結果として結婚できるならそれでいいんじゃない? ワタシ、キミたちが幸せになるところが見たいなぁ」
「幸せになれるとでも?」
「愛の順番ってそれほど重要かな。結婚したら嫌でも分かるでしょ、キミがどれだけ彼女に執着してるか。いくら鈍くっても、触れられて気付かないわけがない」
「だから、厭なんだ」
 白い髪をぐしゃりと掻き混ぜて、ハーデスが俯く。
「あいつが逃げたいときに、絶対に、逃せなくなる。ただ恋人のフリをして終われるか? 儀式的にでも体の関係を持ってみろ。あいつがどれだけ嫌がろうが、孕ませるまで止まらないだろうな。そうなったら終わりだ」
 後戻り出来ない。物理的に、取り返しがつかない。けれど、許されたら、手を出さずに大切にすることなどとても出来そうにはなくて。
 ぎりぎりで保っているのだ。触れずに守ることが、ハーデスにとっての愛情表現だった。距離など知らないアゼムのことだ。きっと、もしも触れてしまったとして、笑って許すのだろう。ハーデスを友人として認識したまま、関係が出来上がっても何も不思議ではない。
 ヒュトロダエウスがオレンジジュースを飲み込む。ぺろり、薄い唇を濡れた舌が舐めた。
「彼女のこと、見くびらない方がいいよ」
「……お前よりあいつのことは見つめている」
「引いて見ないと分からないことだってある。ハーデス、彼女はそこまで考えた上で、期限を切ったのだと思うよ」
「書類上破棄しても逃れられない鎖を、あいつが好むとでも?」
「キミになら良いよって。そう言ってるんだよ」
 真剣な友人の顔に、ハーデスは首を何度も横に振った。
「本気であいつがそう思っているなら、待つ姿勢などないだろうさ。自ら攻め落とす女だ。それをしない時点で、あいつに恋愛をしている意識なんてまるでないんだよ。あいつが自分で気付くまで、どれだけお前に煽られようとも、私が血迷うことはない」
「……ほんと、頑固」
 溜め息を吐きたいのはこちらの方だ。赤いワインは重い口当たり。味も問わずに飲み干すものでは決してないが、今のハーデスには、これが必要だった。
 一滴も残らず、腹に収める。今日の話は、これで終わりだ。

 

 帰ると、電気は点いていたが、人の動く気配はしなかった。リビングのテーブルの上には酒の缶が複数転がっている。ところがいつも倒れ込んでいるソファは空っぽだ。キッチンにも、風呂にも、トイレにも人影はない。
 この時間に外に出たんじゃないだろうな。それなりに酔っている筈なのに。窓の外を気にしてから、後回しにしていた自分の部屋のドアノブに、ハーデスは手を掛けた。
 引くと、中からは光が漏れていた。家を出るときには消したはずだ。眉間に皺を寄せて、視線を巡らせれば。
 ベッドの中で、塊が転がっていた。赤い顔をしたアゼムが、規則的な寝息を立てている。横向きに丸くなって、鼻先を布団の端に埋めている姿。ぐるり、腹の底で熱が渦巻いた。
 ハーデスは大股で近付いた。苛立ちをそのままに、アゼムの肩を揺り動かす。アゼムはむにゃむにゃと何事か呟いて、布団の中に潜ろうとする。そうはさせない。力尽くで、彼女が握り込む布団を奪い取る。
 アゼムの手が宙に伸びた。ぱちんと叩き落とす。そこでようやく夢にしがみつくのを諦めたようで、アゼムは一度ぎゅっと目を瞑りこんでから、そっと開いた。眩しそうに目を眇めるアゼムを、怒りを込めて睨み下ろす。
「んん……おかえり、寝ちゃってた」
「お前、ここがどこだか分かっているのか」
「ハーデスんち……」
「範囲が広い。ここは私の寝室で、お前が転がっているのは、私のベッドだ」
 ぼんやりと視線を動かしたアゼムは、うん、と頷いた。さも当然のように。そしてハーデスの顔を見上げて、もうひとつ頷く。もぞもぞと動いて、向かって右側を少し空ける。
「どうぞ」
「どうぞ、じゃない!」
 自然に共寝しようとしている? 寝台にお前が転がっているだけで抱く感情があるというのに! ハーデスは怒りに任せてアゼムの肩を掴んだ。ぐっ、と指が晒された肌に食い込む。
「いたいよ」
「降りろ。ここはお前の居場所じゃない」
 アゼムが瞬きをした。何を驚いているんだ。
「恋人でも何でもない相手にベッドに居られるのは不快だ。はやく、降りろ」
「……私だって、たまにはベッドで寝たいもん」
「は? お前が、自分の家に帰れば良いだけの話だろうが」
 アゼムの手が、ハーデスの腕に掛かった。更に強く力を込めたハーデスに対し、アゼムの手は布地を辿って昇っていく。きゅ、と肩口が握られて、引かれた。
「ハーデス、一緒に」
「アゼム」
 ハーデスは目を細める。
「図に乗るな」
 アゼムの唇が薄く開いた。目線が揺らめく。次の言葉を探し出す前に、ハーデスは告げた。
「この時間に女を追い出す程の鬼畜じゃない。だが、全てを許容するほど、出来た聖人でもない」
 縋るアゼムの手首を掴み、無理やりほどかせる。ひどく動揺した顔が、腹立たしかった。
「……出ていけ。明日はもう、お前の侵入を許さない」

 翌朝、早起きをしたアゼムは、ソファに転がったハーデスの前で、広げていた私物を大きな鞄に詰め直した。
「今まで、ごめんね」
 今更殊勝な顔をされて、すぐに許してしまっては示しがつかない。無言で目を逸らしたハーデスに、アゼムが着込んだコートのポケットの中で手を握った。
 少し迷ったような顔をしているアゼムが、時計を見る。それからハーデスをちらりと見て、ひとつ頷き、手の中のものをテーブルに置いた。
 革製のケースに入ったそれに、ハーデスは軽く目を見開いた。
 待て、とは言えなかった。鍵を持っていれば、自由に侵入が出来る。アゼムなりのけじめなのだろう。追いかけて、手に握らせたら元も子もない。
 扉が閉まるまで、ハーデスは、一言も発せないまま、鍵を見つめていた。

 

 仕事を掻き集めて得た残業を終え、帰宅すれば、もちろん部屋に明かりはない。一日で全て引き上げることは無理な量であるから、部屋中に彼女の痕跡が残っているのだけれど。しんとした暗い部屋に自ら明かりを灯し、買ってきた惣菜を机に並べる。
 ビニールの袋の中には、酒の缶がいくつか。安く酔いたい気分だった。ソファに腰掛け、冷えた缶を取り出し、プルタブを起こそうとしたところで、携帯に着信がある。
 慌てて画面を見て、肩を落とす。兄の名前だ。画面に指を滑らせ、ハーデスは低い声で応答した。
「何の用だ」
『随分やさぐれているようだな?』
「お前には関係ない」
『関係ないかどうかは私が判断する』
 いや、関係などどう考えてもないだろう。ハーデスの溜め息など鼻で笑う兄に、我慢を忘れた堪忍袋の緒が簡単に切れそうになる。どうして応えたのだか、と切断を選ぼうと思ったところで、兄からの言葉が先に届く。
『……お前のアゼムと、あいつの姉は、同じ人間らしいじゃあないか』
 ハーデスは息を呑んだ。その事実は、アゼムとヒュトロダエウスとしか共有していなくて。ヒカリはおそらく「ハーデスさん」がエメトセルクの弟だと知る機会がなかったし、エメトセルクもあえてヒカリの姉の名など確認しないだろう。隠し通したかったわけではないから、どこからバレても構いはしないのだが。
 それがどうかしたか、と平静を装ったハーデスの耳に、吐息のような笑い声が届く。
『どうせ三人で好き勝手言っていたのだろうが、一応お前達、協力の姿勢を見せていたようだからな。多少の助言はやぶさかではない、とわざわざ連絡をとってやったわけだ』
「偉そうに言うな。手を出せだのとお前に言われて動くとでも思うのか」
『短絡的に考えるな腰抜け。お前とアゼムがどうなろうが知ったことではないが、あいつの身内は私も気に掛けるんだよ』
 なぁ、と声が低められる。珍しく真面目な声色に、ハーデスは電話を耳に当て直した。
『半月ほど前の数日間、アゼムは妹に、毎日電話をかけていた』
「あいつのシスコンは今に始まったことじゃないだろう」
『数日で一旦は収まった。が、今日また掛かってきてな。女同士だからか、妙に親密なのは私も気にするところではないのだが、ヒカリは違和感を覚えたらしい』
「可愛い妹がどこかの男に掻っ攫われたからじゃないのか。邪魔したいとか」
『連絡が止まっていた期間が、お前の家に押し掛け嫁していた時期と一致するのは何故だか考えろ』
「人恋しかったんだろう」
『楽天的で幸せそうな頭で何よりだ』
「……何が言いたい」
 妙に心がざわついた。ハーデスは立ち上がり、買ってきた缶を冷蔵庫にしまう。扉の中身が妙に充実しているのに、彼女の痕跡を認めて鼻を鳴らす。ぱたん、と閉じれば、見慣れた筆跡のメモが複数。逃げ場がない。
『一人で家に帰りたくないのだと』
「…………は?」
 ハーデスは冷蔵庫にもたれながら、戸惑いの声を上げた。
『あいつとの電話の時間は、夜の決まった時間。駅を出てからの十数分ほどだそうだ。家についたから切るね、と。それが決まり文句らしいが、何か想像が付くことは?』
 壁のカレンダーを見つめる。妹との電話が始まっただろう時期の直前、ハーデスはアゼムと居酒屋で、話さなかったか。
 最近、この辺あんまり治安よくないんだよね。
 やれ結婚の話がどうだの、下着を一枚寄越せだのと妙なことを口走るから、思考がそちらに向いてしまっていたが。ハーデスは血の気が引く音が聞こえた気がした。
「……他になにか、聞いたことは。何でもいい。あいつは妹に話していなかったか」
『……必死になるのが遅い』
 ああ、その通りだな、とハーデスは髪を掻き上げた。あいつが簡単に弱音を吐くはずがない。格好つけたい相手である妹に一言告げた時点で、おそらく既に非常事態だ。
 ハーデスの家は、逃避先だったに違いない。密かなサインはあっただろうに、全て見逃して綺麗に塗り替えてしまった。
『残念ながら、他には、何も』
「……わかった。切るぞ」
『そうしてくれ。うちのに影響が出ないようにな』
 画面に触れて通話を切る。通話時間を示す数字をスライドでさっさと消して、メッセージアプリを呼び出す。
「まだ、よそのうちの娘だろうが」
 苦々しく呟くも、アゼムが「エメトセルクの身内」で助かったのは事実だ。身内にだけは、妙に甘い男であるから。
 最後の連絡は二日前だった。受話器のマークを押して、携帯を耳に当てる。気の抜ける呼び出し音が、アラートのようにさえ聞こえた。
 普段携帯を身の回りに置いているはずなのに、一向に出る気配がなかった。向こうに応える意思がなければ、切断されて終わりだ。祈るような気持ちで繰り返される音を聞く。頼む、出てくれ。
 まだ酒は飲んでいない。最悪、車であいつの家に。いや、下は確かオートロックだと言っていた。呼び出しても拒否されれば顔も見られない。焦る気持ちで時計の秒針を睨む。
 一瞬の雑音の後、声がした。
『……なに、お風呂入るとこだったんだけど』
「アゼム!」
『えっ! ちょ、ほんとになに!?』
 ようやく聞こえた声に電話口で叫ぶと、アゼムは驚いた声を上げた。らしくもなく必死になっている自覚はある。こんな声、聞かせたことはないはずだ。
「お前、何があった」
 押し殺した囁きで呼びかけると、アゼムはからからと楽しそうに笑った。
『やだなぁ、別になんにも? ……っていうか、もう怒ってない感じ?』
「私のことはどうでもいい。……怒っては、いない」
 間抜けな自分には、心底腹が立っているが。
『そう。……よかった』
 本当に安心したような声をするから、胸が掻きむしられるような気分になる。お前にとってそんなこと、些細で矮小な問題で構わないのだ。もっと重要な事象が、他にあるのだから。
「何か、あったんだろう」
 んー? と誤魔化すようなとぼけた声。言いたくないか。私には、言えないか。音だけ聞いていても分からない。顔を見て話したい。
「アゼム、明日の帰り、乗り換えの駅で待っていろ。駅の中にカフェがあるだろう」
『カフェ? 飲みに行くんじゃなくて? まだ週末じゃないけどさ〜』
「お前の会社まで迎えに行くのでも構わないが」
『ちょっとちょっと、ほんとにどしたの。眉間のこわーい皺が見えるようだ!』
「アゼム」
 荒げることなく、けれど強い芯を持った声で名前を呼ぶと、アゼムは言葉に詰まった様子で黙り込んだ。
「……いいな」
 沈黙の後、小さく、返事があった。
『…………うん』