「わーっ! なにこれ、すごいね! こんなのここに置いてあったっけ?」
「このサイズはいくら日頃注意が散漫になるお前でも見落とさんだろう」
「分かってるよ!」
創造物管理局のエントランスには、艷やかな黒色が美しいグランドピアノが鎮座していた。真紅のカーペットが敷かれた一角に佇むそれは、華美な装飾こそ施されていないが、滑らかな曲線と華奢な造りが、たおやかな女性のような印象を与えている。
駆け寄ったアゼムは、隣に据えられていたプレートを覗き込んだ。ご自由にお弾きください。元々目的としていた友人には既に呼び出しがかかっているから、じきにやって来るだろう。
「ね、エメトセルク、弾いてみてよ。きみ、昔少し習ってなかった?」
「随分昔の話だ、忘れているに決まっているだろう。第一、譜面もないのに」
「呼んだ?」
「ヒュトロダエウス!」
ひょこりと二人の間から顔を出したヒュトロダエウスは、腕を組むエメトセルクと、目を輝かせているアゼムの顔を見て、意を得たりと頷いた。
「譜面さえあれば彼、弾いてくれるって」
「そんなことは言っていない」
「よし来た、任せてよ」
渋るエメトセルクをよそに、にこりと笑ったヒュトロダエウスはすぐさま情報処理の端末を操作し始めた。人々の創造の範囲は何も物質に限ったことではない。曲や詩、歌や戯曲など、芸術分野の作品も保管庫にはぎっしりと情報が収められている。
アゼムは鍵盤を覆う蓋を両手で持ち上げた。白と黒が整然と並んでいる。その鍵のひとつを、指先が軽く弾いた。高く透き通った音がエントランスに響く。
「わあ、いい音だ」
「お前に楽器の良し悪しが分かるのか?」
「分かんないけど好きな音だよ」
「そりゃあ、熟練の楽器職人が今回は最高傑作だ、って言いながら申請に来たものだからね。なるべく多くの人に触れてほしいって話だったから、試しに置いてみたんだ。……さて、コレとかどうかな。アゼムの好きな曲だったろう?」
ヒュトロダエウスがくるりと指先を回すと、光が寄り集まって紙となる。等間隔の線の上にインクが踊るそれを受け取りながら、エメトセルクはやれやれと首を振った。
「こいつの好みより私が弾きやすいかを考慮して欲しかったな」
「案外キミも、そう言いながら出来ちゃうの、ワタシたちは知ってるんだよね」
「そうだそうだ!」
そして、念入りに押せば大体断らないことも。エメトセルクが台に譜面を開いて置き、椅子を引いて腰掛ける。骨ばった両の手が開かれて、そっと鍵盤を押す。
和音が響いた。探るようなゆったりとした入りに、アゼムは目を見開く。
「あ、この曲だったのか」
「これを見て分からなかったのか」
「譜面を私が読めると思う?」
「タイトルを読め、タイトルを」
「街中でよく掛かってて、覚えちゃっただけだもの! でも、うん。……好き。綺麗だ」
「キミ、よく鼻歌で歌ってるから、特別なのかと思ってたよ」
静けさの中で懐かしむような、情緒たっぷりのメロディー。アゼムが口ずさむ時はもう少しテンポが早く、明るい曲に聞こえているが、ピアノの落ち着いた音色で響くと、胸に染み入る感覚がある。
久しぶりというのは本当のようで、エメトセルクの手は初め、ややぎこちなかった。しかし段々と慣れるうちに、滑らかに指が流れていく。大きな手が器用に鍵を弾いていくのを目で追っていたアゼムが、ほうと息をつく。
「上手いもんだ。やるじゃん」
「どこからの目線だ。……弾ける人間から見たら拙いものだがな」
「触れてもらってこの子も喜んでるよ、きっと」
アゼムは静かに目を伏せて耳を澄ましていたが、響く音を聞くうちに、むずむずと誤魔化しきれない感情が湧き上がってきたようで、ぴょんと軽く跳ねた。
「私も触りたい!」
「弾けるのか?」
「ああだめ、止めないで。でもちょっと詰めて」
「はぁ?」
一旦音が止む。アゼムは鍵盤から手を離したエメトセルクに、不満げに唇を尖らせつつ、彼の腰を横から押した。長椅子の右側が少し空くと、アゼムはするりとそこに腰掛ける。
「どけるか、どくか、どっちかにしろ」
「しょうがない、最初から弾いて?」
「何がしょうがない、だ。弾きづらい」
「ほらほら、はやく!」
期待の眼差しに至近距離から見詰められて、エメトセルクは溜め息を吐いて再度鍵盤に手を載せる。相変わらず我が友は押しが強く、押しに弱いなぁ、と同じ椅子で寄り添う影を背後から眺めながら、ヒュトロダエウスはひとり頷いた。
先程よりしっかりとした音が始まった。譜面を睨む横顔を見上げていたアゼムは、腕まくりをして右の手を高音の鍵に乗せる。指がぐっと鍵を押し下げるのを皮切りに、響く和音の中、軽やかな星の煌めきが混じっていく。
音が続く中で、ちらりとエメトセルクは隣を見遣った。彼女の真剣な視線は、踊るような自身の指の先を追い掛けている。
「弾けないんじゃなかったのか」
「なんとなくこの辺っぽいのを押してる」
「中々いいじゃない、アゼム本当に初めて?」
「私、褒められて伸びるタイプ! よーし、もうちょっと詰めてくれ」
「おい、走るな、乱れる」
「大丈夫さ、きみが相手ならね」
ふふん、と笑ったアゼムが、左の手も鍵盤に載せた。重なる音は増えるが、その響きに不快なものを含むことなく、いつの間にか集まっていた人々の間に流れていく。
「高音ばかりが目立つとバランスが崩れる」
「それを支えるのがきみの役目だろう?」
「お前は割り込んできたに過ぎないんだが?」
「あ、そのアレンジいい感じじゃん。じゃあ、こっちも」
「調子に乗るなよ」
「やり返してくるから丁度良くなるんだって」
白い手が譜面を捲った。最初の静けさはどこへやら、高音も低音も入り混じった賑やかな音の波は、楽しそうにエントランスを駆け回っている。
ローブの袖が触れる距離の中で、呼吸が揃っていく。挟んでいた口数は減り、目と目がたまに合っては、付いてこれるかと口の端が笑む。
駆け上るような音。互いに呼び掛けては答える音色が、間を置いて響く。
やがて、最後の音が長く伸び、消えた。
数秒ののち、拍手の音が鳴り始め、すっかり二人の世界に入っていた友人たちが慌てて振り向くのに、ヒュトロダエウスはくすりと笑った。
全く、これは天からの才としか言いようがないんじゃないか。学べば出来てしまうエメトセルクも、触れれば覚えてしまうアゼムも。
立ち上がった二人に替わって、市民の女性が長椅子に腰掛け、ローブの袖を捲った。ジャジーな流行りの曲が鳴り始める中で、友人たちがヒュトロダエウスに近付いてくる。
「囲まれていたのに気付いたなら早く言え、大衆に聴かせる腕じゃないんだぞ」
「ねえ見てヒュトロダエウス! 私すごい手が開くのに気付いちゃった! エメトセルクの大きい手と触れる音の数競ってる気がする!」
「練習したら今より更に上手くなるよ。もうちょっと手軽な鍵盤楽器のイデアでも借りていく?」
大層お気に召した様子のアゼムにヒュトロダエウスはそう訊ねたのだが、アゼムはすぐさま、ううん、と首を横に振った。どうして、と首を傾げれば、アゼムはエメトセルクを見上げた。
「一人で弾く気はしないからいいよ。彼となら別だけど」
さらりと口にするアゼムに、エメトセルクは一瞬の間の後に眉を寄せた。そんな二人を前にして、ヒュトロダエウスは指を一本立てた。
「分かった、じゃあ今度彼の部屋にグランドピアノを持ち込むね」
「何故既定事項のように言うんだ」
「だってワタシ、またキミたちが一緒に弾いてるの見たいし。ねぇ、ダメかな……?」
アゼムが窺うヒュトロダエウスの顔を見て、彼の隣に並んだ。同じようにエメトセルクを見つめ、両手の指を組み合わせてみる。二人分の無言の圧力を前に、エメトセルクは更に眉を寄せた。
「場所を取るだろうが。これ以上私の部屋をお前たちの好きにされてたまるか」
ヒュトロダエウスとアゼムはちらりと視線を合わせた。置ける場所さえあるなら弾く気は満々だぞ彼。押せばいけるんじゃない? この間もそう言いながらアストロスコープ持ち込ませてくれたし。声なき会話が交わされるのに、エメトセルクは唸って額を抑えた。
「提供するならお前の部屋だぞ、ヒュトロダエウス」
二人はパァン! と勢いよく手のひらを叩き合わせた。
「次はどの曲にする?」
「私が好き勝手出来るやつどれ?」
「キミはどれでも好き勝手するでしょ?」
所蔵品のリストを展開して見せているヒュトロダエウスに、エメトセルクは好きにしろ、と手を振った。どうせすぐに飽きる筈だ。飽きるまでなら、付き合ってやってもいい。
間違っても、こいつと弾くのが心地よかった訳ではない。絶対にだ。
覆い隠そうとしても、感覚派の彼女に伝わっていること。気付きつつも自覚は認められず、腕を組んだ。
「また見せて、きみの横顔」
こそりと囁く声には、そっぽを向いて答える。にやにやと笑う悪友の顔が、腹立たしくて仕方がなかった。
