コトン、と音を立てて皿がガラスのローテーブルに置かれる。ソファが沈み込んだので、今日の調理は終わったらしい。
「んじゃあ、飲みますかぁ!」
「お前既に飲んでるだろう」
「ちょっとだけだよ!」
度数が高い缶チューハイ一本は、果たして一般的にちょっとだけに該当するのだろうか? ハーデスは訝しんだが、まぁいつものことである。早速フォークを手に取り、目の前の料理に取り掛かる。
アゼムは料理が上手い。味覚とセンスが良いのだろう。レシピというものとにらめっこしながら調理しているところはほとんど見たことがなかった。大体味見しながら、適当な目分量で作っている。得意料理は名無しの炒めもの。美味しくしようとするといつの間にか茶色くなるよね、が彼女の持論である。
ただ、そんな彼女は食べたものを勘で再現するのも得意だった。居酒屋で出てきたお通しなど、箸でつまんでよく観察している。特にサッとできるつまみの数々は彼女の中によく蓄積されていて、ハーデスの家で飲むときはそれなりに鮮やかな品がテーブルに出揃う。
頂きます! と手を合わせて、アゼムはこんもりと盛られた薄切りバゲットに手を伸ばす。焦げ目が付いたそれは、カリッと香ばしそうだ。それをつまんだまま、どれにしようかな、と指が迷っている。
今夜は「好きに盛れるおつまみだ!」と宣言してキッチンに籠もっていた。クリームチーズの生ハム巻きや、オイル漬けオリーブと生トマトのディップソース、レバーパテ、玉ねぎとスモークサーモンのマリネなど、洒落た料理がシンプルな白い小皿に盛られて並べられていた。
どれもこれも、ハーデスの元々のキッチン常備品では作れないはずのものばかりだ。男の一人暮らし、最低限の調理器具と調味料しかなかった。包丁、フライパン、鍋。油と料理の基本のさしすせそ。あとは胡椒や薬味、マヨネーズやソース、ケチャップ、出汁の素くらい。それ以外を必要とするなら、最初から調理する選択肢からは弾いていた。手軽に安く腹を満たす以上の意味がないので、それで十分だったのだ。
ところが、アゼムが部屋に入り込むようになってからは、道具も材料も増えに増えた。
パンナイフすら元々はなかった。食パンは元々切れているものしか買わなかったし、パン屋で特別に買うにしても、カットのサービスがある。必要なものではなかった。芋を潰すマッシャーやら、ドレッシング用の小さな泡立て器やら、ハーデスが触らないものがハーデスの一人暮らしの部屋に置かれ過ぎている。
オイスターソースやXO醤、コチュジャンや甜麺醤なんて、ハーデス一人でどうやって使えばいいんだ。瓶詰めピクルスやオリーブも、多くあったって困る。なのに、どうせ使うから、とアゼムはにこにこと笑いながら棚に瓶を並べていくのだ。
アゼムはマリネをバゲットに乗せて食らいついていた。香草の香るマリネ液は、アゼムが調合したものではなく、元々売っているものらしい。出来る手抜きはするべきだ! とのこと。それは否定するものではないが、またひとつボトルがキッチンに増えていく。
「あー、うまい。お酒お酒」
味見をしながら缶を一本開けたが、まだまだアゼムの満足には程遠い。アゼムはウィスキーのボトルを傾け、トクトクとコップに注いだ。……いやお前、それは多い。アゼムは酒を割るのも目分量だ。明らかに通常レシピよりも濃いのだが、美味しそうに飲んでいる。コーラの大きなペットボトルを抱えて赤い蓋を回すと、ぷしゅ、と炭酸が勢いよく抜ける音がした。小脇に抱えて氷の入ったグラスに注げば、炭酸がもこもこと泡立つ。
一旦落ち着いた泡は、スプーンで混ぜられて再度一斉に立ち昇った。口を付けると、アゼムは幸せそうに目を瞑る。
「うま〜……! 生きてるって感じ〜」
ハーデスも模様の付いたグラスにウィスキーを注いだ。高さはきっかり模様の下部まで。炭酸水を満たすのも、上の模様までぴったりと。横目で水面を眺め、ぐるりとスプーンで混ぜる。口を付ければ、いつもと変わらない味だ。
濃すぎるはずのコークハイは、ぐびぐびと喉を鳴らして流し込まれていく。今日は最初から泊まっていくつもりのようだ。つまり、前後不覚になる気満々と言うことである。シャワーも浴びて、酔い潰れる準備は万端だ。酔う前から頭が痛い。なら、酔ってしまったほうがマシだ。
本来、ハーデスは酒がないと生きていけないタイプではないのに、すっかり彼女のせいで飲酒は習慣化されていた。酔うペースも酔い方も慣れたものだ。セーブの仕方は分かっている。適度に、楽しく、相手を介抱できる程度に、だ。
アゼムは一口食べるごとに一口酒を飲む。彼女は快楽主義者で、楽しいことが大好きだ。そして、かなり酒精に強い体質。非日常に至るまでにはそれなりの量が必要で、つまみと酒は順調に彼女の中に消えていく。時間が経つごとに、ぼんやりと目がとろけ、化粧を落とした頬の赤みが増していく。
「そういえばねぇ、話したいことあったんだよ」
「何だ?」
散々好き勝手に飛んでいく話に相槌を打っていたが、突然本題を思い出したらしい。生ハムチーズをひとつ口に放り込み、ハーデスはちらりと横を眺めた。襟ぐりからキャミソールの紐が見えている。
アゼムはぐぬぬ、と顔をしわくちゃにして呻いた。
「うちの可愛い妹が、おじさんに貢がれてるらしくてさぁ」
ハーデスはぴたりと相槌を止めた。何だそれは。
アゼムには四つ年下の妹がいる。名前はヒカリといって、アゼムから毒気を抜いたような素直な女性らしい。ハーデスは直接会ったことはないが、シスコン気味のアゼムがしばしば彼女の名前を口に出すので、動向はやたらと耳に入っていた。
就活ののち、大企業に拾われたものの、閑職部署に回されたらしくアゼムがキレていたのが今年の三月までの話。今年度に入り、人事異動で異例の抜擢を受けたようだ、とニコニコしていたものだが。あの子が最近毎日楽しいらしくて私も嬉しい〜、と言ってたのは、つい先々週の話ではなかったか。
「……それは、貢がせている、と?」
「あの子はそんな子じゃないよ。人に何でもあげたがるくせに、自分が貰うと申し訳なくなるタイプ。それがさぁ、上司だか何だか知らないけど、おかしくない?」
「上司に、貢がれている……?」
「照れた顔で嬉しそうに言うから、私がおかしいのか分からなくなって追求しきれなかったんだよね。ここは一つ、きみの意見が聞きたい」
アゼムは据わった目で、こん、とグラスをテーブルに置いた。両腕を組み、ソファの上であぐらをかく。ハーデスはソファの背もたれに掛けてあったひざ掛けを足元に被せてやった。ショートパンツから覗く太ももがだいぶ際どかった。
「その上司、気に入った部下の仕事道具を揃えてあげるのが好きなんだって。ビジネス用のシャツとか、スーツとか。高いペンとか、手帳とか」
「……まぁ、立場によっては金を余らせているやつも居るだろう。そこまで目くじらを立てる話ではないんじゃないか?」
「そう思うじゃん? でもさ、私、最初に見つけたのがね……」
アゼムは語った。
今日は妹の家でワイン開けちゃお! とワインボトルの入った重いトートバッグを担ぎ、彼女の住むマンションを訪ねた。妹も姉のことはかなり慕っているので、何の抵抗もなく招き入れた。何かを隠すような意識はまるでないらしい。
おじゃましまーす、と玄関に入って一歩目だ。
靴箱の上。忘れ物などしないように、鍵を掛けるフックと一緒にホワイトボードが置かれたそこに、違和感を抱いた。違和感というか、異質であり、間違い探しなら難易度は初級だったろう。
「男物の、クッソ高そうな香水のボトルだよ……?」
当たり前のように鎮座したそれに、アゼムは戸惑って妹を呼んだ。黒がベースの瓶は、年頃の女性らしく仕上げられた妹の部屋には似合わない。流石に一目で値段など判定できないが、蓋の彫刻が細やかで、高級感はひしひしと伝わってくる。
これ何? 訊ねたアゼムに、ヒカリは不思議そうに首を傾げた。
「上司の人がくれたの。いい匂いだよ。嗅ぐ?」
お言葉に甘えて、蓋を取って手首に一吹き。香水の良し悪しはよくわからないが、わからないなりにいい匂いだとは思った。上品で、深みがあって、なんというか、オーダーメイドのスーツを着たおじさんからしていてほしい香りである。
ヒカリを待たせて、アゼムは手元のスマホで香水の表に書いてあるアルファベットを検索窓に打ち込んだ。最近は検索にかけるだけで、大手通販サイトでの価格が一ページ目に出てくる。アゼムはうわ、と声を上げた。大人から子供まで大人気のゲーム機、その最新モデルが買える値段である。
知ってか知らずか、ヒカリは無邪気に笑った。ハンカチとかに染み込ませて会社に持ってってるの、と。
アゼムはハーデスに向かい、ぶんぶんと首を振ったあと叫んだ。
「上司から香水は絶対におかしいよね?」
「仕事で使うもの、という建前はどこにいったんだ」
「安くても変だよ。付けさせて変な営業に行かせる気じゃないだろうな。うちの妹には彼氏すらいたことないんだぞ!」
アゼムはひざ掛け越しに太ももをスパァン! と叩いた。怒り心頭だ。
「私が疑ってると、本当に困った顔で『絶対変な意味じゃないから大丈夫! すごく良い人なの!』って必死に庇うんだよ。話を聞いたら、前の部署から助けてくれたのもそのおじさんらしくてさ……。そりゃ、ヒカリは庇うに決まってるんだけど」
「……最初から目を付けられていたのか?」
ハーデスは呟いた。アゼムが勢いよく振り返る。目をカッと見開いていた。わなわなと唇が震える。ぎゅう、とひざ掛けに両手の爪が食い込んだ。
「そのつもりで、自分の手元に呼んで、貢いで、餌付けして……? し、信じられない! 爛れてる!」
「仕事道具までならセーフだったが、欲が抑えられなくなったか……」
「『みんな貰ってるから大丈夫!』とかあの子言ってたけど、みんなやってるから大丈夫は大体大丈夫じゃないんだよああもう電話する! きみからも言ってやってくれ!」
「おい、他人の妹に何言えって言うんだ自分で何とかしろ!」
止める間もなく、アゼムは放置していた携帯のロックを解除し、流れるような手付きで通話アプリを起動した。ぽん、と指でタッチして水平に構える。テロテロテロン、と気の抜ける呼び出し音が大きく響いた。ハーデスも参加できるよう、ご丁寧にスピーカーにしたらしい。要らぬ気遣いである。
『……もしもし? お姉ちゃん? 突然どうしたの?』
「ヒカリ、無事? 今どこにいるの?」
『お姉ちゃん、酔ってるでしょ。ウチだよ』
苦笑したその声は、アゼムととてもそっくりだった。話し方にもう少し丸みというか、甘えのようなものがあって、妹という生き物であると感じさせる。
アゼムは両手で掲げた携帯に向かって呻いた。
「ねぇ、この間の何でも買ってくれるおじさんのことだけど」
『もう、お姉ちゃんたらまだ疑ってるの? あの人はみんなに買ってあげてるんだよ。あと何でもじゃない。多分趣味だから否定しないであげて?』
「お姉ちゃんね、やっぱりそれ、下心があると思う」
ヒカリがくすくすとおかしそうに笑う。アゼムは畳み掛けた。
「マフラーや手袋まではまだ審議。でもね、香水は、絶対におかしい! いい? ヒカリ。男はオオカミなんだよ。どんなに良い人そうに見えても、それはきみを食い物にするための撒き餌なんだ。特にその人、お金持ちのおじさんなんでしょ? 若い女の子を食べられるならその程度の出費は多分痛くない。絶対に二人きりでお酒飲みに行ったりしちゃ駄目だよ。それって、向こうからしたらオッケーのサインだと思われちゃうんだから!」
ハーデスは驚いた。この女、妹のことに関してだけはマトモな考え方を出来るようになるのか。ハーデスにとって兄はアレであるので、大切に心配する気持ちは全く分からないが、普通の兄弟姉妹とは、そういうものなのだろうか?
と、感慨深く思うと同時に抱く感想がある。
(お前が言うな!!)
熱心に妹に向かって語りかけるアゼムの姿を見る。
背中を丸め、夢中な彼女の服装。胸元にパッドの入ったキャミソールに、ティーシャツ、カーディガン、ショートパンツ。警戒心の欠片もない。その上、シャツとカーディガンについてはアゼムのものではない。ハーデスから無理矢理奪った。オーバーサイズなせいで鎖骨は出るし、袖は長く、いちいち捲くりあげて作業している。
アゼムがハーデスの家に泊まるのは今に始まったことではない。が、断固として着替えを置くのは拒んでいた。ここはお前の家じゃない。男の家に下着を置くな。故に泊まりこむときは鞄を膨らませてやって来ていたのだが……。
ある日、アゼムが手元を狂わせて赤ワインを盛大にこぼした。もったいない、と半泣きのアゼムの胸元から腹にかけて赤いシミが出来ていて、致し方なくハーデスは服の上を貸した。
しかし、一度許せばそれは侵略完了とするのがアゼムのやり口だった。次に泊まりに来た日、シャワー借りるよ! と言ったアゼムがハーデスの寝室に入ろうとするので、何をしているんだと止めた。アゼムはニヤァ、と笑った。
「一度貸してくれたんだから二度目も三度目も同じじゃん? シャツだけ貸してよ! 秋冬は着替えも嵩張るの! ねぇお願い!」
止めるハーデスを振り切り、アゼムはハーデスの服が収まる箪笥に飛び付いた。引き出しを開け、これ可愛い! と勝手に漁る姿はまさに空き巣だった。
せめてこちらに提示させろ、と中の透けない濃い色のシャツの中から選ばせると、アゼムはご満悦でお気に入りを登録した。ハーデスの着回しする服は、着実に減っている。
ハーデスは白い目でアゼムを見た。二人きりで酒を飲んだら、という話なら、大学の時には既に許可を出されていたことになるのだが? お持ち帰り以前に押しかけてきて、「お互いに限界を知ろう」と缶をひたすらに机の端から並べたのをこいつは覚えていないのだろうか?
アゼムはハーデスの視線に、自信たっぷりの顔で頷いた。違う違う、発言には同意しているが、お前には呆れている。
『お姉ちゃんの考え過ぎだよ』
「いいや、今回は有識者もそうだそうだと言っています」
『有識者って誰?』
「ハーデス! ほら、ハーデスも言ってやって!」
ハーデスは頭を抱えた。男はオオカミだと私に言わせてどうするんだ。新手の踏み絵なのか? ヒカリのためとはいえ、改めて宣言するのはプライドとして避けたい。
『……ハーデスさん? ……ねぇお姉ちゃん、そこお店とかじゃないよね。お姉ちゃん、今ハーデスさんと居るの? そこどこ?』
「ハーデスの家だけど?」
しれっと答えたアゼムに、香水のことを打ち明けたヒカリも同じトーンだったのだろうとハーデスは思った。隠すべきものだと一切考えなかったのだ。後ろめたいことなど何もない。
言葉を聞いたヒカリが息を呑むのに、風向きが変わるのを感じた。
『……お姉ちゃん、あのねぇ』
少しの間のあと、ヒカリは切り出した。
『私、お姉ちゃんにだけは言われたくない!』
「ひ、ヒカリ!?」
アゼムが身を反らす。ヒカリの声は若干音割れしていた。
『お姉ちゃん、ハーデスさんと二人きりで飲んでるじゃん! 飲んでるどころか家にまで上がりこんで、しょっちゅう寝泊まりしてる! 危機意識が欠片もないのはお姉ちゃんの方だよ! 酔った勢いで何かされたらとか、寝てる間に何かあったらとか考えたこと一回もないの!?』
本当にそのとおりである。妹もアゼムと似たクチかと思いきや、意外と常識はあるらしい。……これも、姉に対してのみかもしれないが。
アゼムはうろたえている。珍しい姿だ。
「ひかりぃ、違うよ、ハーデスは親友で本当に何もないの。絶対に何もしてこないの。世の中にはそういう男女の関係性もありましてだな」
『じゃあ私とあの人のもそれだから!』
「お姉ちゃんの話を聞いて! お願いだから、二人きりでお酒の席に誘われたりしたら断って。ね? ね? お姉ちゃんおじさんにいいようにされるヒカリなんか見たくないんだよぉ!」
『あの人が私みたいな子に手を出すわけないじゃん! 残念でした、ランチしか行ってません! お酒のお誘いはゼロです! お姉ちゃん、切るね。バイバイ! おやすみ!』
「待って! ひかりぃ……!」
テロロン、と下がる音ともに通話が切れる。アゼムは携帯をソファの座面に投げ捨て、両手で顔を覆った。無言のアゼムに、ハーデスは黙って氷の溶けたハイボールを飲んだ。
ぱた、と両手が脚に落ちる。しばし放心していたアゼムは、突然勢いよくハーデスの部屋着の襟元を掴んだ。
「ねぇ、私のこと、襲いたいとか一度も思ったことないよね?」
本物の踏み絵が来たぞ。ハーデスは、上目遣いで瞳を潤ませ、頬を赤らめた状態で睨むアゼムに何と答えてやるべきか迷った。
もしもこのまま、彼女の手首を掴み返して、ソファの座面に押し倒し、喉笛に噛み付いてやったとしたら、彼女はどんな感想を抱くのだろうか。ハーデスのことをようやく男であると思い出すだろうか。
けれど、それは魅力的ではなかった。
「もし、そうだと言ったら?」
アゼムは唇を震わせ、目を伏せた。
「すごいショックで、泣いちゃう」
ハーデスは溜め息を吐き、グラスを持っていない手でアゼムの頭をぽんと撫でた。ぼんやりと思う。
自宅に、使わない道具と使いきれない食品だけが残されてしまうのは避けたい。
真っ先に浮かんだ考えに、皮肉な笑みを浮かべた。ああそうだとも。これは、ただの逃げで言い訳だ。
けれど、応える気の全くない彼女を永遠に繋ぎ留めておきたいのは、ケダモノの心を覆い隠すほどの、強い願いに違いないのである。
