「僕を少しでも大切に思うなら頷いて」
そう言って、お前は泣いた。灰青の垂れた瞳が俺だけを見ている。縋るようでいて、その実、それが懇願だけでないことを俺は知っている。ぼろぼろと雨が降る。熱い雫を冷え切った肌に受けながら、名前にならない感情が震えているのを、まざまざと目にしていた。
お前に泣かれると辛かったのは、いつまでだったか。
一人きりで生きるとなれば、深く眠ることはほとんどない。そうなるように訓練している。頭の芯まで深く眠るなら、一瞬で帰ってこられるように。身体を長く横たえたいなら、周囲の気配をいつでも知ることが出来るように。眠る時間は絶対的に生きるために必要なものであるが、最も弱い部分を晒す時間になるから、よほど安全が確保されていなければ、まともに眠ることはないのだ。
すうすう、と横からは安らかな寝息が聞こえていた。安全さえ得られればこの状態である。雨の名を付けた瞳を瞼の下に隠して、俺の友人は深い眠りに落ちていた。ぱち、ぱち、乾いた枝が弾けて時折火の粉を舞わせている。金の髪を暖かな炎の色に染めて、静かに寝入っている。
俺たちが森で暮らすことを諦めてから少し。木々の種類は変わっていたが、まだ異国の街は少し遠いようだ。森の外を知る必要はなく、地図さえも頭には入っていなかったが、南下すれば何かしらの街に出会えることだけは知っていたから、二人で星を見ながら南へと進んでいた。
槍と斧、それから何をするにも使う短刀くらいしか持たないままの出立だったが、困ることはあまりなかった。一人きりでも生きられるように訓練を受けたから、二人も居れば出来ないことはないとさえ思えた。森が変われば棲む獣も少しばかりは変わるものだが、穿てば血を流し、食える肉であることに変わりはない。ヴィエラ族の微かな音も逃さない耳があれば、沢を探し当てるのにも全く苦労はしなかった。
二人で過ごす夜が、こんなに穏やかだったとは。集落を出てから幾年も経って、やっと思い出せたような気がする。師匠と三人で居た時も独りではなかったが、修行の一環であったので、穏やかな夜とはまた違った。これは、信頼と呼ぶべきなのだろうか。この火の周りを除けば、暗い闇を抱えた森が広がっていて、決して安全な場所とは言えない。しかし、互いに交代で夜を見張るようになってからは、糸を切ったようにふつりと深い眠りに落ちてしまうのだった。それは、彼だけでなく、俺もそうだ。
確かに、一人で生きることに向いていなかったのだろうな、と苦笑する。
どうしてきみはそんなに男になりたいの。なんだか不機嫌な声で、チビだったお前が度々口にしていたことを思い出す。
どうして? と聞かれたなら、返す言葉はこう。どうしても! だ。
だって恥ずかしいじゃないか。守ることに固執していた。ヴィエラ族が生きる命題として、森を護ることが定められているものだが、俺はそれを成し遂げたい訳ではなかったのだ。守ることに違いはない。しかし、俺の対象は、母であり、家族であり、……お前だった。
ふたつ年下の幼馴染は、母同士が仲が良かったこともあり、お前が生まれた時からほとんど隣同士で遊んでいた。一つの集落の周囲には数人の雄が暮らしていて、それぞれの雄が繁殖に適した時期になると里に降りてきて、丁度いい頃合いの雌と番う。だからふたつ年の違うお前とは半分も血が繋がっていないことは明白だったが、同じ父を持つであろう同い年の他の子供よりも、その距離は近かったと思う。
物心付いた頃には、お前に貼り付かれているのが当たり前だった。まともに言葉も話せないうちから、母であるオスクさんのところに居なければ、大概の場合俺のところにいるとか、そんな距離感。本当の姉であるカイサ姉すら、三番手だった。ねーねより、ヘルカの方が先に呼ばれるんだわ、なんて嘆いていたっけ。そしてそれは、実際に起こっている。
俺はといえば。単純な子供であったから、好かれれば嬉しいに決まっていた。自分を慕う自分より小さな生き物が可愛くて仕方がない。はじまりのそれは、栗鼠や小鳥を手懐ける感覚に似ていたか。
ヘルカ、待って、と小さな足でぽてぽてと俺の後ろにくっついて来る。ほとんど身内しか居ない集落で言うのも奇妙な話だが、イルヴァは人見知りをするタイプだった。家族と、俺の母さんと、俺。それ以外の前では小さくなって俯いてしまう。俺に向ける笑顔が特別なものだと思えば、可愛くて仕方がない。顔自体もすごく可愛かったし。そう、仕方がない話なのだ。
男と、女。理解をしたのはいつの頃だっただろう。ヴィエラの集落というものは女か子供しか居ない。男というものを初めてまともに認識したのは五つやそこらだっただろうか。女のような柔らかさのない、広い肩幅に平たい胸。細身でありながら必要な筋肉に覆われた「その生き物」が初めて里に居るのを見たときは、大層驚いた記憶がある。たまに里を往来する同族の商人が居るくらいで、知らない相手に会うことすら希だったし。
それが男だと母に教えられて。男ってなに、と聞けば、子供がやって来るのに必要な存在であり、そして、武を以て私達を守る「強い」存在であるという。強いものには憧れた。格好良くて好きだ。弓や槍を携えて森へと入り、巨大な獣を狩ってくる母たちは強く、美しく、格好良くて好きだったが、そんな母が「強い」と冠を付けた。男とは、すごい生き物なのだ。幼い自分はそう思ったのだった。
女たちは協力しあって里の中で生きる。対する男はたった一人で森で暮らし、その腕のみで生き残るという。外敵を斃し、里と森を守る。それまで母の真似をして「私」と言っていた自分は、男になりたいと願い、雄が口にしていた「俺」を使うようになった。そして、男になると言って憚らなくなった。
そう口にしたとき、母は笑っていた。
「なりたいの?」
「なる!」
「なるかどうかは分かんないよ、どんなに男に焦がれても、アンタはもう女かもしれない」
「おれは! 男だもん!」
その時は知らなかったが、かつて母も「男になる」と宣言していた時代があったらしい。懐かしそうなその瞳の意味は、男だと分かった時に長老から聞いて初めて知った。
母の育て方は、自分が子供の頃にして欲しかったやり方らしい。元々ヴィエラの雌雄の判別が付くのは子供の時代が終わる頃であり、十余年を不確かなまま生きる。その中で自らの性別を確立して生きるのは、そう易しいことではない。でも、俺は自分のことを男だと信じて疑わなかった。
母はいいように俺を操っていたように思う。男に育つための修行は率先してやり、女の仕事になるものには抵抗を示していた俺だったが、「強い男は何でも出来るんだけどね〜?」などと煽られては物事に取り組んだ。なんて単純なんだろう、と今では思う物だが、正論で「今のお前は女でもある」と言われていたら、拗ねてどうなっていたか分からない。恐らくそういう子供は度々生まれるものだろうから、長く連なるヴィエラの歴史は上手いことやって来たのだろうな、と思う。
自分を男だと信じ切った俺は、自分に付いてくる小さな子供が女になると信じて疑わなかった。俺が男なら、お前は女。そういうものだと思っていた。金のふわりとした髪に、灰青の大きく垂れた瞳。眉尻は柔らかく下がり、笑うともっと落ちる。可愛らしい、と形容するのが丁度いいだろう。子供は得てして中性的なものだが、イルヴァに関してはまさしく少女的な見た目をしていた。
守りたい、と思った。特別に好いてくれているだろうことは明白で、好意を持たれれば同様に与えてやりたいと思うのは自然なことだった。向こうは一方的について行っているように思っていたかもしれないが、振り返ればその瞳が俺を追っているのは心地よく、だから振り切るほどの速さでは駆けなかった。たまにちょっと隠れてみたが、困ったように俺を探す姿が可愛いと思えばこそだ。見失った時のおろおろとした姿に、顔を出した瞬間の見開かれる目、ぴんと立つ耳。小動物のようで全く、可愛らしい。
俺が守るために強くなろうとすれば、イルヴァは応えるように癒やしや補助の術を伸ばした。まるで都合のいい思い込みかも知れないが、補うように、俺のそう得意でないことばかりをイルヴァは得手としていた。子供なんかなおさらに出来ないことが多く、助けられることは多かった。
しかし、俺はいずれ里を離れるから。少し大きくなった頃のある日、俺はイルヴァに対してこう言った。「いずれ一人になるのだから、そんなに世話を焼くな」と。寂しく思うのは俺も同じだ。けれど、このようにお前の助けを得ないと生きられないのは男として相応しくないと思ったのだ。
イルヴァは、ぽかんとして、俺の目を見た。それから、ぎゅうと手を強く握って黙り込んだ。瞳がゆらゆらと揺れていて、驚いてしまう。それくらい、お前にとって俺がいつまでもそばに居るのは当たり前のことのようだった。はらはらとしながら、何を言い出すものかと待っていたが、耐えきれずに笑って言葉を重ねる。「心配しなくても一人で生きられるし、大人になればお前に会いに来るから」と。
きっと喜ぶだろうと思った。男と女は離れていて当然だ。それでも繋がっていると信じている。場所は分かたれていたとて、同じ集落の一員であり、家族であり、結ばれる相手に違いはないと知っていた。だから、そう言えばいつも通りに眉を寄せて、笑ってくれると。
けれどお前は、震える声を絞って言った。
「会いになんか、こなくてもいい」
瞳に涙を滲ませた、その顔を見て俺はただただ焦った。拒否されるとは思ってもみなかった。いつまでも追ってくれるものと信じていたのだ。慌てた俺は、プライドもなくお前に触れた。お前が嫌がっても、俺はお前に会いに来る。お前が俺を受け入れてくれると信じているのだ。頼むから離れた俺を忘れてくれるなと。必死だった。どうして必死になるのか、その時はよく分かっていなかったように思う。
あくまでお前が寂しがるからだ、と言い訳しながら。お前が必要とするから、俺は会いに来る。ばかみたいな責任転嫁だ。驚いた顔のお前は、笑うどころか、くしゃりと顔を歪めて。
ゆっくりと瞳の膜が決壊して、雫になる様を見ていた。大きな水の粒は、周囲の木々を写し取って光っていた。瞳にいくつも、珠が浮かんでは、堪えきれずに落ちていく。
泣かせてしまった、と。守りたいと願う相手に涙を流させてしまった、と。俺は悪いことをした。罰を待って怯えるようでもあった。そう思ったのは間違いじゃなかった。けれど。
(なんて、顔、してるんだよ)
苦しそうに泣く、その顔を見て、心臓が素手でぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。苦しいから辛いかと言えば、そうじゃない。
なんと言葉にすればいいのか分からない、不思議な痛みだった。妙に鼓動が早鐘を打っていた。
泣くなと、慰めるべきなのに。固まった俺はすっかりそれが出来ずにいた。俺のことを考えて、泣いている。会いに来ると言えば泣く。嬉しくて? ……それだけでは言い表せない、読み取るのが難しい色だ。責めるようですらある。一体誰を? 俺にも少しそれは向いているのだろうが、敵意というものとはズレている。お前自身に向いている、と思う。
そんな顔をする理由が分からなかった。でも、俺にとってそれは無性に心地いいのだ。
泣き顔にこんな風に心を揺さぶられたことなんか初めてだった。それはついぞ最近まで理由も知らず、俺の心臓に爪を立てたまま残り続けた。
今思うこと。お前は俺を、好きだったんだなぁと。ただ、それだけ。
その後も、不意にお前の瞳は同じ色をして煌めくことがあった。
あれはお前が護符を作ってくれると決めた日だったか。ねぇ、と囁く声がどこか夢を見ているように不思議に響いた。離してはいけないと思わせる、妙な響きだ。だから、お前はすぐに誤魔化そうとしたけれど、俺は言葉を引き取った。俺が聞けば、お前はだいたい抗うのをやめる。その時だってそうだった。
一度は躊躇ったが、お前は結局特別な「ふたりの護符」の話をした。カイサ姉が外で知ったという、髪を使ったまじないだ。離れていても、互いを護るという。俺は丁度いい、と笑顔を浮かべた。
お前が何度また会いに来ると言っても、ずっと寂しげに唇を噛んでいるものだから。なんと言えば伝わるのだろうと考えていたのだ。離れていたとして、関係は断たれるものではないし、それを思えばとても死ぬことなんか出来やしないということを。普段柔らかな物語を語るのはお前の口のくせをして、言葉を信じることなんか、お前はしていなかったのだ。
だから、目に見えるものが出来れば少しは安心させられるんじゃないかって思った。二つ返事でやろうと言った俺に、お前は一瞬、言葉を詰まらせただろう。照れを隠すために、顔が見えないようにされてしまったが、その瞬間の動揺と、複雑な感情の色が絡んだ瞳が、残像のように脳裏に焼き付いた。
日が明けて、完成した護符をお前は俺に手渡した。小さな革袋の中の小さなそれは、何だか妙に重たく、温かく感じた。いったい何が詰められていればそんなことになるのやら、と俺はすぐに革袋を開けて中身を取り出し、陽光に翳した。
中身は、イルヴァが口にした通り、髪を編み込んだだけの小さな輪だった。飾る灰青の石が、金と青の細い糸をきらきらと写し込んでいる。俺は目を細めた。
紛れもなく、お前の瞳の色だった。単純に石の色が似ている、という意味でもあったが、それよりも。見た目以上にずしりと重く、一色では言い表せない色を取り込んだ様が、お前の瞳そのものだった。
お前自身を勇気付けるためのものだったのに、これは何があっても手放せない、と俺は小さく思った。
離れていても、一緒だからな。俺は改めて宣言をした。それを聞いたお前は、へにゃりと泣きそうな顔をして、なんとか笑った。どこまでも寂しそうで、何が傍にあったとしても、お前は納得できないんだなぁ、とほのかに思ったことを覚えている。
子供の勘というものは、どうしてそうも当たるのだろうな。いくら考えるよりも物事を知っているらしい。
それから月日が経ち、ずっと抱えていた、俺の願いは半分叶った。男になれたのだ。実を言えばずっと焦っていた。他の子供で言えばとうに男女の差は顕れている歳になっていたからだ。同い年である腹違いの姉妹たちは、何事もなく女になっていた。誰より早く決まりたかったのに、俺の身体はどの子供よりも遅くそれを露わにした。
不確かなそれが確立された瞬間の喜びと言ったらない。朝から叫んで母さんに盆で殴られた。信じていたが、焦れていたのだ。だから朝気付いてから俺はずっと上機嫌だった。長老に挨拶に行って「男と決まったからには」云々と心積もりの説明をされている間も心はふわふわとしたままだった。
そんなところにお前はやって来て、告げたのだ。
「僕も。男だったよ」
衝撃しかなかった。だって常にお前は俺を支えてくれたし、それは身体ですらそうなんだと頭から信じ込んでいたから。俺に守らせてくれると思っていたのだ。どうして、どうして! お前は男になんかなりたくなかっただろ!
なりたくてなれるものではない本質を知りながらも、俺はお前を責めた。なんで男になるんだよ。背は伸びたが、相変わらず顔は女の子のように柔らかな印象を湛えている。信じられない、証拠を見せろ!
混乱する俺に対して、お前の瞳は妙に静かだった。普段あれだけ色んな色を抱えているくせに、冷えた一色の瞳を見ていたら余計に頭がぐちゃぐちゃになって、噛みつく。そうすればお前もムキになって言い返してきた。
「きみが信じようが信じまいが、僕はこのまま男として育つんだからな」
衝撃だった。かっとなって飛びかかる。嘘かもしれない。何か俺を騙そうとしてるんじゃないかって。そうして俺はまた、母さんに盆で殴られた。
だって、生まれてからこっち、お前が俺にとって困った話になることなんかなかったのだ。いつだってお前は俺にとって良い相手であり続けた。守らせろと言ったら従ってくれるに決まっていた。そう、傲慢な思い込みでしかない。
ずっと一緒だと思っていた。その身は離れていたとしても。けれど、ここに来て初めて、その距離は離されたと感じた。身体自体が拒否しているばかりでなく、心が離れていく。
男と確定したからには、近いうちに雄が俺を連れ出してくれる。集落で過ごす最後の時間、俺の隣にお前は居なかった。変な心地だ。ふとした瞬間に俺は背後を振り返った。ざくざくと髪を切り落とした頭は軽く、見慣れた灰青はそこで待ってなどいやしない。そんな時、護符を握った。どこか温かく感じるその重みに救われたのは、俺に違いなかった。
言葉も交わさぬまま。最後がこうだなんて、呆気ない。男になる心づもりは小さい頃から出来ていたから、今更誰に別れを告げるでもない。どうせ俺は生き残り、帰ってくるのだ。母とも姉妹ともまた会える。しかし帰ってきても、旅立ったお前はもう集落には居ない。
そこでやっと、俺がどれだけお前に依存していたものか知るのだ。お前がついてくるばかりだと思っていたけれど。お前の存在は俺の人生にとって当たり前にあるものだった。あえて求めるものでもなかった。それが、手に届かないものになった瞬間に色彩を濃くする。
護符だけは持っていこうと、出立の準備をしながら、革に目を打ち、ベルトにポケットを縫い付けた。重たいそれを真新しい旅装束にも据え付けたところで、溜め息を吐いた。そして、笑えてきた。
俺とお前は、恋の真似事だったのか。男女でなければ成り立たないかたちだったのか。
男同士だと分かって、初めに感じた落胆はばからしい。どうせ男と女だって、数年に一度会えるだけだ。同じ集落を守るという使命に繋がれているのなら、男と男だって同じものを守っている。守ることこそが感情の向け方だと思っていたから、お前がその対象から外れてしまって寂しいなどと感じている。とんだ勘違いだ。
繋がる形はひとつきりではない。例えばこれは、絆だ。手で触れれば、小さな護符はいつだって柔らかくそこにあった。お前が望んでいたのが男と女であったなら、そこで「あるふたり」は終わっているのだろうけれど。別の繋がりになっていけない決まりなんてどこにもない。
意地を張らずに会いに行こうかな。ばらばらに離されて、きっと集落に来るタイミングもズレて、この先顔を合わせることなどないのだし。後悔をするくらいなら、一瞬の恥なんて捨ててしまえばいい。拗ねたあいつを宥めるのには手を焼きそうだが、俺を受け入れない筈がないなんて、そんな傲慢がめらめらと燃えてきている。
気づけば窓の外には、美しい月が出ていた。ぴょん、と椅子から飛び降りて、すぐ近くの家まで走ろうかと思った矢先。
木の扉がノックされたから、ノブを回す。開いた先には、見知らぬ雄の顔。
ずっと待っていた迎えに、ああ、来てしまったと胸の内で呟いたのは、聞こえないふりをした。
強い雄の師匠というものは、男になんかなりたくないと泣く子供も力尽くで拐ってしまうらしい。ちょっと待って、などと言う間もなく、俺は支度を整え、彼――マスター・ビョルクの後を駆けた。ほんの少しの心残りが小さな棘になったが、見ないふりをして。
無口な師匠は、特にこちらを汲むといったそぶりは見せない。黙って従え、と言ったところか。一刻も早く彼に認められることが、大人の雄になる為に欠かせない試練だから、無駄な抵抗もする道理がない。
森の中を走ってちっぽけな野営地に辿り着くと、師匠は赤いクリスタルの欠片を石で打ち、乾いた木に火を灯した。ここが拠点らしい。これからここで習うのか、とぐるりと辺りを見渡している俺に、師匠は短く言った。
「用がある。ここで待っていろ」
それは連れてきたばかりの俺に、ひとつとして教えることなく置いていく用事か? 順序を不思議に思った俺が、何をしに行くんだと声をかける隙もなく、森に溶け込む外套を纏った姿は闇の中へと消えた。今まで一度たりとも踏み入ったことのない森の奥。俺は一人、炎とともに取り残された。
炎が弱くならないように、時折火の中に枝を放り込みながら。周囲に耳を澄ましても、木のざわめく音と、時折何かの生き物が動く音しかしない。獣は賢いから、炎が灯っていればヒトが居て、近付けば牙を剥くと知っている。炎の傍に居ればほとんど襲われることはない、が。
急に一人ぼっちになってしまった。今までの一人は、独りではなかったのだと改めて思った。いずれ本当に個として生きていかなければならない。こんなの序の口の筈。けれどもだ。
心細くなれば、簡単に思考は転がってしまう。やっぱり会っときゃ良かったなぁ、って。思い付くのが後一刻早ければ、後悔することはなかった。多分このまま引きずるんだろうな。馬鹿だなぁ、俺。燃える赤い炎をじっと見つめながら、そんなことを考えていた矢先に。
行きは随分静かだったのに、帰りは妙に音を立てて。騒がしいヒトの気配にぴんと耳を立てた。一人ぼっちに怖がっていた心を押し込んで、師匠を迎えたとき。
金の髪が、月の光を受けて柔らかく輝いていた。
お前も驚いてたけどさ、俺がどんなに驚いたか。
慌てて何故いるのかと訊ねたが、師匠に一蹴される。黙り込んだ俺は、ぎこちなく炎に視線を移す。
気恥ずかしくって、目も合わせらんない。だって、お前に会いたいとか、こっ恥ずかしいことを思ってた矢先なんだから。ちょっと顔が熱いけど、火に照らされたせいだと言い訳をする。
安心したんだ、正直。騒がしい足音に疑問を抱かず迎えた時点で、俺はヒトの気配に飢えていた。その上で。そこにお前が居たことに、どうしようもなく喜んでしまったのだから否定が出来ない。やっぱり俺には、お前が必要なんだと。
何の巡り合わせか、俺とお前はほとんど同じ日に身体が大人になった。二人とも男だった。そして同じ雄が迎えに来た。だから、まだ二人でいられる。信じられないくらいちっぽけな可能性を引っ張り出してしまったのだ。
偶然も積み重なり過ぎると運命になりうる。
例えば俺が残念ながら女で、お前も女だったなら、それは母たちのような、ヴィエラの暮らしの中でよくある親友同士のかたちに収まっただろう。そもそも大半の子供は女として生まれてくるからだ。
願ったとて先々の運が変わることはない。最初から決まっていたことが後から分かっただけ。そう言われてしまえばそこまでなのだが。何だか俺は、お前と俺の執念のようなものを感じてしまうのだ。お前が何になりたいのかは知らなかったが、それでもお前の瞳が俺を見て雨を降らせた日の色は、ずっと胸に貼り付いている。
俺は男になりたいという願いを叶えた。
そして、間違いじゃなければ、まだお前は俺の後ろに居たがっているんじゃないか、と。
いっぺんに考え事をして疲れたものだから、さっさと安心しきって寝てしまった。ぐっすりと眠ってスッキリとした朝のこと。
しょぼしょぼとした顔のお前に笑ってしまった。そっちはどうも寝られなかったらしい。前日は声を掛けられずにいたが、肩を小突いて笑いかける。
お前は終わらせるつもりなのかもしれなかったけど、俺はまだお前と生きていたいんだから。
からかった俺の言葉に、イルヴァは目をまん丸くして。それから、ふにゃふにゃと唇を遊ばせた。なんてお前は分かりやすいんだろう! 友人の続きはお前にとっても快いものだったらしい。恋や愛がなくったって、傍に居る理由はあっていいのだ。それを俺は知っていたし、お前に教えたかった。
わざわざ結ばれることはない。俺は女と子を作るだろうし、お前もいずれそうなるだろう。その上で、お前と同じ時を共有して何か悪いことがあるのか。普通、ヴィエラの男は一人で生きる。生きた上で、重なる瞬間を必ず避けなければならないという決まりがあるのか。執念が導いたのなら、わざとそれを蹴るような真似をする必要があるとも思えなかった。
俺たちは大人に変わっていく。師匠の下で修行をし、一人で生きる準備をする。
一人で何でもやる、というのはそれなりに骨が折れる。俺は細やかな作業が得意ではなかったし、獲物が罠に掛かるまでじいと待ち伏せる時間が好きではなかった。その分得意とする部分で覆ってしまえば生きる上で問題はないが、あくまでも俺たちの学びは師匠が監督しているものだ。あまりにも酷い出来だと、鼻で笑われてしまう。
そういう意味で、二人で居るのはちょうど良かった。初めに師匠が見せた手本通りにいかない時、幾度も試行錯誤を繰り返して上達していくが、一人の視点からだと、どうしたって改善は偏るものだ。やっぱりお前は俺を補うように術を伸ばしていて、教えあって綺麗な二人分の腕前になる。
少しでもお前に残しておきたかった。俺と一緒に居た意味が、お前の中に残ればいいと思った。でっぱりとへっこみが、上手く合わさる様は嫌いではない。ヴィエラの男は一人で生きると決まっていたが、本当は一人ではないんじゃないかと思い始めていた。様々なものを与えられて、まるく皮の下に収めるから、生きていられるのだ。
俺は初め、少しお前を心配していた。元来おっとりとした性格で、とても一人でガツガツと食らって生きるタイプの人間じゃない。けれど、俺が思った以上にお前は強い男だった。性の分化が進み始めた頃、なよついていたその細い身体は、立派に筋肉をつけ、女とはとても勘違い出来ない体躯に変わっていた。女が放っておかないだろうと、俺は度々お前を褒めた。
なのに、そんな時お前は、いつだって複雑な顔をした。生きる心積もりは出来ているらしく、師匠から習ったことを疎かにはしようとしない。生きるための学びはどんどん吸収していくお前が、不意に立ち止まる。
雄であることに抵抗している、と言うべきだろうか。生きるために必要なことはきちんと覚えていくのに、残すために必要なことからは逃げている。潔癖と言ってもいいかもしれない。男であるならそれは欲求のひとつとして確かに存在するものの筈なのに。俺は訝しがった。
でも、お前が何を考えていたのか、すぐに分かるようになる。
一人で修行をするようになって、しばらく経ってからだった。里を出たときは心細く感じた一人きりの生活も、裏付けできる技術と自信があればそう怖いものではない。師匠から一人で生きろと切り出されたのだから、最終段階に来ていると言ってよかっただろう。
隣に誰も居ない生活には随分慣れていた。隣に居なくとも、同じ太陽と月の下には居るのだ。師匠の来訪がなくなっても、俺は自分を孤独だとは思わなかっただろう。
つつがなく、時は過ぎていく。出来ることが増えて安定していくのは嬉しかった。間違いはなく、成長している。たまに護符を取り出しては眺めた。微かに温かいそれに、お前もそうであれば良いとのんびりと考えたりもした。確かに繋がっている実感があったのだ。寂しくはない。
呼ばれた時、突然のことに驚きはしたが、いつか来るだろうなという予感があったから、不思議に思うことはなかった。小さなまじないには、いつもどこか体温を感じていたが、その時はことさらに熱いばかりか、光っていたのだ。何かあったなら、きっと呼ばれると信じていた。名を呼ぶ声など聞こえないが、お前が求めた証なのだろう。
命の危機ではないといい。板を渡して巣にしていた樹上から飛び降りて、周囲を見た。師匠の気配はない。他人の縄張りに入ると言うのは、少しばかり勇気がいる。それでもだ。お前が呼ぶなら、俺は行かなければならない。正直に言えば、ちょっと興奮していた。お前を守ると、昔願ったことが果たされそうで。俺を呼ぶという緊急事態に、心配半分、期待が半分。怒られるかもしれないから、言うつもりはないが。
結果を言えば、命の危機ではなかった。泉に沈むお前を見たときには、肝が冷えたけれど、そんなことどうでもいいと霞んでしまった。
お前は、俺を求めていた。護符に引かれるままに近付いた泉には、やっぱりお前がいた。裸のお前は、ゆっくりと顔を上げる。
ぐるりと熱に溶けた瞳に見られた瞬間に、背筋がぞくりとした。不安げに灰青が揺れている。俺の顔を見て驚いた様子だったが、近付いた俺の首に手を引っ掛ける時にはもう、迷わないようだった。
こんなに間近で目を見たのなんて、いつ以来だったろう。覗き込みたかったのだが、お前はすぐに俺の肩に擦り寄ってしまうから、金の髪と長い耳だけが視界に映ることになる。お前は熱っぽく吐息をこぼした。体重が掛けられて、短い草の中に倒れ込む。
異常事態には違いない、と思った。俺に乗り上げたお前が、熱い昂ぶりを押し付けてくる。あからさまな欲求だ。しかしお前は動揺すらしていない。俺は訊ねた。何をしているのか分かっているのか、と。
お前は子供のようにふるふると首を横に振った。ああ、もう、お前。
していることは全くもって可愛くなどない。だって俺は男だ。お前も男。俺は雌じゃないから、これをするべき相手はほかに居る筈だ。なのにお前は、持て余したこの熱に上げた悲鳴で、ただひたすらに俺を呼ぶんだ。ぐっと喉が詰まった。
見上げた先で灰青が潤んだ。ごちゃごちゃと難しいことを考えて、苦しんでいる時の目じゃない。透き通った青は、俺だけを見ていた。ヘルカ。ヘルカ。声にならない声が俺をずっと呼んでいる。間違いなく、熱に浮かされた状態ではあるが、その意味を俺はよく知っていた。
お前、俺のこと好きなんだな。
頑張れば、ただ分からないことが出て迷った時に、訊ねる相手が俺だった、それだけのことだと勘違いも出来ただろう。でも、その目がそれをさせなかった。今にも雨が降りそうだが、そこには濁りひとつない。それを向けられて、唾を飲み込む。
俺が知らなかったこと。お前も知らないこと。
俺も案外、お前のことが好きだったようだ。肉欲に正しく応えるものかは分からないが、お前に触れられて不快に思わないということが答えになりうる気がした。与えて、許してやりたいと思う気持ちはそういう意味に違いない。相手が他の雄であったら、その辺の石でも手にとって頭を殴り付けているところだ。敬愛する師匠でも同じようにしただろう。
ふう、ふう、と荒い息を吐くお前が、妙に可愛くて仕方がなかった。俺の後ろを付いてきていた頃の少女めいた可愛らしさなんて、もうお前にはない。肩幅は広くなったし、しなやかな筋肉が骨格を支えていて、柔らかな脂肪などほとんど残っていない。顔立ちもまだ甘さは残るが、既に女になり得た骨格は消えて、一人前の雄のものだ。
なのに俺は、そんなものを押し付けてくるお前に不快を示せていない。手を伸ばして髪を掻き上げると、瞳が気持ちよさそうに細められた。ぽたり、泉の清水か、お前の汗か、雫が降ってくる。
「わかんないなら、しょうがないな」
全部、受け入れることにした。まだ欲の意味も分かっていないようなお前の、全部。お前にだったら俺の急所を晒してやってもいいし、柔らかい部分に牙を立てても構わない。押し付けられている脚で、ぐいと押し上げると、イルヴァは目をまん丸くして、ぶる、と肩を震わせた。
その後は、なし崩しに。押し付けるばかりでどうしたら良いのか分からない様子が可愛くて可哀想で、慰めてやった。後にも先にも、男にそうして触れることはないだろうと思えば、構うことなどなかった。
たすけて、ヘルカ、くるしい。
吐息が何度も俺の名前を呼ぶ。雄の欲求を浴びる。触れていたら、何だか俺にまで火がついてしまって。
お前の目のせいだ。涙の膜が張っていて、あまりにも綺麗だった。それが一心に俺を求めてくる。絆されてしまうのも仕方あるまい。お前はしていることの本当の意味など分かっていないようだが、あえて教えることもしなかった。分からないままでいてもいいし、どこかで気付いてくれてもいい。
俺になりたいものはなく、繋がりさえあればそれでよかった。
正気を取り戻したお前は大層慌てた様子だった。今思っても笑ってしまう。子を残せる身体になったという証であるのに、それすら知らなかったのだから。あんなに腰を振り立てる男であったくせ、生娘のように恥ずかしがる顔。そのギャップが面白かった。本能と理性の乖離とでも言えばいいのか。俺は案外に、欲に流された時のお前の顔が嫌いではない。
しかし俺にとって驚き、重要だったのはそんな話よりもだ。
お前と来たら、絆を認識していなかったらしい。嘘だろお前、こんな重いもん寄越しといて、知りませんじゃ済まないだろうって。間違いなく俺はお前を傍に感じていたのだ。効果がない訳がない。まじないは正しく呪うものであり、他者の思い込みを感じ取れるほど俺の共感性は高くない。
問いただせば、お前は白状した。祈りを籠めたと。それなら不思議はない、と納得した。俺は髪を提供しただけで、製作には何も関わっていないのと同じだ。少しだけ腹を立てた。絆を誓うのに、一方通行で終わる話があるか。
追われて嫌ならとうの昔に逃げていた。お前を待っていた、その意味も知らなかったのか。
俺も祈りを籠めると言えば、お前の瞳は久しぶりにごちゃごちゃと何かを考えた。さっさと自分の分に祈って、お前に向けて手を出すと、お前はあからさまに狼狽える。効果を信じていなかったのに、胸に下げていたそれを早く渡せ。手を出したままでいれば、イルヴァは挙動不審に視線を彷徨わせた後、ようやく観念したかのように留め具を外して俺の手に載せた。
どうかこの祈りが、お前を救いますように。
目を閉じて集中すると、エーテルが重なって溶けていく。こんなもんだろう、と目を開く。イルヴァは顔を赤くして俯き、耳の先を揺らしていた。今更恥ずかしがるか、と片眉を上げる俺の手から、顔を隠したイルヴァが護符をひったくった。
首の後ろで留め具を引っ掛けたお前は、不思議そうに胸に手を当てた。どうやら魔法はきちんと作動したらしい。俺だって、想いがそんなに重いものだとは知らなかったが、それはそれとして、お前だけがこれを感じたことがないのは腹立たしかったのだ。満足した俺は、師匠に怒られないうちに退散することにした。
俺の祈りなど俺にとって重たくはなく、妙に足取りは軽かった。
しかし、まさか次に会う時に俺が救われ、出立の時になるなど思いもしなかった。
空を見上げる。月は傾き、夜の半分が過ぎていた。そろそろ見張りの番を交代する時間だと知りながら、俺はお前の寝息を心地よく聞いていた。
強くなったなぁ、と改めて思う。守りたいと願った。強いものが弱いものを守るのは当然のことだ。男が心を向けるとはそういうことだろう。でも、……小さく笑う。お前も男なんだよな。
お前が俺を好いているのは初めからだし、さして驚くことでもない。一時の逢瀬を越えたあとも、生活は続く。獣を狩り、生活を整え、生態系を整える。全て森に組み込まれた暮らし。連綿と続いてきた歴史に抗う気なんかなかった。心を通わせることと生活を成り立たせることが天秤に掛けられないのがヴィエラの暮らしだ。愛や恋を語ろうが、生活は続くのである。
きっとこのまま俺たちは生きていくのだろう。そう思っていた。少しずつ師匠が訪れる間隔は開いていて、つまるところそれは大人になっていることとイコールだ。着実に見えてくる終着点に心は踊った。強く、ひとりで生きる雄になる。昔から目指していた一点だから、今更見失うなんてこともない。
明け方に、高い木のてっぺんから眺める地平のなんと美しいこと。連なる山脈が白んで、少しずつ日が登っていく。濃紺の空に淡桃が滲み、橙を背負って来る。はざまの色は瞬きごとに姿を変えた。遠く、俺の行くことのない世界の彼方が塗り替わっていく様を、穏やかに眺めていた。木々の頭が、陽光に照らされて白く染められていく。自らの立つ枝も、何もかも。果ての先から来た光が、俺たちを飲み込んでいく。
広い世界の中で、この森はちっぽけなものに違いない。でも、俺にとってはこれが全てだ。守り、育て、慈しむ。繰り返す年月は、悪くはない。手の中にある、俺の大切なものさえ守れれば、それだけで良いのだ。
ある日、師匠が俺に言った。迷う獣がいる、と。それは大熊だ。弱く縄張りを得られぬから彷徨うならまだ良いが、飽食に従ってより良い狩り場を求め移動しており、段々とその範囲は集落に寄っているらしい。
師匠が何を多く狩れ、と指示を出すのは今に始まったことではない。過ぎた繁殖は森の毒であるし、減らしすぎるのもまた同様だ。ただし、指示は口頭で告げられるのみ。何をどう対処するかは、俺が全て決めなければならない。考えることもまた試練のひとつなのだ。
舐めて掛かっていたつもりはない。やれることは全てやった気でいる。足跡や、毛、糞などの痕跡から行動範囲を調べ、相手がいつ何を狩り、どこを通るのか見当をつけた。痕跡から見るに、相手は通常の熊よりも二周りほど大きくて、まともにかち合うと分が悪そうだ。だから威力を上げて調整した罠を作り、ルートに配置することにした。動きを阻害するもの、致死毒を塗った矢を放つもの。使えるものは全て使った、つもりだ。
だから。敵わなければ、俺がただ負けただけのこと。
毒矢を放った。手足を絡める網を放った。脚を食う鉄輪も仕掛けた。
しかし、そのどれもが敵わなかった。皮の表面に傷を付ける程度に留まり、獣は咆哮する。ヒトの縄張りを示す意図も含めた罠たちは、いたずらに敵愾心を煽るのみに終わり、ヒトの恐怖を知らせるどころか、怒りに鼻息を荒くさせるばかりだった。今までこんな相手とは対峙したことがない。俺は焦った。
直接狙った方が早いか。幾重にも仕掛けた罠は、動作済みか、体重に破壊されたものばかり。木陰に隠れ、短弓を引き絞る。毒薬を纏わせた鏃は急所、黒い目を狙った。うろうろと周囲の匂いを嗅いでいる熊に向けて、息を止めて矢を放つ。ひゅう、と風を切る音とともに、空間を真っ直ぐに進んだ。
そんな時、急に熊が立ち上がった。狙いすました筈の矢は、獣の胴に当たって情けなく落ちる。息を呑んだ。熊は矢の現れた大元……俺を見付けて、低く唸る。
見付かってしまえば戦うしかない。俺は背負っていた斧を構え、飛び出した。大して体力を奪えてはいないが、引き下がるという選択肢はない。
斧を振りかぶっては、切り付けた。鋭い爪が空を薙ぎ、時折俺の体を掠めていく。俊敏さで言えば俺のほうが上だ。しかし体力も攻撃力も、相手が勝っている。地面を跳ね、転がり、少しでも敵に血を流させるべく獲物を振るう。
雨の音がうるさい。髪や服が濡れて纏わりつき、不快だ。ぶる、と頭を振っては、相手を睨んで大地を蹴った。
ひとりで、やらないと。爪が肌を切り裂く度に痛みに呻く。血が流れ、体温が奪われていく。明らかに劣勢だった。たまたま通った一撃が視界の半分を薙いでいたが、それでも残った片目は俺を捉えて逃がす気がない。口の中の血を地面に吐き、治癒術式を唱える。腹の傷がじくじくと痛んでいた。
ここで、死ぬのか。勢いの衰えぬ敵を睨み付ける。背中まで冷たさが這い寄っているのをどうにか振りほどこうとしていた。
(イルヴァ)
気付けば、血に濡れた手でベルトを撫でていた。息を吸い、ゆっくりと吐く。
いつまでも当たり前に続くと思っていたが、これもまた、傲慢であった。以前よりは着実に強くなっている。大人に近付いている。けれども、足りなければいくら努力したと主張しても、意味のないことだったのだ。勝つか、負けるか。負けたら終わり。
回避しきれず吹き飛ばされた時に、矢筒の中の弓は全て地面に散らばってしまっていた。接近戦を仕掛けるしか道はない。狭い木々の間を駆け、少し距離が離れれば向かい合って、隙に一撃を食らわせる。
唇を噛んだ。情けない。
お前が居たら、なんて考えてしまう。一人と一人は二に足りないが、二人で揃えば。首を横に振る。
俺は、やり遂げなければならない。敵を見据え、斧の持ち手を強く握り締めた時だった。
「ヘルカ!」
幻聴だと思った。あまりにも都合が良すぎるから。
しかしその幻影は、俺に向かって振り下ろされた爪を、その槍で弾いた。金の髪がふわりと揺れる。
ああ。小さく溜め息を吐く。お前に、会いたかった。
獣が大地に伏した瞬間、俺の緊張の糸も切れた。
久しぶりの共闘だった。血が抜けて、雨の中で身体が冷え切っているのが良くわかる。途端に力が入らなくなって、お前の腕の中で、がくりと膝から崩れ落ちた。
お前が俺を覗き込んで、必死に呼びかけている。他人のぬくもりが、俺の意識を繋いでいた。得意とする治癒術の詠唱が聞こえて、一番深手を負っていた脇腹に熱が灯る。重いまぶたを持ち上げれば、今にも泣き出しそうな顔が間近に映った。
なんで、お前。心の声が漏れると、お前は俺に向かい、服の中にしまっていた護符を引き出して掲げた。
「きみに、呼ばれたから!」
つまり、あの日の逆って訳だ。思わず苦笑してしまう。
俺が願ったのは、お前を救うまじないであれ、という祈りだ。お前のために祈った。まさかそれが自分に返るものとは思っていない。カッコ悪いな、俺。
何で、来ちまったんだよ。責めたってどうしようもないのに、お前が居なくちゃ終わっていたという事実が恥ずかしくて、矛先をどこかに向けたかった。そんな八つ当たりのような俺の声に、お前はくしゃりと顔を歪めて笑った。
その瞳に、じわじわと雲が掛かる。ああ、と俺はお前の空を見上げた。不思議と胸の内側が熱い。まただ。また、お前の雨が、俺の心に熱を灯すんだ。
「きみは、弱い」
その声は柔らかい。涙を堪えて、お前は笑った。
「……僕も、弱いんだ」
いいや、お前は強くなった。俺に守られなくても良いだけの強さがあった。お前は俺を守った。誇れば良いのに。
「僕達に森で生きる資格はない」
俺はそうでも、お前は。手を伸ばして、男の輪郭に触れる。イルヴァはそっと、自らの手を俺に重ねた。潤んだ瞳が、ひとつ瞬くと、大粒の雫が目尻から落ちて、俺たちの手を濡らした。熱い。
胸が詰まって、苦しい。どくどくと心臓が鳴っている。お前から視線を外すことが出来ない。泣くお前が、途方もなく、美しいものだと感じた。俺のせいで泣く、その姿が好きだった。感情が詰まった雫は、きらきらと俺の心に潤いをもたらしていく。
微笑んだお前は、首を横に振った。
「きみが居ない世界に、生きている意味なんかない」
落ちる雨と共に、お前の唇が近付く。薄く開いた唇同士が重なった。柔らかく、温かい。
そうか、お前は。ぎゅうと心臓が握られるようだ。息が詰まって苦しい。
知ってしまった。欲しいと泣く、お前の姿が好きだったのは。俺も、お前に愛を向けていたからなんだな。俺がいないと生きられないとお前は言う。それほどまでに求められるのが狂しく愛しい。与えてやりたいと思う。俺をやるのは、俺が全て決めていいことだ。
「ヘルカ、ごめんね」
「何で謝るんだよ」
「だって」
ごくり、とお前の喉が鳴るのを見ていた。お前が心配しなくたって、俺は俺の裁量で決めてるんだから、何だって求めればいい。
ほしい、ほしいと瞳が叫んでいた。それを好ましく思うのは、俺の知っていることだ。
「お願いがあるんだ」
「……なんでも言ってみろよ」
ヘルカ。お前が囁き、身体が密着する。額と額を合わせた。周囲は段々と明るくなっている中で、お前の影が俺に落ちている。心音が重なり合って静かに響いていた。
「全部捨てて、僕と森を出て。僕と番って。僕の唯一になって。きみが居ないと生きていられない」
森を捨てる。考えたことなどなかった。俺は森の中で生き、森の中で死んでいく予定だった。それがヴィエラという生き物だ。聖地でその身を捧げ、血を紡いでいく。それ以外の生き方など知らなかった。
突然突き付けられた選択であるのに。
「僕を少しでも大切に思うなら頷いて。どこにも行かないと約束して。きみが……」
一番熱い雨が降る。天の雫は止んでいた。
「きみが、好きなんだ」
改まって、何の懺悔かと思うような声色で、お前はそう言った。事実、お前にとっては罪であったのだろう。でも、それがおかしくて仕方がなかった。
そんなこと、知っている。お前は俺が好きだものな。ずっと前から知っていた。そりゃあ、肉欲を伴うものだと知ったのはそう昔のことではなかったが、それでも。あまりにも当たり前の事実を、とんでもなく苦しげに言うものだから笑いだしたくもなる。
「お前ってばかだよなぁ」
身を起こして、自分からイルヴァの身体に身を重ねた。驚いたお前が少し身を引くから、腕で引き寄せた。強張るお前の身体。そんだけ求めておいていざ手に入れば戸惑うのか。かわいい奴め。少し待っていれば、お前の手はこわごわと俺の背に回される。肩口に顎を乗せて、くふ、と小さく笑った。
「過小評価し過ぎなんだよ、まったく。少しでも大切に思うなら? ……はは」
お前の手が、せっかく近付いた距離を引き離した。まあるい瞳が、期待を隠しきれずに俺を見下ろしている。……お前、いつの間に大きくなったんだろうな。守ると決めていた間は、随分と小さく見えていたのに。
「ずっと前から、お前が一番大切だよ」
ぴくん、と耳が動く。じわじわと頬を染めたお前は、うるうると一気に瞳を潤ませた。苦しくても、嬉しくても泣くんだから。でも、そこが可愛いところなんだ。
「行こう、ふたりで」
「レイニー」
俺は優しくお前の肩を揺らし、夢の淵から引き上げた。安心しきって深く眠っているとはいえ、森の狩人としての生は抜けきるものではない。すぐにお前は覚醒して、目を擦ると天を見た。
「ごめん、寝すぎたかも。出発遅らせるから、きみもちゃんと寝てね」
「いいよ、起こさなかっただけだ。……でもまぁ、お前が言うならそうしよっかな」
身を起こしたお前は、火の前に座って、すぐ近くに槍を引き寄せる。それを見て俺は広げた毛皮に寝転がり、腕を枕に目を閉じる。
ふたりきりの旅路は、ずっと続いていくのだろう。本来であれば子を作り、弟子を取り、そうして次へと紡いでいくものだったが、どうもお前は俺さえ居ればそれで良いらしいから。お前が求めてくれるなら、そのまま提供しておいてやろうかと思う程度には、俺はやっぱりお前を好いているのだ。
小さい頃から願っていた筈なのに、不思議と森に未練はなかった。
俺の命は本来、獣と対峙した時に終わっていた。そこで狩人としての人生は死んだのだろう。森に求められるほど俺は強くなかった。悲しいが、それが事実だ。縄張りを去る俺を師匠は追わなかった。
ヴィエラの男の生は絶えやすい。ひとりで生きられない俺たちは、淘汰されただけだ。その上で。
森の廻る生命から外された。同時に、俺に嵌っていた枷も外れた。その先は、俺の知らない領域だ。けれど、怖くはない。お前と一緒だから。お前を守るし、守られる。変わった関係は勇気をくれた。
イルヴァとヘルカを森に埋めて、俺たちは生きていく。夜に落ち、朝を迎える。
明日も、その先も。
ただ、息をする。意味なんて無くていい。使命なんて無くてもいい。何をするか、全て自分で決めていいのだ。雨はくすみを洗い流してくれた。こんなに心地よく眠れる居場所が、悪いわけがない。
どこまでも行こう。手を引き合って。あの日色を変えた地平の先は、限りなく広がっているのだ。
