片恋のノルニル

 姉さんから手紙が届いた。遠く離れた街から届いた手紙は、長い時間を経なければ、山の中には届かない。届く時期はばらばらで、平均すると一年に一度、ってところだろうか。だからきっと、近況と呼べるほどの近況ではないのだけれど、それでも旅立った姉の足跡を知る唯一の手がかりだった。
 同族の商人が届けてくれた封筒を、ナイフで開けて便箋を取り出す。匂い袋が入っていたようで、知らない土地の花の香りがした。かさ、と五枚綴りの手紙を開くと、見慣れた筆跡の文字が、藍色のインクによってなめらかに並んでいる。
 火にかけていたケトルがしゅんしゅんと音を立てている。わたしは厚手のグローブを嵌めて、木製の取手を掴んだ。ポットに熱湯を注ぐと、乾燥させた薬草と、混じった小さな黄色い花が、ふわふわと湯を浴びて開いていく。
 姉は、名をカイサと言った。過去のことだ。森を捨てて外に行ってしまったから、もうカイサと言う名のわたしの姉はいない。わたしたちが生まれたときに授かる名は、聖地で暮らす者にのみ許される森の名だ。森の掟に組み込まれ、正しく生きている時にだけ使うことができる。
 ヴィエラとして生まれたからには、長く紡がれてきた歴史に名を連ね、慎ましく生きていくことが正しいのだろう。それが当たり前だと思っていた。当たり前の暮らし、当たり前の一生。守っている限り、守られる。間違うことは恐ろしい。わたしも皆と同じように生き、死んでいくのだ。
 そんな中で、姉は異質だった。五年ほど前、突然集落を出ていった。理由を聞く間もなく消えてしまった。まだわたしは七つにもなっていない小さな子供で、何が起こったのか理解できず、優しかった姉の姿を探して集落中を探し回った。森は広いが、集落自体は子供の足でもまわりきれる程度の広さしかない。
 行ってしまったのね、と母さんが言った。それきり、何も語らなかった。
 二十ほど離れた姉は、わたしが生まれたときから大人の姿だったから、母にするように甘えた。護符作りや、狩り、木登りが上手で、わたしにも教えてくれていた。この集落にいる多くの女性と変わらない、普通の娘だ。そろそろ子を成す年頃で、次に男が里を訪れたなら、母になっただろう姉。
 もう会えないと知って、わたしはべそべそと泣いた。こんな形でお別れをするなんて、思ってもみなかったのだ。ヴィエラは長命だ。たった七年の歳月など、薄く積もった埃のように、気付けば払われ、消えてしまうのだろう。
 ほかの誰も、姉のことを話さなかった。まるで最初からそんな人間、居なかったかのように。それが森を出ると言うことなのだと、わたしは肌で感じていた。聖地のヴィエラの暮らしは閉じている。血が濃くなりすぎないように、集落同士の繋がりがあるくらいで、外界と触れることは殆ど無い。だからこそ、この暮らしは守られていて、続いている。異物など、無いほうがいいのだ。
 薬草茶が染み出してきたのを見て、ポットから茶器に注ぐ。嗅ぎなれた爽やかな花の匂いは安心した。茶器を傾けて啜りながら、わたしは改めて便箋を開いた。

 恋人が出来たのよ、と姉は綴った。相手は異種族の青年だという。
 エレゼン、という種族はすらりと背が高く、肌色の長い耳が顔の横に生えているのだとか。私よりも背が高いけれど、細いものだからきっと、私が彼を横抱きに出来るわね、なんて楽しそうな文字が踊っている。
 浮かれた姉の文字は続いた。男に恋をする日が来るなんて思わなかったわ、と言いながら。そして、右上がりの文字は続く。彼と番になると。私は彼の最期を看取るのよ、とも。
 わたしの森に、愛や恋という概念がない訳ではない。母は子を愛するし、子は母を愛する。集落の中で誰かに恋をすることもあるだろう。ただし、男女のそれは、必ずしもありふれたものではない。
 次世代の子を残すため。触れ合う理由はそれが一等に大きいのだ。たまたま種を持つのが男であり、たまたま産み落とすはらを貸せるのが女であった。もちろん、一晩のうちに深い感情を交わす者もいるに違いない。去った森の先を見て、静かにため息をこぼす姿を見たことがある。
 男の生は、女のそれと比べて短いことが多い。多数で生活を営む女と違って、一人きりで生きていく決まりで、自分で対処の出来ない事柄に出会ったら命は終わってしまうのだ。だから、男と女の出会いは毎回、まるで一度きりの逢瀬になる。次に会えるかはわからない。生きることへの執着を見出すのは結構だが、失っても引きずる愛の類はそう好まれることはない。
 種をまく男も、はらを貸す女も、特定の誰かと結ばれることは殆ど無い。可能性は少しでも多い方がいい。ただでさえ、外界から遮断された森の中では子が増えにくく、病や外傷によって減りやすいのだ。集落という大きな個を保っていくにあたって、当たり前の決まりごとだった。
 番。恋愛において特別な関係を持つ相手。ずず、と薬草の茶を啜る。薬草茶には、心を落ち着ける作用がある。ざわざわと胸が風を受ける木々のようにうるさく鳴っていたけれど、わたしは文字を静かに追い続けた。
 私は、あの暮らしは私のものではないと思っていたの。嫌いじゃなかったわ。間違いだとも思わない。事実、そうして長く暮らしてきたんだもの。
 でもね、イルヴァ。
「ようやっと、空っぽが満たされたの……」
 部屋の中は薄暗くなり始めていた。白い紙に書かれた文字が読みづらくなっていて、わたしは蜜蝋の蝋燭に火を灯した。揺れる炎が、暖かな色で藍色の文字列を照らす。
 わたしは手紙を机に並べて、頬杖をついた。

 ずっと「カイサ」は空っぽだったと。幼いわたしにそんなこと気付ける筈もなかった。今思い返してみても、まだ子供のわたしにはわからない。笑顔が似合うひとだった。真剣な顔で魔物よけのまじないを作るときだとか、笑っていない彼女を見るのはそんなタイミングばかりであったように思う。怒るときですら、困ったように眉を寄せる程度で、仕方ないなと笑う顔が思い出された。あのときもずっと、彼女は空の心を持て余していたのだろうか。
 わたしは。
(からっぽじゃない、大丈夫)
 言い聞かせるように、胸の中で呟く。
 恋や愛は、男と女にしか生じないものではない。集落の娘同士、深く心で結ばれて、互いの子とともに家族ぐるみで付き合うことだってあるのだ。
 たとえそれが男と女に分かたれたとしても、森の中で繋がっていると、みんな言っている。
 ちくん。胸を針が刺した。

 

「イルヴァ?」
「……うん?」
 手が止まっていた。わたしは胡座をかくきみの後ろで膝立ちになり、豊かな髪に櫛を通していた。誤魔化すように曖昧に笑う。
「ごめんね、ヘルカ。ちょっと考え事してた」
 じいと、毛先だけがゆるくうねる、ほとんど真っ直ぐな髪を見下ろす。きみが自分で結ぶと、いつも頭の高いところで結ぶ簡単な獣の尾の髪型になるのだけど、それじゃあせっかく綺麗な髪が勿体ない、とわたしや集落のお姉さんたちはこぞって弄りたがったのだ。
 下ろされた髪は、上質な絹の糸のように細くて、柔らかい。雲から紡いだような銀糸から、毛先に向かって、青空のてっぺんにある一番美しいところを掬い取ったような色へと変わっていく。そんなきみの豊かな髪は、わたしたちのいい遊び道具だった。植物油を通しながら、櫛を入れる。
「本当に、きれいな髪……」
 わたしは静かに呟いた。女ばかりの集落だから、髪に気を遣う者もそれなりに多く、互いに髪を編んで遊んだ。けれど、わたし自身はそれほど飾られることが好きではなく、少し長くなれば切ってしまっていた。今も肩口で、少し伸びた金糸がうねっている。髪の半分を持ち上げて編み込んだりはしてもらっていたが、花を飾るにも苦労する程度の長さだ。
「今だけだからな」
 そう言って気分良さげにきみは鼻を鳴らした。今だけ。言葉を認識して、わたしは視線を落とす。視界に広がる青空も、十分にはわたしの心を持ち上げてはくれなかった。
 今だけ。本当にそうなるかは分からないが、きみはもう男になったような心の有り様だった。性の発露は十代の半ばにかけて起こる。十四になったきみはそれこそいつわ分かってもおかしくないし、二つ年下のわたしだって、そろそろ見え始めてもいい頃合いだ。そうやって時がわたしを追い詰めていく。首をふるりと横に振った。ならばなおさら、わたしはきみと居なければならない。
 微笑んで、わたしは編むために房を指先で掬った。指先は姉と似て器用な方だ。
「そういえば、きみは男になると言って憚らないのに、どうして髪を伸ばしているの?」
 わたしは尋ねた。思えば不思議だった。長い髪は、どちらかというと女性の美しさを誇る要素が強いから。ヘルカの腰よりも長く伸びた髪は、集落のこどもの中では随一の長さだった。
「そりゃ、今だけだからに決まってるだろ?」
 こともなげに答えるきみに、わたしは首を傾げながら、細かく指を動かし、脇に用意していた花を一輪、髪へと差し込んだ。
「一生は長いしな。一人になったら、髪だって自分で断つんだぜ。他人に触れてもらえるのなんか今だけじゃん」
 きみの髪は、人を誘うためのモノだったの。
 ああ、それならば、触れたくてたまらないわたしはさして間違ってはいなかったようだ。だって、わたし以外も惹かれるに決まっているのだから。
 房を掬っては、別の房に重ねていく。細やかな編み込みが、長い空の色の髪をより一層鮮やかにしていく。それを見ながら、わたしは手紙を思い出していた。
 とある、まじない。この森のものではなく、姉が出会ったエレゼンの青年が育った里のもの。
 番となった相手と、とこしえに共にいることを願うアミュレット。その里では、それを互いに持つことで一生の伴侶としての存在を示すのだという。姉は恋人とそれを作ったと、跳ねる文字で語っていた。ふたりのエーテルを込めたそれは、絆の証であり、ふたりを魔から護る護符であるという。作り方は……。
「ねぇ……」
 思わず声を掛けてしまってから、黙る。首を振った。わたしは何を考えているんだ。わたしときみはそんなんじゃない。このような想いを抱くのはわたしひとりだ。
「……なんでもない」
「なんだよ、気になるじゃん」
 きみは楽しげにそう言った。きみにとっては、楽しい話じゃないと思うけどな。
 でも、そうだな……。わたしは考え込んだ。ふたりのとこしえに続くえにしを願うものだと知っているのは、わたしだけだ。ある意味都合がいい、と言うべきか。姉はわたしにだけ手紙を寄越した。母の名も宛先に書かず、出立の時にはまだ小さくて思い出も少なかった、わたしにだけ手紙を送るのだ。
「……あのね、姉さんから手紙が届いたんだ」
「カイサ姉から? 元気してるって?」
「うん。元気だって。えっと……色々書いてあったんだけど、魔除けのおまじないを覚えて、作ったって話があってね」
「ふーん? カイサ姉の護符は一級品だったもんな、外でも新しいの覚えてんだ」
「それでね、えっと……」 
 わたしはヘルカの髪を一房掬った。さらさらと細い髪が、指先から逃げて流れていく。
 言うんだ。唇が乾いていた。わたしは顔も見えない位置なのに、わざとらしく笑顔を浮かべた。
「ふたりの髪を編み込んで、互いの無事を祈ってまじないを掛けたら出来上がり。それをふたりで身に着けるんだ。厄災が来ても、互いが互いを守ってくれる」
「へぇ、髪を使ったまじないか。確かに、髪にもエーテルが通ってるもんな」
 きみは微かに振り返った。紅の流し目がわたしを楽しげに見詰めている。わたしの手元から逃げようとする髪を追いながら、わたしはただ笑顔を保つことに気を遣った。
「やりたいんだろ、俺と」
 伝わらぬ筈もなく、わたしはちょっとだけ目を伏せた。
「いいぜ、どうせもうすぐ切ることになる筈なんだ。なら、何かに使えたほうがいいだろ。それにさ」
 きみは勝ち気に笑った。長い耳がふわりと揺れる。
「離れててもお前のこと守れるんなら、それってなんかカッコいいじゃん」
 ほんと、きみはどうしてそういうことが言えちゃうのかなぁ。
 わたしはヘルカの頬に触れて、無理に前を向かせた。赤くなる顔を見られるのがいやだったのだ。そういう照れ隠しも全部分かって、小さく肩を揺らしている。
 ごめんね、純粋な思いじゃなくて。きみに跡を付けたい、ただそれだけのよこしまな思いがわたしに言葉を発させた。わたしもきみを守れたらいいのは本当。でも、その裏側はどろどろと煮詰められた膠のように粘着質で、触れたらもう逃せないのだ。
 編み込んだ毛の束に、革紐を巻き付けて結ぶ。わたしが触れたがるあまりに、きみの髪はこの集落のどんな女性よりも美しいのだ。そんなきみの、編んでいない一房をわたしは手に取った。
「ちょっとだけ、貰うね。出来上がったら、きみにあげる」
「ん。どーぞ、好きなだけ切ってくれよ」
「だめ。ほかの誰にも気付かれないくらいがいいの」
 ナイフの刃を立てる。さく、と微かな抵抗の後に、わたしの手の中に、青空が舞い込んだ。

 

 綾紐の細工をするように、端を結びつけた杭を机に立て、髪を伸ばす。本当に滑らかな髪だ。切ってもそれはなまめかしく、わたしの心を誘う。
 先ほど切った、わたしのそれほど長くない髪をいくらか隣に。指を動かせば、金の糸が青空の色に絡んでいく。どんな編み方をするかまでは書いていなかったから、普段紐を編むときのやり方をする。
 右に、左に。互いに絡み合うように見えるのは髪ばかりだ。本当は、私ばかりが追っているのに。小さく笑みが溢れる。大切に思ってはくれているのだろうけれど、かといってきみに行かないでと縋れるほどの強さはない。そういう決まりなんだから、と言われてしまえばそこでおしまいだ。

 カイサは空っぽだった。わたしは今、空っぽではない。でも、大人になれば空っぽになるのだろう。
 離れたくない。離れても心が通じ合えると信じられるほど賢くはない。わたしにとっての唯一。わたしの青空。居なくなった時の生活が思い描けない。誰だって歳を重ねれば大人になって、物わかりが良くなるはずだ。わたしははたして、大人になれるのだろうか。
 蝋燭の明かりのもとで、わたしは髪を編み続けた。細い髪も絡まれば、美しいリボンのように仕上がる。ふたり分のそれを、切り離し、端がほつれないように膠を塗った。小さな金具を取り付けて、輪っかの形に留めてみる。輪は好き。巡る形だ。
 少し飾りが欲しくて、机の中の小箱を漁った。護符や祭具を作るときに出る端材を閉まってある宝箱があるのだ。細かく仕切られた内側を覗き込めば、クズ石がコロコロと転がっている。その中から二色の石の、とびきり綺麗なところをふたつ、拾い上げる。金具を取り付けてチャームにし、輪の繋ぎ目に並べてみる。
 できた。わたしはおんなじ形のふたつを、炎に透かした。
 きらきらと編み込まれて模様になった金と青が光る。まるで最初からそうなると決まったように並ぶ色たちに、うっとりと目を細めた。仕上げに手の中にふたつを抱え、エーテルを注ぐ。きみを守ってくれますように。ずっと繋がっていると思えますように。
 わたしのことを、忘れてしまいませんように。

 

 出来上がったまじないは、皮の小さな袋に入れて、ヘルカに手渡した。中は見ないでと言う前にきみは開けてしまうから、わたしは耳を垂らした。
 太陽の光に透かして、きみは目を輝かせている。
「すっげー、キレイじゃん!」
「あ、ありがとう……」
「この石、お前の目の色だな!」
 わたしは顔を真っ赤にした。すぐにバレるとは思わなかったのだ。この近隣で取れる薄灰掛かった青い石はありふれたものだ。特別じゃなくて、たまたまだよと、そう言う機会も逃してしまった。
 わたしの胸に提げた小袋の中のまじないには、赤い石が据え付けられ、煌めいている。
「あのね、そんな大層なものじゃないからね? ただ、きみがひとりで行ってしまうなら、わたしも何かあげられたらって、ただそれだけで」
「いいよ、理由は何だって」
 きみは、革袋を紐で括り、腰のベルトに提げた。ぽん、と優しく上から撫でるのを見て、余計に恥ずかしくなってくる。
「離れてても、一緒だからな」

 

 本当は、ふたりで願いを込めるもの。でも、きみの思いは連れていけない。
 一方通行のアミュレットが、静かに瞳を閉じていた。