召し上がれ、骨の髄まで

 結果から言えば、予定の一切入っていない休日は、私を救った。
 最初は「絶対に、今度こそ、逃げるな」という宣言に戦々恐々としていたのだが……。今の私は何も手につかず、暇潰しに作業をしようとしては思い出し、かえたてサラサラのシーツが敷かれたベッドに飛び込み、枕に向かって叫ぶという意味不明な言動を繰り返している。
 わーっ! と一回叫んですっきりした私は、むくりと顔を上げた。防音の魔法がかけられた居住空間であるから、隣近所に漏れ聞こえていることはあるまい。
 さて、私に混乱をもたらしている原因であるが、なんてことない、普通の恋人なら大抵経験していることだ。
 昨晩、生まれて初めて恋人同士の営みとやらをしてみた。
 散々逃げ回った挙げ句、物理的に逃げ道を塞がれてなし得たことであるが、まずは言い訳をさせてくれ。別に嫌だった訳ではない。いや、本当に。お願い信じてハーデス。彼のことは大好きだし、愛している。ただ、心の準備が出来なかっただけなのだ。「駄目か」と珍しい(私にはわかる)しょんぼりとした顔で言われた時など罪悪感で胸が絞まった。
 元々私個人の性分として、人に触れることは好きだ。手を合わせるのが好き。ハグをするのも好き。彼にだってそれは適用されているばかりか、付き合いが長い分距離だって他よりずっと近いと思う。すすす、と近付いても逃げない彼に、他の誰も同じことは出来ないだろうなんて、優越感すら感じていた。
 が、改めて恋人という枠に収まってみて。彼から手が伸びてくるようになったら、なんだかくすぐったくて堪らなくなってしまったのだ。
 もちろん恋愛感情があるからお付き合いに発展した訳だ。そこは勘違いしていない。しかし私は、無言の彼から溢れる私への好意に、それだけで満足していたのである。好き、大好き、愛してる! 私も、彼も! ああ、なんて幸せなんだとヒュトロダエウスに言ったときの彼の顔が蘇る。
 私の恋人は健全な男性であった。しばらくじゃれつく彼にくすぐったくて身悶えしていた私であるが、彼に告げられてようやっと、事態に気付いたのだ。いつものように笑いながら逃げていたのに、彼は怖い顔で私を壁際に追い詰めた。両手が檻のように私の両側に突かれて逃さない。
 お前を抱きたい、と彼は言った。抱く、の意味がハグじゃないことは流石に明確で、これ以上はぐらかせなかった。
「きみって性欲あるの!?」
 なんとひどい物言いか、とも思うが、私には衝撃的だったのだ。正直、私に性的な魅力があるとは思っていなかったし。彼は額を抑えてぐっと押し黙った。
「忘れているのかもしれないが、私も男だ」
 はぁ……という重苦しい溜め息を聞いたあとから、私は随分と彼を意識するようになってしまった。
 何度も言うが、私は彼が好きだ。ずっと一緒に居たいと思っているし、生涯のパートナーであって欲しいと思う。でも、彼に欲を向けられていることを思うと、何だか無性に照れてしまって仕方がなかった。
 みんな当たり前にシていることだと思うが、どうしてそんなこと出来るの!? と叫びたいくらいだった。彼の肩を抱く手に震える。顎を指先で掬われると胸がぎゅうと痛くなる。愛していると囁かれるとぞくりと背筋に電気が走る。何もかも初めての経験すぎて戸惑った。無理無理、本番なんて起こったら恥ずかし過ぎて還りそう!
 私だって、私がこんなに怖がりだなんて思っていなかった。むしろ度胸は人一倍ある方だと思う。自分の数十倍、いや、数百倍は体積がある獣だろうが、魔法か物理が通じるなら怖いものではないし、通じないなら通じるように方策を打つまでだ。自信過剰な訳ではなく、対処できる実績がある。
 しかし、こんな。か弱い細腕の乙女ですら乗り越える試練、怖すぎない?
 これからするのは、カラダとココロの一番柔らかいところを晒す行為だ。彼のことが嫌だからじゃなく。逆に、彼のことが好きでたまらないからこそ怖い。
 大きな獣の土手っ腹に全力で攻撃を打ち込む女だぞ。か弱いわけがない。人と人との対話という点では、彼と私はそこそこ釣り合っているのではないかと思っているものの、こう……女性らしい部分を見せる行為、向いてなさすぎないか?
 大怪我をした時なんか、治療のために脱いだりしている間柄だから、別に肌を見せるのに抵抗がある訳でもないし、言ってしまえばローブを脱ぐ程度なら人前でも出来てしまう。なのに、その行為がふたりきりで、別の意味がくっつくともう、だめだ。でも彼、見たいなんていう。そういう人じゃなさそうなのに。
 逃げて逃げて逃げまくった。寝室で向かい合って、安心させるみたいに抱き締められて、口付けられて。彼の手が私の肌を服の上から撫でる。まだ深いこと何もしていなくても、先のことを考えたら頭の中がしっちゃかめっちゃかになる。触れられて嬉しい筈が、嬉しすぎて爆発しそうになる。ので、彼を何回か投げた。物理的に。それが無理になれば、突然生えた用事を言い訳に、テレポで逃げた。
 私だって、どうにかしようと考えたさ。そういうこと、考えもしてなかったのが悪いと、慣れてみるべく自分で触れてみたりもした。だけど、突っ込めば違和感で痛いし、広がらないし。私は極々真剣に、「一人で試してみたものの、もしかしたら入らないかもしれないことが分かった……」と彼を止めてみたのだが、そういえばその時の彼、すごい顔をしていたかもしれない。
 悪いことをしたと、今は思っている。だって、終わってみれば、彼と私は男と女だったのだ。私の魂がいくら女の子らしくするのが難しくても、身体はきちんと彼を受け入れるように出来ていた。
 ついにキレた彼に、「絶対に抱くから首を洗って待っていろ」と宣戦布告され、危険生物もかくやという、転移封じの陣に魔法の手枷という特別待遇で迎えた夜。私は心の中で「別れたくない……」と幻滅されることを前提とした回想に入っていたのだが、私に散々迷惑を掛けられ続けた彼が一晩程度で一体何に幻滅するというのか。
 ベッドに転がったまま思い出した私は、ぐるんと身体を反転させて枕にしがみついて足をバタバタとさせた。いやもう、すっごかった!
 だって、だって! 触れる指の優しいこと。一枚ずつ薄布を取り去るように、強張った身体をほぐしていく。自分でシた時と全然違う、とよく分からない声の出てしまった私は目をぐるぐる回していた。当たり前だ。私はあくまで最終的に受け入れられるかどうかに焦点が向いていて、触れたくて触れていた訳じゃない。それどころか、気持ちよくなるような場所は無意識に避けていた面さえある。なんせ、そういう未知は怖かったので。
 舐めて、噛んで、吸って、啜って。間接照明に照らされた彼がする行為に、私はずっとびくびく震えるばかりだった。可愛らしく喘げたかというと、「やだ怖い!」やら「無理無理助けてハーデス!」やら色気なくぎゃあぎゃあ叫んでいた気がする。でも、……でも彼は、そういう私が好きなんだなぁ、と。気分良さげに私を見下ろす彼に、ぐったりしながら思ったのだ。
 触れる行為には、肌が合わさる以上の意味がある。まだ私達二人とも、子供が出来てしまったら困る生活をしているから、結果が生まれることはないのだが。薬を飲んだ上で、私は腹に熱を受けた。気持ちよかった。気持ちよかったけど、それ以上に、私と彼は結ばれているのだと実感させる熱さだった。その瞬間を思い出してきゅうと切なくなり、私は昂ぶる気持ちのまま枕を床へと思い切り叩き付けた。
 はぁ、はぁ、と肩で息をする。一日お休みを貰ったが、彼を布団を頭まで被ったまま見送って以来、ずっとこうして過ごしている。いかん、このままでは部屋がぼろぼろになる。何より、私は明日、いつも通りの「アゼム」に戻れるのかが不安だ。ヒュトロダエウスでなくても異常に気付くぞ。
 はぁ、と溜め息をつく。夕刻、彼からは簡素な文章のメッセージを貰ったきりだ。彼は今日、遅くなるという。いつもならもう帰ってきている時間をとうに過ぎているが、むしろ良かったのかもしれない。時間が経つほどに、少しは冷静になっている筈だから。
 ベッドの上で私は身体を丸めてうずくまった。だから、落ち着け。今から次を期待してるとか、絶対に悟られてはならないのだ! 逃げまくった挙げ句、すぐにでも触れてほしいとか、どんなわがままだ! いくら彼でも怒るだろう! 赤い顔を両手で覆う。うう、一度覚えてしまった充足は忘れられないし、思い出せば弾けそうだし、ままならない。
 今日はもう、帰ってこなくてもいいかな……。そんなことを思い始めた矢先、玄関先の明かりが灯った。私はビクッ、と肩を跳ねさせる。早く顔が見たい。触れてほしい。いやいや、はしたないにも程がある! ぐるぐるとまとまらない思考のままだが、会いたい気持ちが上回ったので、さっさと迎え入れようと私は扉を開けた。
「おかえりハーデ……」
「やぁアゼム」
 あんぐりと口を開ける。目的の人はいた。が、それより先に目に付く、明るく片手を上げてこちらを見る友人の姿。どうして。
「お届けものだよ」
「間に合ってます」
「またまた〜」
 どうして、今の私に一番会わせちゃまずい人と一緒に居るんだ! ヒュトロダエウスは、貸していた肩を揺らした。彼がゆっくりと顔を上げる。赤い顔に、据わった目。そして、とにかく濃い、酒精の匂い。私は引き攣った顔でにこやかな友人を見上げた。ものすごく、機嫌が良い。何が起こったかは察することができた。
「ヒュトロダエウス、殴打したら余計な記憶まで飛んじゃうかな」
「キミに殴られたら魂まで洗われちゃう」
「それもそうだ……」
「とりあえずお届け物を受け取ってもらえない? 彼、ここに来るまで……フフッ、いいや、自分で確かめるのが一番だよね!」
「えっ待って怖い!」
 私は身構えた。酒を嗜むことはそこそこあるが、大体私は彼に介抱される側だ。素面の状態で、見たこともない様子の彼を、どう受け止めればいいんだ!? そんな私に、ヒュトロダエウスは笑いながら彼を解き放った。目は据わっているが、思ったよりも足取りは堅い。
 案外大丈夫なのかも、と少し気を抜いてしまったのがいけなかったのかもしれない。
 彼の手が伸びるのを私はぽかんと眺めていた。よろけた勢いのまま、ぶつかるように抱き締められて、一気に顔が紅潮する。彼と恋人になってからもヒュトロダエウスとはよく一緒に遊んでいるが、目の前でこんなこと、したことない! おやおやとどこまでも楽しそうな友人を咎める余裕もなく、私は身を強張らせていた。
「ちょっと、……ちょっとお!?」
 彼の手が私の腰に触れている。そのままするりと背中にかけて撫で上げられたら、ぞくんと背中が震えた。いや待て、体重をかけるな。私じゃなかったら崩れ落ちて押し倒されてるところだ!
「アゼムごめんね、呑ませすぎちゃった」
「見ればわかる! 助けてヒュトロダエウス!」
「おい」
 彼の唇が耳元に寄って、……うわ!? 今ぬるってしたの何!?
「他の男の、名前を呼ぶな」
「うわーッ!!」
 低く掠れた声に耐えられなくて崩折れた。ぐしゃっと玄関先で雪崩れ込む私と彼をよそに、ヒュトロダエウスは明るい顔で手を振った。
「待って待って待って……!?」
「あーらら、ごゆっくり〜」
 頬を挟まれて、彼の顔が近付く。ぱたん、と扉の閉まる音は遠く、私はぎゅっと強く目を瞑った。そりゃあもう、期待していた。彼に、今晩にでも、もう一度触れられたいと願っていたさ。だけどね!?
 ああ、身体に火が点いてしまったみたい。もうめちゃくちゃにされてしまう! 普段とびきり自制の効いてる彼のリミッター、外れてしまったらどうなるのか! どきどきと心臓が高鳴っている。お腹の底が、なんだか切ない。やばい、これは。
 しかし、思った以上に間があって、私はそろりと片目を開けた。仮面越しに、彼の金の瞳が私を眺めていて、ぎくりとする。……の、だが。金色は、閉じられつつあった。えっ、待っ…………てるな、きみ。
 がくん、と首が折れて、私の肩口に頭が載せられた。合わさった胸の上。すう、と穏やかな寝息が首元を優しくくすぐった。私は静かに、灯りのついた天井を無言で見つめていた。
 分かった。よく、理解した。
 何がかというと、私が待たせた彼の気持ちが。火のついた状態で逃げられる悲しみがだ。ごめんね、ハーデス。悪かったよ。願うことは唯一つ。ヒュトロダエウスのことはもういい。彼の記憶が、飛んでいますように。
 手足を投げ出して、私は黙って目を閉じた。この場をどう収めるかは、もう少し先の私に頑張ってもらうしかない。
 明日笑って言えるといいな。「もう逃げないから、触れてよ」と。