宵の雀が語るには

 美しい女のように見えた。
 その人影は、船室の扉をくぐる前に被っていた笠を外す。真ん中で分けた薄墨色の髪が、音もなく流れていった。一瞬隠れた顔がこちらを覗き込んでいるのが見えて、小さく会釈をすると、その人影もうっすらと微笑んで会釈を返した。
 東方の女性だろうか。顔の両脇にゆるりと豊かに膨らんだ白い角が生えている。しかしアウラ・レンらしい鱗はその顔にはほとんど浮かんでおらず、きめ細やかなその肌はヒューランのようにつるりとしていた。浅い翠玉の瞳はとろりと垂れた眼窩に嵌っていて、長くまっすぐとした睫毛に縁取られている。少し太めだが、整えられた眉がその上のなだらかな膨らみに沿って生え、起伏がなく流れていく。十人が見れば十人がそう言うだろう、涼やかな顔の東方美人だった。人形のように白い肌の中で、小さいが肉厚な唇が、うっすらと内側から色付いて主張をしている。
 もう自分も女にうつつを抜かすような歳でもないし、ここ、クガネから遠く離れたリムサ・ロミンサには愛する妻に、子供夫婦と孫まで待っている。それでもつい、ふと投げ掛けただけの視線を外せずに居るような、妙な色香がその女には漂っていた。
「じいさまかい、俺の船旅の同室者は」
 女が不意に口を開いた。清らかな鈴のように響く声色に乗った、俺、という一人称に少し驚いたが、船乗りの街で男に負けじと働く女もそのように名乗ることがある。東方でも地方に住む者の中には、方言の一つとしてそのように言うこともあると、教えてくれたのは宿屋の主人だったか。そうだ、と片手を上げると、女は目尻を溶かして笑う。
「そうかい、そうかい。いやあ、俺も大海を渡るのは初めてでね。同室者が、経験が皺に表れている西方のお人のようで、少しばかり安心したのさ」
 船室に入ってきた女は、備え付けられていた寝台に笠を置き、背負っていた紫の風呂敷の結び目を解いた。大海を渡る長旅だというのに、彼女はほとんど荷物を持っていなかった。被っていた笠の他に、持っていたのは両手で抱えるくらいの荷物が一つだけ。商人として買い付けに回っていた自分とは比べようもないが、旅慣れた冒険者だって、もう少し大荷物だろう。生活の為の品は行く先々で揃える気なのか、帰りのことなど考えるまでもないのか。
 ぽすり、安い寝台に女が腰掛けて、マットレスの固さを指先で確かめている。
 長旅で連れ添うには、幾分固そうに思うかな。そんな風に問いかけてみると、女は小さく目を見開いてから、くつくつと喉を鳴らした。それから、埃っぽいシーツの表面を手で撫でて、薄紅色の唇で弧を描く。
「あは、寝られるとこなら、どこででも」
 少し驚いてしまったのは、女の姿にどこか品を感じていたからだ。燻るような香水の香り、とでも言えばいいのだろうか。そんな風に、土の上を這うような生活をしていたとは到底思えなかったのだ。
 そんな時不意に、女の白魚のような手が、着ていた旅装の括り紐にするりと伸びた。あまりにも自然な仕草であったため、目を逸らすのが遅れた、と言い訳をさせてほしい。ひんがしの旅人が着るような、短い丈の着物の括り紐が緩んで、きつく閉じられていた合わせが少しばかり緩む。白い首筋が覗いてから、やっと自分は船室に備え付けられたカーテンに手を伸ばした。
 ひんがしの女は、他人に肌を見せたがらないものだとばかり思っていたのだが、育ちによっては違う文化圏も存在するのだろうか。着替えをするなら言ってくれ、と慌てて引いたカーテンの内側から低く言った自分に対し、ころころと耳馴染みのいい笑い声が返ってくる。見た目にそぐわず、随分なお転婆らしい。すれ違うばかりの他人だとしても、いっときはともに暮らす住人なのだと声を荒げようとした時、カーテンの端がつん、と引かれた。
「じいさま、じいさま。後で驚かせるのも悪いと思うからねぇ、最初に全部白状しようとしてんのさ」
 それから、あっさりと簡易な布の仕切りを捲って、女が顔を出してしまう。整った顔が最初に覗いて、白く細い手が端からドレープを作って布を寄せていき、少ない鱗の絡んだ腕が見えて、そして。
 肌着の一枚も身に着けていない、白い肌が静かに晒される。首筋からまっすぐ、その輪郭はすべらかに降りていく。……不思議なほど、平坦に。そしてそれに、どこか既視感を覚えた。
 歳の頃を数えてみれば、恐らくは二十を少し超えたところであろう。よほど発育が、悪いのだろうか? 何の羞恥もなく晒されたその身体に、大人の女を思わせる丸みは全くなかった。首筋から繋がる肩口のラインは硬く、少年のようだ。胸元はまっさらな平地で、脂肪の柔らかさも筋肉の凹凸もさほどない。
「見られて困る性別じゃあないのさ、俺はね。娘のように扱う必要なんかない。気楽にしておいてよ。ねぇ?」
 女のように見えていたが、男だったのか。驚きとともにそう問えば、相手は首を傾げて、微笑んだままだった。
「男だったよ、男だったさ。かと言ってまぁ、一口に言えたもんじゃあなくってね。ほぉら、男のアウラなら、ルガディンのじいさまに匹敵するたっぱがあって然るべき、だろ?」
 だった、とは? 随分妙な物言いをする。訝しがる自分に、彼は楽しげに目を細める。カーテンの向こうへと消えていく彼を見送ると、布越しに衣擦れの音がする。きゅっ、と帯の締まる音がした後、今度こそ目に毒ではない着流し姿になった、……便宜上、男と呼んでおくべきか。男が現れて、閉めていたカーテンを端からゆるゆると引き、脇へと括って留めた。
 ゆらり、地面が揺れる。慌ただしく駆け回る海賊たちの声が扉の外に響いていた。どうやら波間へと進水し始めたようだ。
 着ていた服の散らばった寝台に腰掛けた青年は、少ない荷物の中からキセルを取り出し、刻んだ葉を先へと詰めた。そして小箱から拾い上げた火属性の小結晶を、葉に押し付ける。小さな火種が点ったのを確認して、吸口から少しだけ息を吸い込んだ。
 ふう。口に含んだ煙を、細く吐き出している。男は流し目でこちらを楽しげに見詰めていた。
「しばらく、よろしくね、じいさま。……なんて呼べばいいかねぇ。とりあえず、俺はテルミツ。ウルシマのテルミツだよ。せっかく長い航海だ。じいさまほど長くはないだろうが、俺の昔話でも聞いておくれ」

 ウルシマというのは、ひんがしの文字で書くと漆に間、って具合になる。おや、漆はご存知かい? そうさ、木の表面に塗る加工用の樹液だね。ひんがしの庶民が名乗る名字は、生活に結び付いたものが多くてさ。俺の家も例に漏れず、木工を扱う漆塗り職人の家だった。
 家族は父と、母と、双子の妹だ。コウシュウ、は分かるかい? ここ、クガネから海を渡った先の本土、とかって呼ぶひんがしの一番大きい島だね。ひんがしは豊かな森が広がっていてねぇ、北東部、流ノ国って呼ばれるお国の山で産まれたんだが、良質な木々が産業の中心であった。そんなに人口のいない集落の外れだったもんで、自分の家族以外にはほとんど人と関わらない生活だったが……それが案外嫌いじゃなかったよ。
 父が樹から漆を採集して、練って、木から削り出した椀やなんかに幾重にも塗り重ねて、完成したら一山越えて街の商人に売りに行く。役目の決まっている地方の家なんか、産まれてから死ぬまで、同じ仕事をしていく人が多いものだし、父も祖父もその父も同じように生きていたから、俺もそうなるもんだと思っていたな。
 そうやって生きることに対して疑問も何も浮かばなかった。ずっと山で暮らしている父も、商家のツテで嫁いできた母も、日々の暮らしで忙しいままでも、楽しそうだったし、幸せそうだったから。仕事をする父の周りで、父が削ってくれた玩具で遊びながら、仕事の真似事をするのだって、子供ながらに楽しかったなぁ。遊び相手は同じ年の妹だけだったけど、そういうもんだと思ってたから不満もなかったし。母の教えてくれたわらべうたを口ずさみながら、火の番に使う薪を割る。幸せな生活だったよ。
 まあ、そんなのも終わっちまったから、俺はこのように今船に乗っているんだが。
 父も母も、特段身体の弱いひとじゃなかった。山の中で身の回りのこと全部、自然と同居して暮らすような生活だったからね。それなりに丈夫な働き手だったよ。だけど、流行病ってのは誰彼構わず襲うから恐れられるものなんだよね。街から集落に、集落から僻地に。咳病みが一冬で流行った。
 人と関わらない仕事をしていたもんだが、商流として問屋とは顔を合わせるし、食料やなんかは自家栽培じゃ足りない分を買い出しに行くんでね。必ずしも切り離された生活なんか土台無理な話なのさ。誰にもらったでもなく、最初に父が床に臥せた。次いで看病していた母が。五つの時だった。
 妹と、小さな子供ながらに必死で看病をしたよ。でも、だめだった。ふたりとも呆気なく死んでしまった。病床で咳き込むふたりを、小さなふたりで囲んで泣いていた。静かになっても泣いていた。だけど動かない両親を二晩ほど見守っていたころ、涙が枯れてきた。それに、ようやっと気付いたが、腹も空いていた。
 妹とふたり、手を繋いで山を下った。星が綺麗な夜だったねぇ。庭のようなものだとはいえ、夜の山は獣が潜んでいて恐ろしい場所だ。それでも、誰か、誰でもいいから。子供だけじゃあ、いずれ迫る死を避けられないことはたった五つでも分かるからね。わらじを履いた小さな足で、山道を駆けていく。
 集落に辿り着いたとき、灯る火を見て涙が溢れてきたのを思い出すよ。泥だらけ、みすぼらしくなった兄妹が軒先に立っていたのを見付けたのは、村長の妻だった。俺たちは、父さんも母さんも、咳病みで動かなくなったことをしゃくりあげながら説明をして。ああ、可哀想にという声を聞いて、もっと泣くしかなくなったのもはっきりと覚えているね。
 沸かした風呂で丸洗いされて、ふわりとした布団に突っ込まれても、まだ体は冷えていた。だけど疲れていたことに変わりはなくてね。ぎゅうぎゅうと妹と抱き合っていれば、泥のような眠りが腕を伸ばしてくる。向き合うのが怖くて逃げても、後ろから追い付いてくる。どこにも行かないように、大事に大事にふたりほっちの妹を抱えて、眠った。
 日が明けて、山を登り、母たちを供養した。伝染病だしね。死体はあっという間に焼かれてしまった。俺たちの家族というものは、よその山から一人移り住んだ男が始祖でね。麓の集落には親戚がいなくて、さてどうしようとなるのが大人の事情というやつさ。
 流行病で臥せった親の子供なんて、どうしようもないものの筆頭に違いない。……まぁ、豊かな集落でもなかったし、病を持ち込まれても困るし。顔を合わせていたとしても、強固な集落の人脈に巻き込まれないで暮らしていたというのもあって。俺たちはどこにも行き場がなかった。妹と手を繋ぎながら、俺はどこに行ってでも、この子とだけは離れないでいようと思っていた。だから、行く先なんか、どこででも良かったのかもしれないな。
 長い話し合いの後、俺たちは二山越えた街へと追いやられることになった。母方の遠い親戚が暮らしているのを村長が知っていてね。特にそれ以外に頼る先もなかったから、思い出されたあとは満場一致だよ。がたごと、俺たちの荷物と一緒に馬が引く荷台に乗って、遠く森の中に消えていく俺たちの家を眺めていた。いつまでも、いつまでも。木でできた家はちっぽけだったが、俺にとっては五歳までの世界中の話だった。

 預けられた親戚の家は、街の中で食堂を営業している商家だった。俺たちは驚くくらい容易く家の中に入ることが出来た。それも、小間使いを数人雇っていて、食材の卸をやっている業者が出入りするような屋敷だったからってのが大きい。俺は、俺たちはこれからどうしようね、なんて震える妹の手を握っていたものだが、今更五つの子供が一人二人増えた程度じゃびくともしない、そんな家さ。
 俺たちはそこで初めて、他人と触れ合うことを知った。親戚の家は暖かくはなく、冷たくもなかった。親戚ったって、そんな大きな括りの家族の中じゃ、小さな切れ端のようなものだったからね。家を継ぐ長子と、もしかしたら、で出番の来る次男と。それ以外はどんな親戚もだいたい一緒くたさ。妹のハナ……波が鳴るって書くんだ。ハナは少し歳が上の姉さんに懐いたが、俺は結局、妹しか身内は残ってないんだ、って思っていた。
 ひとつ屋根の下で一緒に起きて、一緒に飯を食って。陽が高くなれば、学び舎を降りた先生が家の中にやってくるから、他の子供たちと一緒に文字の読み書きや算術を習う。その日の勉強が終われば、庭で雀を追って遊ぶ。それも平穏な日々だったね。代わり映えのしない穏やかな毎日だった。
 学び舎のある地域の子供は、先生に色々社会に出た時に必要な勉強を付けて貰うんだろう? 俺はそんな世界があることすら知らなかったね。文字の読み書きは求められる商品が分かるだけ読めればいい。算術は、生きるために必要なものがそらで出来りゃあ御の字。出来なきゃ騙されて死ぬってんで、よほど学び舎で昼寝している子供よりかは真剣だったかも知れないが……職人の家で職人になる道しかない子供の必要は、それっぽっちだったなぁ。
 俺はまともに技を盗む前に親に逝かれてしまったし、親も親で家族四人食っていけりゃあそれで良いと、弟子の一人も取らなかった。漆塗り職人の漆間家は廃業だね。寂しく思えど、致し方のない話。それでも子供ながらに食っていかなきゃいけない訳だから、とぼんやりと考えていた。
 街の子は、頭の出来が良けりゃ、商家に奉公に出たりもするらしい。家の仕事がある子はそのまま跡を継ぐが、余った子供はわりかし自由がきくんだと。何がしたい、とか、夢のようなものは持っていなかった。憧れる間もなく、父のようになると思っていたから。行き先に目指すところはなく、妹とふたり、生きられればそれでいい。

 二年ほどだったかな、そういう風に暮らしたのは。ある日、俺は勉強を終えて、庭で手鞠で遊びながらわらべうたを歌っていた。母との思い出だ。ハナも俺の歌を聞くのが好きだった。てん、てん、と鞠をつきながら口ずさむのはよくあることで、特に意識をしない日常の一瞬だった。
 違ったのは、屋敷の入り口がざわめいて、家の主人が俺たちのところへ飛んできたこと。
 突然だから驚いたな。まっすぐ俺に向かって駆けてきた。教育や衣食住は他の子供や小間使いと同じだけ受けていたが、主自ら俺に指名をかけてくることなんかなかったのに、どうしたんだと目を剥いた。
「お前の他に、歌っていた子はいるかい」
 そんなことを問われた。俺は戸惑いながら、ハナと親戚の姉さんを振り返った。ふたりとも首を横に振る。一体何の騒ぎだろうか。子供の歌声なんかありふれたもので、真夜中に歌うでもなし、特に苦情など来たこともなかったのだが。主人は俺の肩を掴んで歩き始めたので、逆らうことなく一緒に歩いていく。
 家の入口に人だかりが出来ていた。俺は首を傾げるしかない。何か悪いことなどしただろうか? 見れば人だかりは男だらけで、しかも高級な着物を纏っている。見慣れない俺から見ても分かる、刺繍や刺してある色が高等なやつだった。誰かしら、お偉方というものなのだろうか。
「領主様のご子息がいらしている」
 主人の囁き声に、俺はよくわからないまま頷いた。この街に、村長なんかよりずっと偉い領主とやらが住んでいて、街の奥には大きな大きなお屋敷が建っていることは知っていた。けれど庶民とは縁のない雲の上の話だ。そんな領主様の、ご子息とな。俺は踵を上げ、背を伸ばして人だかりの中を見た。中心にいる偉そうなヒューランの若者がそれだろうか。
 取り巻きの一人、ルガディン族の老人が前に立った。首が痛くなるほど見上げた俺の顔を覗き込んで、老人は口を開いた。
「お前が、先程の歌声の主か」
 そう、です、と。ややありながらも肯定した俺を不躾に眺める視線にたじろぎながら、俺は周囲を見回した。人だかりが俺を見て何かを囁き交わしている。居心地が悪いったらありゃしない。俺の肩に添えられた主人の手が強張っているのがよくわかった。
 値踏みするような視線が、頭から爪先まで舐め回す。老人はひとつ、ふたつ、頷いた。
「我が主が、お前を召し抱えたいと仰っている」
 ……俺を? 小さく呟く。
 耳を疑った。何がまかり間違って、こんなどこにでもいる子供をお屋敷に誘おうだなんて。不安に思って主人を見上げたが、彼は俺を静かに見下ろすだけだった。
「ああ、お前をだ。当代の領主様に仕える詩人が高齢となっていてな、若い歌い手を探していたのだ。街の視察に出てみれば、幼いながらに美しい歌声が響いている。……顔も随分、整っているのがわかった。主を慰めるため、客人を饗すため、お前の歌声がほしい」
 歌が綺麗だなんて、自分じゃ認識したこともなかった。母の方がもっと上手だった。ぐるぐると思考を混乱させながら、俺が最初に口にしたのは。
 ハナを置いていけない、と。それだけ。
「……ハナ?」
「この子供の双子の妹です」
「……妹か。顔を一度見せてほしい」
 はい、と会釈をして、主人は庭へと走り去っていく。俺は一人、知らない大人たちの前に取り残されて、不安なまま両手の指先を絡めた。人混みの奥では、静かに能面のような笑みを浮かべた若様と思しき青年が、じっとこっちを見つめている。
 行く先はどこへでも良かったくせに、いざ提示されると、あまりの性急さにたじろいでしまう。どうして、俺なんか。いい、わるいの前に、どうして、と。自分に特別なところがあるだなんて、毛ほども思い付くことはなかった。
 こそ、と若様が侍従の青年に耳打ちをする。今度は壮年の、眼鏡をかけた穏やかな顔立ちのヒューランが近付いてきた。そして、俺の前にひざまずく。
 あ、偉い人にそれをさせちゃあまずい。慌てて地面に膝を着こうとした俺の手を、柔らかい手がそっと握って引き留めた。俺の顔を、にこりと笑って見上げている。
「あなたの衣食住はお約束しましょう。見習いといえど、当家で雇う形ではありますから、給金も出しましょう。もちろん、妹君も一緒に。……どうやらあなたには両親が既に亡い様子。身を預ける先としては、悪くない条件だと思うのですが」
 俺は俯いた。確かに言う通りだ、と思う。どうして、の言葉は消えないが、親戚の家に厄介になるのも、領主様とやらに仕えるのも、ハナさえ居るのならそう変わりのないことだ。どこででも、穏やかな日々を暮らせるならそれでいい。
「おにいちゃん!?」
 主人に連れられたハナがぱたぱたと駆けてくる。身なりの整った大人にかしずかれている兄を見て、大層驚いたことだろう。おや、と目の前のヒューランが眼鏡を指先で直した。
「ご兄妹で、本当にそっくりなんですね。これは、また」
 ハナ、と名前を呼ぶと、目を丸くしたハナが俺の隣までやって来て、ちらちらと大人たちを見上げている。
「ハナさん、あなたも。お屋敷で女中さんの見習いをするつもりはありませんか? 毎日……そうですね、大衆食堂よりも豊かな食事と、ふわふわのお布団と。綺麗なお召し物だって。私達がお約束しますから、どうか私達の下で働いてくださいな」
 ハナは、俺の空いていた右手をぎゅ、と強く握った。ふわりとした赤い唇を噛み締めて、俺の顔と、大人の顔を見比べている。
「おにいちゃんと、一緒に?」
「はい、二人一緒に」
 顔を見合わせて、翠の目と目が覗きあう。
 俺は、お前がいいならいいよ。こっそりと心でそう呟けば、ハナはゆっくりと瞬きをした。おにいちゃんとなら、どこででもいいよ、と。俺も瞬きを返す。
 手を握り返した。ふたり揃って、同じ方向に首を振った。

「……うん、そう。俺はお屋敷勤めをしていたのさ。見初める、ってのはこんな風なのを言うのかな?」
 なるほど、品の良さはそこから来ているのか。今、大人の男の姿でそのような艶やかな気配を漂わせているのだから、無垢な子供の頃は魔性かもしれない。そんな感想を抱くこちらを前に、ふう、と煙を吐いたテルミツが、煙管を休ませている。
 恋に落としてみせたのだな、と笑えば、彼もふふ、と掠れた声で笑った。
「あは、いっぺんに恋に落とした……なぁんて、可愛いものだったのか」
 まだまだ話は続きそうだ。船の中で飲もうかと、クガネで買っておいたひんがし酒をトランクから取り出すと、テルミツはうっすらと目を輝かせた。
「おや、じいさま、その酒はいいねぇ、自分で選んだのかい? お目が高いね。きり、とした辛めの呑口が心地よい一品だよ」
 もちろん、独り占めするつもりもない。出演料だ、とカップに注いで手渡すと、テルミツは嬉しそうに微笑んだ。
「それでは、続きを話しましょう」

 

 ひんがしって国は、一つの国だけど一つの国じゃない。
 変な言い回しをしたね。一番のお偉いさんは、帝の座におわす方だ。今の時代はレイゲン帝、ってお名前だね。色んな神獣の血を家に取り込んだとか、神に授けられた様々な宝を持っているだとか、権威を裏付ける為の伝説には事欠かない。どこまで本当で、どこからが嘘かは、誰も本気で考えはしない。とりあえず、俺達はまず目にすることのない人で……その後光だけが眩い力を持っているのさ。
 実際の頂点には誰がいるかと言うと、ミツルギ家の将軍だ。立場としては帝に仕える武士。あくまで帝の一家臣が国を治めるお役目を賜っている、という形ではあるが、ひんがしという国を示す旗にミツルギ家の家紋が使われるように、外交的な権力者と言えばミツルギ一族の者だろう。でも、それも必ずしも正解ではない。
 ひんがしは小さな国が撚り合わさった国でね。ひとつひとつの国は、それぞれその地域で多大な権力を持つ、大名と呼ばれる人々が統治している。小さな島々も含めて多様な領地があるもんだから、将軍家の威光こそあれど、昔ながらの繋がりのほうが優先されるってとこだろうか。群雄割拠、下剋上を狙って武家同士では国力の奪い合いを画策したりもするそうだが……俺の出る幕ではないなぁ、この辺は。
 我が主、キヨヒサ様はその大名ってやつの一人息子さ。大名って言っても、治める国の国力はピンからキリまで。流ノ国は中でも随分小さな国だよ。大きい国の都となると立派な天守閣が建つそうだが、流ノ国はそれに比べたら大豆の粒みたいなもの。だからこそ若様自ら街を視察したり出来たみたいだね。わざわざ歌い手の卵まで見付けるくらいだもの。
 だけどまぁ、そんな小さな国の、さらに片田舎の山奥で暮らしていたような子供だったからね、俺は。お屋敷勤めなんて夢のまた夢。現実とは思えなかったし……ずうっと夢の中に居たようだった。今かい? 今やっと、午睡から覚めたところさ。
 行くと決まって、親戚も何事もなく送り出してくれた。ハナは寂しがってたが、どうせ街の中で暮らすことに変わりはないし、手紙を書けばいいとなだめた。親戚としても、一人や二人、子が増えたところで変わらないという盤石な家ではあったが、先々のことを考えたりする必要がなくなったので万々歳ってところかな。俺は元々、ハナと一緒ならどこへでも、ってんで、随分乾いた別れではあったが……どうなんだろうね。もっと俺は、懐いていればよかったのかな。
 お屋敷に上がって、生活水準は格段に上がった。山の中で野草を食って生きてた子供にはびっくりするくらいの柔らかい白飯に、日々趣向を凝らした小鉢。それで使用人の飯って言うんだから、国を治める人の偉さを今更に知ったね。一応、一番いいところをお偉方に出した余りを適当に調理したものらしかったが……ハナと一緒に、これだけでも来た価値があると、はしゃいだもんだ。
 日々、ハナはお女中さんの見習いとして、炊事や洗濯を習う。元々実家や親戚の家で手伝っていたことだし、ハナは働くのが好きだったから毎日とても楽しそうだった。人の笑顔のために働ける素直な子なんだよ、あの子。見習いの中でも本当に下っ端で、使いっぱしりばっかりだったが、寝る時に今日あったことをいつまでも、いつまでも話していたねぇ。やれどこの姉さんが面白いことを言ったとか、どこのおばさまの着物の襲がとても綺麗だった、とか。彼女の目を通せば、周囲の全てが新鮮で、水面のようにキラキラ煌めいていた。
 俺は、先代の歌い手に師事して教養と歌や楽器のお勉強さ。俺はハナよりも直接的に客人に関わる仕事に就く予定だったからね。お茶の作法やら、武士のお作法やら。歌い手って言うから、詩の詠み方くらいかと思えば、案外に忙しい。その他にハナや他の奉公人の子供と机を並べて読み書きの練習なんかもするしね。あとは……。
 一等に大切なのは、主の身の周りのお世話の勉強か。着物を着せたり、寝所の準備をしたり。主人が出歩くとなれば、お側に控えて微笑んで、どんなお役目も申し付けられた通りに。
 あはは、そも、歌い手をわざわざ国主が選んで雇う国自体ほかにあるのか、俺は知らない。俺は俺の国しか知らないからね。吟遊詩人……って西方では言うのだっけ? 楽器を爪弾きながら詩歌を歌う……。他所様で、お国に買われた詩人はどれほど多いものか分からないが、まぁ言ってみれば、俺の国では見目の良い子供を側に置き、客人に見せびらかす為のお仕事だったってことだ。
 俺の感想、かい? ……それが、特に何もないんだよねぇ。快も、不快も、それほど。うーん……歌や楽器の勉強は割と好きだったかな。ハナが喜ぶんだよ。新しい詩歌をそらんじてみれば、顔を輝かせて歌に込められた気持ちや物語の考察をする。俺自身はただ、知識として言葉をただ知るのみだったが、俺なんかよりよほど詩人に向いていただろうな、あの子は。俺の情緒は、人にどう歌えば心を動かせるかとか、そっちの琴線ばっかり張ってしまったものだから、作り物の美しさ、かな。俺は、純粋に歌を楽しむあの子の笑顔が好きだった。
 地頭の良さは自分じゃあ分からないが……とりあえずうちの主様は、大層俺を気に入ってくれてね。元々歌声と、見目は気に入られていたようだが、与えられたものが何であれ、抵抗せずに難なく飲み込む。そのどこまでも受動的な性分を好いていたんだろう。俺も一応馬鹿ではないから、何となしに、俺が主人の綺麗なお人形だってことには年月を重ねれば重ねるだけ気付いたが……それもよし、と飲み込んだ。
 最初はただの幼い子供であったが、そんな具合でいいように育てられたから、十になる頃には客人の前で歌うようになっていた。……ふふ、師匠のシゴキはなかなかにキツいものだったが、それも柔らかく飲み込んでしまう俺だもの、「上手く」歌える自信はあったよ。それに感情が伴うかは別として、ね。
 俺は歌うのは好きじゃないが、嫌いでもない。嫌なことをしないまま、生活を守っていけるのだから、それに越したことはない。こんな日常も悪くないと、そう思っていた。俺にとっての宝物は、平穏無事な日々そのものさ。何も起こらず、粛々と時が紡がれていく……。俺の望みは、ただそれだけ。それだけだった。
 なのに不思議なものでね。現状を幸せだと思う度に壊れていくんだ。
 領主であったキヨヒサ様のお父上、キヨトキ様が病に倒れてしまったのさ。一応跡継ぎのキヨヒサ様は居るし、まつりごとに関する引き継ぎは徐々に行われていた。それに、キヨトキ様付きの参謀たちも健在だ。国としては滞りなく進み……病が見付かって数ヶ月後に身罷られたが、さして混乱はしなかった。
 じゃあ何が問題かって? ふふ、それはね。
 キヨヒサ様が領主になって。十二の頃だったかな。キヨヒサ様にはまだお子が居なかったんだよ。ひんがしは血脈主義ってのが根付いていてね。職人なんかは弟子入りの制度とかもあるが、どう生きられるかは家柄と何番目に産まれたかが重要さ。どうしてもお子が産まれなければ、同じ血を継いだ親戚の家から養子を貰ったり……なんてことも行われるが、まずは直系の子を確保するのが最優先だ。
 奥方は既に居られたよ。俺が来た時にはもう結婚されていたからね、めおとになられてからそう短くはない。寝所の準備は俺がしていたから、交わされていたことも知っているが……それでもお子は出来なかった。
 お世継ぎが望まれているのに、一向に気配すらない……そのせいで苛立ちでも溜まってたのかねぇ。なんて、同情もしてみるけれど、多分権力を持って、止める者もなく、本性が隠せなくなったのが本当のところだろう。
 簡単に言うと、俺に入れ込むようになった。元々正室のチヨ様とは恋愛結婚なんかじゃなくてね。家柄同士の政略結婚だ。高い身分のおひとじゃよくある話で、当人同士は好きあっていなくても、つつがなく、めおととしてやることはやるのが礼儀だが……。その上で、満足のいかないことは側室やらを囲って発散するのも、よくある話さ。
 元々触れ合うのが好きなひとだなぁとは思っていたんだが。頭を撫でていたのが、腕になり、頬になり、角や尾になって。奥方様に悪いことをしていると思いつつ、やはり抵抗などそこにはない。俺の姿を主は飾りたがった。上質な絹に細工のあしらわれた着物を仕立てたり、真珠や宝石を散りばめた角飾りや尾飾りを買い与えたり。さしてこの国は豊かでないのに、きらきらとしたものに包まれた俺は、お客人や主の為に歌うお人形さ。
 女のように触れられること自体に、嫌悪はなかった。人に触れるのも触れられるのも嫌じゃなかったんだよね、性分として。触れて身体は温もっても、心が寄り添う訳でもなし。俺に触れたがるなら、どうぞお好きにすればいい。気持ちのいいことは嫌いじゃなかったしねぇ? そこにはやはり快も不快もなく、求められればするだけさ。まさしくこの心こそが、人形であったのだろう。
 しかし女のようにされることにも限界がある。心じゃなくて、時の流れとして。俺は段々と大人になる。妹のハナはひとつの卵から産まれた子供ではないから、そっくり同じという訳ではないが、よく似通っていた俺も、二次性徴を迎えれば男になるからね。アウラって、子供の頃は男女差がそれほどないのだが、ある時期を境ににょきにょき伸びて、大層な筋肉が付いて、あの姿になるのさ。
 我が主はどうやら、美しく小さな男の子供に興味を示す性質だったようでね。だから、俺もそうなり始めればお役御免だろうと。先代の歌い手のように、本当に歌だけのために雇われ、詩歌を紡ぐようになるのかなぁと。それを思えば、今一過性の炎に巻かれている主の愛など可愛らしいものだった。ただ、生活さえ安定しているならそれで良い、というのが俺の唯一の望みだ。
 だけどねぇ、そうもいかなかったんだね、だから俺は、ここで語っている。
 ふっと、意識が途切れた。主に差し出された菓子を食っていた時のことだ。舌に妙な苦さを感じていたから、奇妙に思ったんだが、主に与えられたものを拒むわけにはいかない。噛み砕いて、飲み込んで。ぐるんと視界が一回転して幕が降りる。
 そして。

「あなた、どういうことなの、あの雀は野に返すと思っていたから、私は!」
「あんなに美しいものを野に返す? 馬鹿を言うな、あの囀りをお前も聞いているだろう。あの声は、あの身体は特別製だ!」
 荒らげられた、そんなめおとの声で俺は目を覚ました。ずき、と下腹部が痛む。目を開くと、そこは見慣れた天井。目を覚ませたことに安堵した。下手をすれば殺されていたかも知れないと思って、そこでやっと主に恐怖した。……しかし妙だ。痛みはあるし、腕からは見慣れないものが伸びている。管が俺の腕に刺さっていた。脇には難しそうな機械がごちゃごちゃと居て、そこに繋がった硝子の瓶に入った桃色の液体が、管を通って俺の身体へと流れているらしい。
 そして一人の奇妙な眼鏡をかけた男が、機械を操作していた。無感動な目と、俺の目が合う。男はうっすらと微笑んだ。
「気分はどうだい」
 気分? と、俺は重い身体を捻って起き上がろうとした。何日も布団の虜になっていたように、俺の身体は鉛になっていた。動くとさらに、下腹部の痛みが激しくなる。変だ、と管の刺さっている右手よりは自由な左の手で、そこをさぐる。
 もうねぇ、笑うしかないんだけど……。じいさまも、男だからぞっとするかもね。
 ないんだよ、そこに。産まれてから連れ添った身体の一部が。まるっと切り取られたように。
 血の気が引いていく音がした。隣で帝国技師と思われる男が小さく笑う。何をされたのか。何のために。
 ……最悪だ。そう呟く。
「おや、何をされても無感動でいる綺麗な人形だと聞いていたが……案外に、ヒトの感情も残っていたのか」
 俺は技師に説明を受けた。主の望みで外科手術を行った。本来幼い男の声を保つためのものだが、それだけなら限りなく成長の度合いは普通の男のアウラのようになれる。しかし薬液を入れることで、エーテルに作用して成長を阻害し、性が未分化な子供の頃の姿のまま、大人にする事ができる……。と、そんな説明だ。
 はは、じいさまは錬金薬に造詣が深いのかい? そんな薬、ご禁制だろうね、まともな国では。
 俺は男にはなれない。女ですらない。中途半端な子供の身体のまま、ただひとり、年をとっていく。
 胸の中が掻き乱されていた。俺は。俺は、普通に生きたいだけだった。ただ正常に年をとり、子をもうけ、血を紡いでいく、一般的な男性でいたかった。それさえ守られているのなら、どんな風にされたって構いやしなかったのに。俺は家族と、ただ幸せに暮らしたいだけだったのに。
 か細い悲鳴が喉から漏れた。布団の上で背中を丸めて、肩を震わせる。ぼたぼたと、いつぶりかも分からない涙が零れ落ちては、布団に染みを作っていく。俺にも嫌なことがあったんだな。と笑ってしまうくらいに俺はひとじゃあなかったのに……。喪うと、どれだけ俺にとって大切なものなのか分かるんだな。
「おお、テルミツ、泣かないでおくれ。お前は美しくいられるんだ。ほかの子供が失ってしまう美しさをいつまでも保てるのは、お前だけなんだよ。どうか誇りに思ってくれ」
 返してくれ、俺を、帰してくれ。背からそっと主の手が俺の肩を抱く。声を震わせて俺が喚くのに、主はひたすらに穏やかな声で囁き続けた。美しいテルミツ。私はお前を一等に大切に思っているよ、と。
 自分の顔を美しいと思ったことなどない。顔の美しさを誇ることはない。美しいかんばせなど必要なかった。俺はそこらにあふれる野良の子の、這いずって這い上がって、ようやっと稼ぎを得て、妻を娶る。そんな生き方の方が美しいものだと思った。錦紗を纏って角飾りを鳴らすのは、万人が見たら美しいと思うのかもしれない。俺には要らないものを。誰か、成りたいのなら代わりに成っておくれよ。俺に俺をかえしてくれ。
 ただ、泣き喚いたって一度切り離されたものが返ってくる筈もないんだよな。
「そうか、お前は嫌か、その身体が……」
 お子も出来ない俺に入れ込んでも、何も生み出すものでは御座いません。どうか、お許しください。啜り泣く俺に、ほうと嘆息の音。
「子が成せる者ならば、……ふむ」
 俺ははっと目を見開いた。顔を上げて、主の着物を震える指で掴む。
 だめだ、妹だけは。妹だけは俺が守らないと。最後に残された俺の家族なんだ。その胸に額を寄せて、媚びるように触れれば、主は機嫌よく俺の頭を抱いた。
「かわいい、かわいい、私の雀……もっとよく鳴いておくれ……」

 

「お兄ちゃん、どうして、そんな酷いことを」
 俺は倒れたと聞いていたそうだが……実際のところを知ったハナは、俺に縋ってぼろぼろと泣いた。ひどい。お兄ちゃんは他人のモノじゃない。女の方が性の分化は早くって、俺を抱き締めるその身体はふわりと柔らかさを纏っている。
 大丈夫だよ、と抱き締め返して、角を軽く触れ合わせる。この子を守らないと、と決めたのなら、俺の身に起きた不幸などその重さを減らしていくのだ。
 俺にとっての最後の宝物。お前が子を持ち、幸せになってくれれば、兄はそれできっと救われるよ。俺に出来なかった幸を胸に微笑んでおくれよ。
 ハナは俺の言葉に納得できない様子でいたが、俺はただ微笑むだけだった。それを見て「お兄ちゃんの、そういうところが私は嫌い」と呟く。ああ、お前に嫌われたら俺は生きていけないよ、と目尻に指先を触れて嘘泣きをしてみれば、ハナは怒った様子でそっぽを向いた。
「お兄ちゃんが私を想ってくれるように、私だって、お兄ちゃんのことが大切なのに……」

 俺は日々主人の寝所に通った。俺にそれ以外、生きていられる道はない。日々俺に触れ、満足げにしていたものだから、このままハナが独り立ちして婚姻を結ぶまでは平穏に暮らせるだろうと、そう思っていたのだが……。ふふ、見込みは随分甘かったようだね。
 俺が本来喉に影を作り、背を伸ばす年も過ぎた。俺はやはりハナと変わらぬ背丈で物を見て、変わらぬ歩幅で屋敷を歩く。幼く高い歌声はお客人にも称賛された。俺を欲しがる者も居たが、主はどんなに高い金額を提示されようと首を縦には振らなかった。俺こそが、ほかに道楽を知らぬ自らの宝である、と。
 しかし何故だか、ハナが体調を崩す。
 食い物を受け付けなくなって、医者にかかった。侍女頭と俺に向かい、診察を終えた彼の人が言うに、病でも何でもない。
 ご懐妊だと。
 相手は誰かと尋ねれば、彼女は俯きか細い声で言った。主様、です。

 俺じゃあ満足できませんか。ねえ、こんなにもあなたを慕っておりますに。寝所でしなだれかかって言う俺に、主は事も無げに返してみせる。
「子を成さねばならぬことは理解している。しかし妻にはとんとその気配はない。誰でも良いから胤を蒔けと側近に言われたが……お前以上に美しい者を私は知らない。入れ込めるのは、そうだな……お前によく似た、あの娘くらい」
 嗚呼、どうしてお前は俺の妹なんだい。
 大切な大切なあの子を獲物として縛って差し出したのは俺に違いなかった。俺の血縁だから。俺に似た顔をしているから。お前に幸せになってほしいのに、俺の存在が苦しめている。
 そも、城に上がる時に彼女を無理に引き上げたのは俺だ。俺が居たから、あの子はやって来た。ハナはちゃんと、遠い親戚の中で居場所を作っていたのに。俺が行くと言ったから。
 やっと出来た主様の子、堕ろすことは叶わない。この国にとって待望の跡継ぎになり得る子なのだ。男でも、女でも、その血が絶えぬことが何よりも尊い。
 それにハナも、堕ろしたいとは一言も言わなかった。側室をたくさん持つ大名も少なくはない。ハナも正室に恨まれることこそあれど、立場は今よりも恵まれたものになるだろう。それに、ハナは腹を撫でて笑ったのだ。
「子を成せるのは、きっと幸せなことだから」

 ハナは側室として、かしずかれる側になった。正式な婚姻ではない。しかし取り上げられた子は正しく子として認められるだろう。働けなくなっても、彼女は周囲に気を配って愛されていた。同僚だった女中たちも、彼女を支えてよく働いてくれる。
 なのにどうして、腹が大きくなるほどに、彼女は細っていく。
 孕んだとて、働くのは身体に悪いことではない。市井じゃあ産むぎりぎりまで働き詰めの嫁だって少なくはないのだし。彼女は立場的に動けないなりに、身の周りのことをしてよく動いていたが……どうしてだか、食は細くなっていき、やつれていく。布団で休む日も増えた。
「初めての子だもの。まだ若いし、身体が慣れていないから。きっとじきに良くなるわ」
 侍女の中で一番仲の良い娘、チルハはそう言ってハナを励ましていた。女の真似事をさせられていても、俺に女の身体の本当は分からない。少しハナより歳が上の女が言うのだから、きっとそうなのだろう。自身を安堵させようとしても、彼女は日々弱っていく。腕や脚に奇妙な痣が浮く、その病を突き止めようとお抱えの医者が診察をするが、首を横に振るばかりだ。
 臨月には、ほとんど布団から起き上がれなくなっていた。ハナは病で苦しむのに、腹の子はすくすくと彼女から養分を吸い上げて育っていく。まるで命を吸っているみたいに。怖かった。ハナに必死で寄り添う俺を、主も止めはしなかった。 
 予定日よりも少し早く破水した。しかし臨月まで育ったから、子の成長に問題はないだろう。産婆達が駆け回り、一応男である俺は蚊帳の外だ。陣痛に苦しむ声が遠くからでも聞こえた。信心深い方ではないが、神様とやらにも祈ってみたよ。どうか妹をお救いくださいませ。俺からあの子を奪わないでくれ、ほかの何を投げ売ってもいい。彼女が俺の唯一に輝く星だ。
 幾刻も過ぎて……屋敷がにわかに騒がしくなる。ふにゃあ、ふにゃあ、と猫の泣くような声がした。へその緒を縛って、取り上げられた子を産湯に付けて、バタバタと足音が響く中で、俺は慌ててハナの下へと駆けた。
 ハナは、布団の中でぐったりとしていた。ハナ、ハナ、と耳元で呼ぶと、うっすらと目を開く。顔中に汗が浮いていて、侍従が手拭いを何度も当てていた。薄く開いた翠の瞳は、俺の顔を捉えずにうろうろと彷徨ったから、その手を握って俺の顔に当てさせる。ぼやりと輪郭の溶けた瞳が俺の方へ向いたが、定まらない。
「おにい、ちゃん……?」
 俺はここにいるよ、大丈夫だから。額を撫で、冷たい指先に熱を与えるように頬を寄せる。ハナはうろうろと何かを探すように視線を動かした。
「あかちゃん、は? あの子は、だいじょう、ぶ?」
「波鳴様、男の子です、どうか抱いてあげてください」
「わたしの、あかちゃん……」
 侍女が抱いた息子を、ハナの居る枕元に寄せる。震える手を彼女は伸ばした。真っ赤な顔をした赤子は、見た目はほとんどヒューランのようで、アウラの子らしい鱗はその顔に浮かんでいない。髪も黒く、父親にばかり似ていた。その子供を胸に抱き寄せたハナは、安心したように、ひとつ息を吐いた。
「おにいちゃん、あのね」
 浅かった呼吸が、段々と弱まっていくのを感じていた。やめてくれ、いやだ、まるで最後のように微笑むな。定まらない視線で息子を慈しんで、その瞳をそのまま、俺へと向ける妹を見ているのが辛かった。でも、目を逸らしたら本当に終わってしまうようで。なんだい、と優しく優しく、声を掛ける。
「かぞく、もう、私ひとりじゃ、ないから……おにいちゃんの家族だから、私がいなくても」
 そんなこと言うな。言わないでくれ。俺にはお前だけなんだよ、お前が居なくなってしまったら俺はこれからどうすればいい。目を閉じないで、これからお前はこの子の成長を見守らなきゃいけないんだから。
 呼吸がどんどん、弱くなっていく。掠れるような声が俺を呼んだ。
「どうか、この、子、を……」
 ハナは、目を閉じた。
 そして、それきり、動かなくなった。

 五年の時が過ぎた。
 ハナを喪った俺は、それこそ人形として息をしていた。命じられるまま隣で微笑み、命じられるまま夜に囀る。
 子供かい? 子供は何事もなく、すくすくと。ちょっと身体は弱くて、風邪を拗らせやすかったが……七つになるまでこの世のものでない、神様の領分の生き物とも呼ばれるくらいだから、まあそれで常かもね。野山で育った俺達が丈夫すぎたくらい。
 子供……キヨカゲ様は髪が黒く、瞳も梅色で、主様に瓜二つだった。ただ一つ、腰にアウラらしい鱗が生えていた。ほとんどヒューランのかたちをしていたが、まるで尻尾のなり損ないのように数枚、尾骶骨にね。
 子供は、正妻のチヨ様が母親ということになった。まぁ、お世継ぎであるから、細かいお世話の方は侍女がしているのだが。チヨ様は三十路を越えてもお子が出来ず、本当の子を産むのは諦めておられたのだろうね。血を継いだ母親は死んでしまったが、世継ぎとして育てるにはそれなりの家柄の娘である、チヨ様が母親になるのが丁度良かったし、細かいことを話すのもまだ難しい歳であったから、事々はいっそ簡単になった。
 ハナが言い残した続きの言葉は何だったんだろうねぇ。この子を、守って、なら。俺が守るまでもなく家柄が守ってくれるだろう。どうやらキヨヒサ様はそうそう胤を落とすつもりもないようだしねぇ、世継ぎの争いなど起こり得ることもなく、盤石というものだ。
 この子を、……   、だとしたら。

 チヨ様はキヨカゲ様を俺に近付けようとはしなかった。同じ屋敷の中だが、俺が立つのは主人の周りと客人の前ばかりでね。元服も済んでいない子供は奥に居られることが多いから、俺とそう生活範囲は被らない。俺としてもわざわざ会いには行かなかった。お父上はどうかと言えば、それほどご子息に興味を示しもしない。本当に、必要に迫られて子をもうけただけのようで怒りが湧きかけたが……きちんとそれを認識する前に、消えてしまった。子を孕み、ハナが命を落とすことになったのはそもそも俺が原因のようなものだから、怨む権利すらないと思えてね。
 あの子供は俺にとって罪の塊さ。なのに、子供というのはやたらと無垢で……恐ろしい。

 俺が昼間に一人で楽器の調律をしていた時だ。宴で用いる楽器の弦を弄っている俺の耳に、お子を呼ぶ侍女の声がひっきりなしに届いていた。五つなんて、どんなお家柄の子だろうと遊び盛りだ。小さな国の屋敷は、子供にとっては山のように広く、隠れ場所なんか幾らだってある。かくれんぼがお好きなようだねぇ、と他人事として微笑んだ頃だ。
 角に、ぺたりという足音が聞こえた。
「テルミツ、というのはおまえだな」
 ぺたぺたとやって来た気配は、俺の隣でどっかりと座った。ちらりと横を見れば、当然のようにこの屋敷唯一の子供の姿。あの男をそのまま小さくしたような顔でありながら、その表情は笑ったとして、ねっとりとした熱感はない。遠くで見かけることはあってもこのように真っ直ぐに見つめられることはなくて、その視線にたじろいでしまう。
 子供に感情を乱されるなんて、恥ずかしいこと。目を伏せ、薄く口元に笑みを浮かべる。若様のお耳に入るような名前では御座いません。母上様がお探しになるでしょう、早く遊びは終わりにされてはいかが?
 そんな言葉をよそに若様は、俺の尾に興味を示した。アウラなど、ヒューランほどの人数ではないが屋敷の中に幾人もいるだろうに。触れようとするからそっと座り直して逃げる。
「テルミツ、おまえと話をしたかったのだ。おれは、なぜだかおまえの顔をみると、どこかこころの中に、ざわつくものがある」
 ああ、子供など、生まれてこの方触れるものではなかったから、どのように扱えばいいのかとんと分からぬ。困って微笑んでいるうちに、部屋の襖がすっと開いた。侍女が慌てた様子で若様を抱えあげ、申し訳御座いません! と誰に向かってか謝罪を述べて駆けていく。
 ぽつんと一人残された俺は、ぽかんと顔を上げてたった今閉められた襖の柄を見つめているのだった。
 奇妙な邂逅は続く。その後も、度々子供は駆け回って俺の姿を探し回った。その見た目は、全然あの子に似てはいないのに、何をするにも俺と一緒だったあの子のように。ぎゅう、と胸が締め付けられるように思う。
 俺は夜の生き物だ。無垢なあの子の前では溶けてしまいそうな。どうぞ眩い顔をこちらに向けないでいてくれ。俺はそのように追われる立場になりようがないのだから。
 足音がするたびに、俺は身を強張らせた。怖かった。ちっぽけな、俺の細腕ですら跳ね除けられるだろう子供が、怖くて仕方がなかった。
 面白くないのは「母上様」だ。彼が自分の腕の中を飛び出して、「あなたの雀」ばかり追うことを好ましくは思わなかった。俺は基本的に主様の周囲を動かず、休日だって外を歩くことはないので、出会える範囲は広くない。チヨ様はキヨカゲ様に言って聞かせた。あの雀は、お前には似つかわしく無いものだ。侍女たちにも言って含め、俺自身ももっと、自ら陽の光を浴びなくなった。
 なのにあの子供は現れる。
「私の血を引くから、か。それともお前と血を分けた娘の血を引くから、か。どちらにせよ、お前に執着するのは分からぬところではない」
 主様はくく、と笑った。俺にとって他人ではないようだが……。甥の筈なのに、俺にはその様に思えないでいた。
 あの子の命を奪った子供だ。俺を奪った男の子供だ。
 あの子に罪のないことは知っている。逆恨みに過ぎない。本当の母の顔も知らず育てられた子だ。可哀想に思う心こそあれど、感情は重く結晶の枝を繋ぎ始める。

「お前は、おれの母を知っているか」
 ええ、ええ、美しく聡明なチヨ様に御座います。視線も合わせずにそう答えた俺に、八つになった子がつんと唇を尖らせる。
「……おれは、お前に知らぬ母の姿をみる。よもや、お前が母ではないかと思うことすらあった」
 戯言をお言いなさるな。俺に子は産めませぬよ。
「なあ、テルミツ、教えてくれ。おれの尾はなんの証だ?」
 あの子が残した、大きすぎる、傷跡だ。血の繋がった唯一の子供。俺の、家族。
 おにいちゃん、どうかこの子を、愛して。

 無理だよ、ハナ。俺には誰も、愛せない。

 血を吐いた。腕に浮き出る、痣に気付いた。
 どうやら俺の身体にも、妹と同じ病が忍び寄っていたらしい。隠そうとしたが、俺の身体には俺よりも詳しい人間が居るものでね。すぐにバレたよ。
 あは、妹と俺にしか出ない謎の病なんて、笑けてくるねぇ、ウルシマの血の病か、風土病か、なんて、ハナを一番に見てくれた侍女の友人たるチルハに笑いかけた。
 そうしたら、彼女は泣き崩れた。
「もう、嫌です。あの子が死んでいくのを二度も見るのは御免です。もう、……もう、殺したくない」
 その姿が尋常ではなかったから、詳しく訊ねた。彼女は顔を覆って苦しそうに呻いた。
 結論から言うと、これは病ではない。毒によるものだ。……チルハが、俺達に盛った。いいや、チルハは実際に毒を盛ったが、あくまで彼女はただの手先さ。奥方様の命だった。
 お子が出来ない体質の彼女は、主人が俺に入れ込むのにも忸怩たる思いを抱えていたが……俺は所詮元男。子を孕むことはどう頑張ったって出来やしない。側女が愛を射止めていくのに比べたらまだマシだ、と思っていたそうな。
 しかし、俺の血縁であることを理由にして、ハナに手を着けた。女であるという優位性が崩れてしまって、彼女は手を染めたのだね。チルハに命じて、毒を盛った。お腹に子が居てもお構いなしどころか、いっそ流れてしまえばいいと、そういう思いだったのだと。例えば手を着けられた侍女が別の女だったのなら、こうも狂いはしなかっただろうとも、ね。
 しかし子は流れず、母の命を吸ってのうのうと生き延びた。そして、産み落とすのと引き換えに、あの子は死んでしまった。一旦、チヨ様の恨みは晴れたご様子だった。お子の母となれたからね。子に何も教えなければ、紛れもなく母そのものになれるに違いない、と……。
 しかし育った子は、知らぬ母の面影を憎い男に見出して尻を追っているじゃあないか。どうして、どうして、あいつさえいなければ、私こそが正しく愛を得たに違いないのに! 俺に母を見ていると、あの子供が自分で知ってしまったのが、止めになったようだ。
 泣きながら全部白状したチルハを責める気にはならなかった。ただ、ひとつ、思ったことは。
 俺がすべてを滅ぼしたと、それだけさね。

 どこで間違ったのだろう。ただ本当に、俺は、家族と幸せに暮らしたかっただけなのに。
 いつだって、どんな災厄が顕れても、俺が望む幸せは大層だっただろうか。涙などもう、出ようもなかった。俺が居なけりゃ、幸せになれた人の存在を知れば、ただじゃあ居られなくなる。心の臓に罅が入るように、胸が軋んでは鳴いた。ただ運が悪かったと片付けたら早いのだろうが……少なくとも、俺があの方に見初められなきゃ、こんなことにはならなかったろう。
 歌声も要らぬ、顔も要らぬ。何にも優れたこともなく……ただ愛する人とともに生きて、死にたかった。

 俺は一人、屋敷を抜け出した。今まで試したこともなかったが、簡単だったよ。主様の入れ込む美貌とやらが役に立ってね。後で知られてどうなるかは考えちゃあならない。門兵に、余らせていた金か、俺の身体かを触れさせれば、呆気なく道は開いた。逃げ出そうとしなかっただけで、籠の鍵は壊れかけていたのだね。
 流ノ国を出て、しばらく旅をした。どこでも使うのは金か、色かでだいたい済んでしまう。悲しいほど人は欲に対して素直だ。そうして船で海を渡って、クガネに着いて。
 俺は、何にも知らない土地に行きたいんだ。何もかも捨てて、とにかく遠くへ。
 誰も不幸にしない、未知へ。

 

「ふふ、悪いね、じいさま。こんなので美味い酒を頂いちまって……。じいさま、こんな流しにそうそう対価を払うものではないよ。俺が心を整理するのに丁度いいおひとだったってだけなんだから」
 そう言ってテルミツは微笑んだ。淡々と語る彼の言葉は心地よく、すっと胸に沈んでいった。
 歌は、どの土地でも通用する娯楽であろう。そう言うと、彼は柳の眉を潜めて、目を細めた。
「俺にとってこの声は、呪いのようなものだ。これのせいで、俺は全てを喪った」
 悪いことを言ったな、と自分は頭を手で掻いた。歌声がなければ、かの領主に見出されることもなかった、と思っているのだろう。しかしそれも正しいものなのか。
 テルミツ自身に、罪はない。堕ちていくのは他人ばかりだ。手を伸ばして、ぽん、とその頭を撫でる。
 テルミツは、ぼんやりと顔を上げて戸惑っていた。
「……触れられるのは嫌いじゃあないが、もう二十四にもなる大の大人だよ、こう見えても」
 他人の幸を祈ってはいけないのか? そう笑うと、彼はくす、と小さくはにかんだ。
「不惑の年を超えたお方は俺の心に大変よろしい。ありがとう、じいさま。そんな風に触れられたのは……一体、いつ以来か」
 狭い船倉の中、寝台に腰掛けていたテルミツがゆったりと寝台に乗り上がって、シーツを手繰る。
 ひとつ彼が過ちを犯したとすれば、それはきっと、幸せになろうとしなかったことだ。全てを起こるがままに受け入れる、その性分こそが罪であったかもしれない。それはたったひとつの歯車の掛け違いを増長させ、歪みを引き起こした。
 名前を呼ぶと、柔らかい声が返ってくる。私は彼に訊ねた。
 幸せになりたい心臓は、動いているか。
 テルミツは目を丸くして、それからゆっくり、頷いた。
「俺はやっと、旅に出ている。どこまでも逃げる旅だが……不思議と心は晴れやかなんだ。いつか、そうだな。歌う日が来るときの為に、じいさまの話を蓄えさせてほしい、なんて思っている」
 彼は、心のままに往けるだろうか。妹の分まで、その目に映るものを彩ることが出来るだろうか。
 先のことなど知る由もないが、ただ今は、彼の幸を願う他人がいることを、覚えていてくれるといい。
「俺の血はもう、何も産むことはなく消え逝くのみだが。それでも触れ合う言葉が新たに生まれるなら、それが俺の生きた証なのかもしれない。……なんてね、今のちょっと詩人っぽくなかったかい?」
 血が産まずとも、残るものがある。この老人の身だから教えられることはいくらでも。
 自分はリムサ・ロミンサの家で待つ、小さな息子夫婦と、少し特別な孫娘のことを思い浮かべた。この広い洋上、交わせる言葉も、許す時間もいくらでもある筈だ。
 テルミツは微笑んだ。たくさん、話を聞かせてね、と。
「俺の旅の同行者がじいさまで良かったよ。……ふふ、そうさね、剣も握りなれないこの身であるが、来世こそ普通の男に生まれる事を祈って……死ぬまで続く旅の始まりとしよう」