「実際、皇帝ってどうなの?」
ヒカリは最初、その発言が自分に向けられたものだと気が付かなかった。煮込みハンバーグを箸で切り、断面をソースに浸すのに忙しかったし、皇帝という単語に耳馴染みがなさすぎたのだ。
無事ソースを纏わせたハンバーグを一旦白米でバウンドさせ、口に運ぶ。酸味の効いた濃厚なソースは、パンもいいが白米ともよく合う。次いで一口分の白米を箸に乗せ、開いた口に押し込もうとしたときに「ねぇ、ヒカリ!」と言われて、驚いて視線を向ける。手を止めず白米も詰め込んだ口の中に、喋れる余裕などない。
同期の友人は小さく笑った。
「いいよ、飲み込んでからで」
ヒカリはコクコクと頷いて、咀嚼に勤しんだ。自社ビルに勤める社員の半数以上が利用するという社員食堂は、清潔で明るく最先端システムが導入されたフロアが自慢だ。味も栄養も満点で、もちろんヒカリも入社以来大変お世話になっている。その洗練された佇まいは、何度かテレビ取材も来たことがあるほどらしい。
社員個人から見ても、腹をお手頃な価格で満たせるし、普段は配属がバラバラな同期たちとの情報交換の場でもある。忙しい日々の業務の中で、昼食の時間はあらゆる意味で重要な「元気の補給源」なのだ。
しかし、皇帝? ヒカリはごくんと喉を鳴らして食事を飲み込んだ。
ヒカリが働いているのは、全国的にも知名度の高い総合商社である。食料、繊維、資源、エネルギーなど、手掛ける事業は非常に多い。だがしかし、民間企業の枠から外れるものではない。
皇帝。帝国と呼ばれる国の王様。今や、歴史の授業でしか聞くことがない単語だ。実際も何もない。ごく普通の会社員であるヒカリが提供できる知識などあるはずがない。
首を傾げて疑問符を頭の上に並べまくるヒカリを見て、質問の主である法務部所属の友人は目を瞬いた。
「皇帝よ、皇帝」
「思い当たる節が……」
「もしかしてヒカリ、知らないの?」
アパレル部門の友人が二人を眺めて口を開く。サラダをつついていたフォークをヒカリに向け、隣の友人に手首を押さえられた。ヒカリはお茶を飲みながら視線を返す。
「あなたの部署、帝国って呼ばれてるんだよ」
「帝国」
ヒカリはぽかんと口を開けた。初耳だ。帝国って、あんまりいい単語のイメージがないのだが。歴史上でも、ゲームや漫画などの創作の世界でも、武力によって領土を大きく広げ、栄華を誇ったのち、落日に崩壊していくと、まぁそんな役回りが多い。
そんなイメージを受けるものなのかな、とヒカリは首をひねる。ヒカリにとって、入社二年目にして、二つ目の配属先が現在の部署だ。
本社の中でも事業部の統括部署にあたる部門で、各事業部への上層部との意思疎通などを図る兼ね合いもあり、経験豊富で優秀な社員が多い。仕事中は少しぴり付いた気配があるけれど、休憩時間や就業後の姿に愚痴をこぼしつつ飲み会に誘い合う様は、どこにでもある風景だろう。
最初の配属先に苦い記憶のあるヒカリにとって、働きがいがあるし快適な職場環境だった。帝国というイメージとは程遠いと考えている。帝国ってもっとこう、冷たくて、恐ろしくて、血も涙もなさそうな感じでは?
「なんで、帝国……?」
疑問を口にしたヒカリに、友人三人が顔を見合わせた。
「中に居るとわからないもの?」
「そうなのかも」
「ヒカリ、社内のそういう情報に疎そうだしねぇ」
最後に口にしたのは受付業務に回されている、特に情報通な友人だ。彼女は綺麗に流した前髪をちょいちょいと弄った。
「部長よ、部長。エメトセルク部長。元々あそこの部署って社内への影響力が強いから怖がられてたらしいんだけど、あの人が部長になってから、部内の士気が恐ろしく上がって、各事業部にガンガンメス入れるようになって……。勢力を広げ、理詰めで無駄を殺していく様が『帝国』さながら。つまり『皇帝エメトセルク』ってわけ」
「なるほど、帝国、皇帝……。へぇ〜……」
「で、あなたは『皇帝陛下のお気に入り』ね」
「うぇ!?」
驚いたヒカリに、他の二人がうんうんと頷く。二人とも食事を進めつつ、興味津々といった様子でヒカリを真っ直ぐに見つめている。
「みんな噂してるのよ。『あの皇帝』が、新人の面倒見てるなんて、って。一部じゃどう誑し込んだんだ なんてさ。そんなこと出来るタイプじゃないのにねぇ」
「た、たらしこむって……あの人そんな人じゃない!」
「そうなの? でも、わたし達、こわーい顔した皇帝しか知らないから、ね? だから聞いたの」
「気になるなぁ」
ニッコリ。美人の笑みは迫力がある。
「ねぇヒカリ、実際の皇帝って、どんな人?」
□■□
彼との出会いを説明するには、まずヒカリの来歴を語らねばなるまい。
ヒカリはごく一般的な家庭に生まれた、ごく一般的な女の子であった。両親に、姉がひとり。裕福でも貧しくもない中流家庭に育ち、中高は公立校、大学は自分の手に届く限りの最高偏差値の学校に入ったが、誰もが聞いただけで褒め称えるような名門校ではない。バイトをし、ボランティアサークルで精力的に活動して、友人と日々を楽しむごく普通の女子大生をした。
そんなヒカリであるから、もちろん就活も、ごく普通のものだった。リクルートスーツを身に纏い、合同説明会に行き、エントリーシートを書いて書いて書きまくって、祈りに祈られた。どこでもいい、拾ってくれ、まともな社会人になりたいんだ……! 祈りたいのはこちらである。
そうやって数え切れないほどの社に「私には御社だけなんです」と言ってきたわけで、こうなるともう申し込みも気軽になってくる。大手商社の説明会に行ったのも、いわば記念受験であった。受かるわけない。でも、万が一通るなら、それは儲けものである。
どんどん祈られ、自分の価値がわからなくなっていたヒカリだったが、ひとつ支えがあった。何をどうしたのか、書類選考が何故か通過し、一次面接、二次面接、と「この緊張感は他社で役立つだろう」と心ここにあらず、な状態で受け答えしていた記念受験先の一社が、通してくれていたのである。
運だけで通っているだろう、とヒカリは確信していた。飛び抜けて優れた才能があるとは思えない。サークル活動の賜物で、多少初対面の人とも喋れるコミュニケーション能力と奉仕精神ならあるが、海外留学だの、有力企業へのインターン経験だの、英語能力試験が何点以上だの、キラキラしい活動記録はない。
段々面白くなってきてしまった。絶対に落とされるのは分かっているのだが、いつか「あの社の何次選考まで残ってたのよ……」、と思い出話として誇れるかもしれない。どこまで行けるものか。運試しという遊びの余地は、就活で擦り減るヒカリにとって、一筋の光だったのである。
そして結局、最終選考まで残ってしまった。本社の巨大なビルに圧倒されつつやってきたヒカリは、頭の中で志望動機と問答集を繰り返しながら入室した。
視線が突き刺さる。こう来たら、こう。名前と志望動機を告げたヒカリは、椅子でピンと背筋を伸ばし、面接官たちを見据えた。
さて、といつも通り、正面に居た男性が話しだそうとしたとき、急に手を上げたのは、端の席に座っていた、薄い色のスーツが似合う美しい淑女だった。
「私から、良いでしょうか?」
「えっ、ですが……」
淑女以外は少し戸惑った様子だった。彼女は穏やかな微笑みを浮かべて他の面接官たちを眺めた。彼らは押し黙り、淑女が笑みを深める。
「では、よろしくお願いしますね。ヒカリさん。早速なのですが……」
淑女は手元の資料を全く見ずに、ヒカリの瞳を見つめた。見つめ返した淑女の青い瞳は、どこか楽しげにキラキラと光っている。
「私、警察の感謝状を受け取っているあなたを見たことがある気がします」
ヒカリは驚いた。中学生の時の話で、書くのは恥ずかしくて資料のどこにも書かなかった。十年近く前の話だし、せいぜい新聞の地域欄に載った程度だ。
はい……、とヒカリは顔を赤らめた。いけない、声が小さくなっている。淑女は微笑んでいる。
「玄関先で老婆からお金を受け取ろうとしていた、詐欺グループの受け子を体術で伸したとか……あなた、相当動けますね?」
「い、いいえッ! 姉が武術が出来る人で、ちょっと手ほどきを受けていただけでして! 本当にたまたまだったんです!」
「あら、そうかしら? 咄嗟に出る動きは、日々の鍛錬の賜物ですよ。そうでなくとも、自分より大きな男性に立ち向かうなんて、中々出来るものではありません」
「身体が、勝手に動いていたというか……、警察の方にも怒られましたし……」
「ふふふ、彼らは怒るしかないのでしょうね」
それからも淑女は、まるで友達のように親しげに、ヒカリ自身を見つめながら質問を投げかけるものだから、ヒカリも段々嬉しくなって、どんどん彼女しか見えなくなっていった。こう来たら、こう。想定していたのは会社に対する愛や社会で役立つ経験、知識量であって、決して姉と共に山で遭難した時のサバイバル術の話ではない。
ヒカリと淑女は話し込んだ。ここが面接会場であることはすっかり忘れていた。場所がカフェなどであれば、メッセージアプリの連絡先を交換していたかもしれない。
「えー……、ヴェーネス様、そろそろ、お時間ですので……」
引きつった顔をした男性が恐る恐る、といった様子で言葉を発したのに、ヒカリは一気に青ざめた。ヴェーネスと呼ばれた彼女は、あら、と口元を押さえて少女のように目を丸くした。
男性面接官が書類を整えながら扉を見る。
「では、この辺で……」
帰宅したヒカリは、実家に遊びに来ていた姉の顔を見て、涙が溢れてきてしまって、ぼろぼろと泣いた。姉はよく分からない顔をしつつもヒカリの背をそっと抱き「ステーキハウスに行こう……」と言った。
落ちた。絶対に落ちた。最初から受かるわけなかったのだが、それはそれとして、せっかく最終選考まで残ったのなら、ヒカリはやれることをやるべきだったのだ。なのに、茶飲み友達を増やすような真似をして……! 最低限の努力もせずに、自ら機会をドブに捨てたに違いない。悔しかった。悲しかった。
なお、姉の奢りで食べたサーロインは美味しかった。
肉に癒やされ、心機一転、ヒカリは就活に勤しんだ。運試しはもう終わり。実力勝負だ。そう覚悟を決め、千切っては投げ、千切っては投げ。選考を勝ち抜いていた頃、手紙が届いた。
商社の内定通知だった。
これを奇跡と言うほかにあるだろうか。ヒカリは数枚のコピー用紙を何度も裏返し、光に透かして確認した。残念ながらその真贋を判断する基準が分からない。けれど、封筒にも手紙本文にも、それっぽく住所や文言が書かれているのである。
どうして……? 思うのはそれだけであった。よほどあのヴェーネスという女性は人事の偉い人なのだろうか……? 本当に採用されたというなら、これはコネ入社ということ……? あの人と気が合ったのはおそらく事実だけれど、それがまさか合否にまで影響するなんて、信じられない。
電話すると、姉はとても大喜びしてくれた。
ヒカリはこわごわと伝えた。私には不釣り合いなくらいの格付けの、素晴らしい会社だと思う。超一流企業だ。もしも入社できたなら、ものすごく嬉しい。でも、コネで入って、取り立てて技能のない自分がやっていけるのか不安だ。
四年先行して社会人をしていた姉は、カラッとした声で答えた。
「実際に役に立てる人間かどうかは、その場になってみないと分からないよ。コネだったとして、入れたのは向こうなんだからヒカリが責任感じることない。やれるだけのことをやってみて、駄目だったら辞めちゃえば良いじゃん。場当たりで他人のためのお役立ちするの、きみ、大好きでしょ?」
そうだ。ヒカリは元々、人の役に立つのが好きだ。ボランティアサークルに入ったのも、それが理由。技能はないが、懸命さだけはある。一生懸命なだけで社会にどこまで通用するのは分からないが、それでも、せっかく掴んだチャンスなら、やってみたい。姉の後押しもあり、ヒカリは入社を決めた。
ずっとふわふわした心地だった。内定式、入社前研修、入社式、新入社員研修。行事を迎えるたびに、周囲の同い年の人たちはとても優秀そうだというのに、何故私はここに居るんだろう、と思うなどした。研修センターや本社はどこを見てもピカピカで、雲の上に居るみたいに感じる。しかし、ヒカリの首に下げたIDカードは確かに入館ゲートを通れるし、入室も可能とするのだ。不思議だった。
とはいえ、不安は多かったものの、元来ヒカリは姉に似て楽天的である。一人暮らしの新生活が始まり、家に帰って風呂に入り、布団に入るたびに、少しずつ、何とかやっていけそうな気持ちにもなり始めていた。
優秀そうで格が違い、友達になれるか怖い、と思っていた同期たちも、案外普通の人間だったのだ。新しい環境で不安なのは誰もが同じであったらしい。グループワークをはじめとして、交流が持てそうな機会があればヒカリは同期に話しかけた。後輩には「あなたって人たらしなんだから!」とどこか憤慨した様子で言われていたヒカリである。ある種、コミュニケーション能力は、ヒカリの特殊技能であったのかもしれない。
新入社員研修が終わり、配属先が発表された。仲良くなった同期たちと健闘を称え合い、それぞれの場所で頑張ろう! と励まし合って、新たな場所へと向かった。
ヒカリの配属先は、人事部付きの一部門であった。大企業ともなれば総務関連の部署も幅広い。ヒカリの所属もそういった類の部署であったらしい。明確な「これ」といった仕事内容があるわけではなく、社内の活動を円滑にするために、雑務をこなすお助け部隊という印象が強かった。
もとより、人のために気を回すのは大好きだ。同期の中でそこに配属されたのはヒカリだけだったが、ヒカリは大いに張り切った。よろしくお願いします! と元気よく声を張ったヒカリに、まばらな拍手が返された。
ヒカリは日々、仕事を頑張った。「全く目立たないが、誰かはやるべき」業務はそこら中にあった。ゴミ出しや社内便の配達、何年も放置された倉庫内の整理。積み上がった資料のラベリング。細々と無心で働くのは嫌いじゃない。懸命にヒカリは動き続けた。
けれど、気付いたのはいつだっただろう。段々溜まっていた仕事が消化され、新たに発見できる部分が減っていくうちに、違和感を抱いた。
この部署、なんだか、労働意欲が、妙に低い……?
先輩たちの顔を見る余裕が出てきたからだろうか。そんな感想を持ってしまったヒカリは、ぶんぶんと首を横に振った。失礼過ぎるぞ、私。ヒカリがやたらめったら奉仕精神があるだけで、普通はこんなものなのかもしれない。
部署内で気付ける仕事が減ってきて、上司からも「やることないから待機」と言われることが増えてきたヒカリは、暇を持て余してしまうようになった。ほかのフロアを見ると、皆忙しそうに働いているのに。絶対的な仕事量が、この部署、少ない。
月給は固定で貰えるのだから良いじゃない! と、開き直れる人間だったら楽だったのかもしれないが、ヒカリの場合、不釣り合いな報酬は申し訳なく思う性質であった。加えて、動き回るのが好きな生き物でもあり、のんびり仕事待ちなどそわそわしてしまう。何もしないこの一分一秒、無駄すぎる。
ヒカリは新天地を外に求めた。メール便の配送で各フロアは行き来している。仕事のない自分のデスクには、座っていなくても問題が起きることは全くなかった。「他の部署に行ってきます!」と上司に報告して、ヒカリは仕事を探し始めた。
どこもかしこも、人手が足りていなかったようで、所属していない他人でもできる雑務はいくらでも転がっていた。研修で縁を持った同期たちがそれぞれのフロアに居たこともあり「気が利くんですよ彼女!」と紹介を受けて、満足が行くだけの業務量を集めることが出来るようになって。遊軍的に雑務をこなすヒカリは、いつの間にか「おつかいのエキスパート」と呼ばれるようになっていた。
誰にでも出来る仕事をしているだけ。それでも、充足感は大きく得られた。「ありがとう」と声を掛けられる、それだけで頑張ろう! と気合を入れ直すことができる。人のためになる仕事ができている。それが嬉しくてたまらなかった。
だが、元の部署の人にとって、それは面白くなかったらしい。
「やらなくていい仕事して、何になるの?」
「君が外に出るせいで、無駄な仕事がウチに来るようになっちゃったんだよねぇ」
仕事が来るのは、迷惑であるらしかった。他部門でも手伝える仕事だと気付いた各部署が、人手を求めるようになったらしく。確かに、ヒカリは独断でやっていたわけで、歓迎される行為ではなかったのだろう。他の面々にまで業務が流れ込むと想像しなかったヒカリが悪い。
段々と、デスクから離れる回数は減った。出社するなり、机の上に今日の仕事が積まれるようになったから。先輩たちが、他部署から要請された仕事だ。元はと言えば、ヒカリが発端である。なら、ヒカリがこなすのは筋と言えた。
「ここに配属された時点で、期待なんかされてないのよ」
お手洗いに立ったとき、先輩の一人に言われた言葉だ。なんとなく、そんな気はしていた。
ここは、いわゆる窓際部署というやつだ。他の部署であまり仕事が出来なかった人間の寄せ集め、ってところだろうか。働きアリは、いくら働かないアリを排除しても、何割かはサボり始めるのだという。どんな大企業でも、……いや、大企業だからこそ、一定数、そういった面々は生まれるのかもしれない。
ヒカリの仕事は、やって当たり前のものだった。やってもやっても、終わらなくなってきた。パーティションの向こうで「今回も助かったよ」と先輩が誰かに言われている声が聞こえた。実際に資料をまとめているのはヒカリなのだが、印刷されたデータに銘などは刻まれない。間接的にだが、誰かの役に立っている。これは、誰かがやるべき仕事なのだから。
残業しても、終わらないことが多くなった。どうやら仕事の出来は良いようで、評判が評判を呼んでいたようだ。増える仕事量に対して、実際の稼働人数は変わっていない。「自分の仕事は終わっているので」、定時の後もデスクに残りたがるのは稀有だ。
なんだか寒いなあ、と思い、ヒカリは膝掛けをかけ直した。全館空調であるから、暖房は効いている。けれど、人の気配というものには、それだけで体温があるような気がした。パーティションで区切られた内側に、一人ぼっち。寒々しかった。自販機で買った缶コーヒーは、書類から遠ざけたドリンクホルダーの中で冷えきっていた。
自分が招いた事態であろう。ちゃんと部署内で与えられた仕事だけしていれば、このようなことにはならなかったはずだ。ぱちぱちとキーボードを叩く音だけが響いている。少し画面を見る目が霞んで、ヒカリは引き出しの中から目薬を取り出した。爽快感の強いそれを差し、ぱちぱちと瞬きをする。じわ、と滲んだ景色がクリアになった。
もう少し。もう少し、頑張ろう。流れてきた液体を、ボックスから引き抜いたティッシュで吸い取り、ゴミ箱に丸めて放り込む。すっかり凝った首を回し、再度キーボードに手を乗せた時だ。
「お前、一人なのか?」
ヒカリは十センチくらい椅子から飛び上がったかもしれない。急に響いたテノールの声に、慌てて振り返った。全く気配を感じなかったのだが、フロアの入り口で男が一人、腕を組んでスチールロッカーにもたれていた。
どこの、誰だろう。いつの間にか居た男を、ヒカリはじっと見つめた。四十代くらいの、おじさんだ。なんだか仕立てのいいスーツを着ていて、それなりに地位の有りそうな、気品のある佇まいをしている。
「あ、あの……新しいご依頼ですか?」
おずおずと訊ねる。男は片眉を器用に上げた。どこか演技がかった仕草だった。
この部署を訪ねてくるのは、外注に出しに来る人々であって、ある程度部内でも末端の社員が多い。若い顔ばかり見ていたものだから、中年男性という時点でかなり珍しい。
彼は手をひらひらと振った。
「お前たちに出せるような仕事は扱っていないものでな。残念ながら、お前の残業代は増やせないようだ」
「あ、そ、そうですか……」
キーを打ち込む作業に戻っていいものか、ヒカリは戸惑った。見た目通り、重要な仕事を抱えている立場の人間らしい。そんな人が、何のためにこんな部署に。立場のある人なら、無視して仕事するのは、失礼に当たるだろう。
男はヒカリをじっと観察していた。その検分するような、不躾な視線にたじろぐ。気難しそうな人だ。眉がきゅっと寄って、釣り上がっていて。金色の瞳は、猛禽のような鋭さがある。対峙したことのないタイプだ。目が合うと同時に、蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなる。
スチールロッカーから、彼が背を離した。柔らかな消音素材の床材を、ピカピカの革靴が踏みしめながら近付いてくる。ヒカリは軽くキャスター付きの椅子を転がして距離を取ったが、所詮デスクの中に収まる話だ。逃げ場もなく、距離を詰められる。
「上司は?」
「えっ、か、帰られました!」
「お前が残っているのに?」
「いえ、あの、私だけ仕事がまだあったので!」
「なぜお前にだけ仕事が残っている?」
「わ、私が請けた仕事が終わってないからです!」
矢継ぎ早に掛けられる質問に、まるで尋問だ、とヒカリは震えた。
「お前、今年の新人だな?」
「は、はい、そうです、が」
「新人に仕事を振って他は帰ったと?」
「こういうのは、下っ端の仕事ですから!」
「業務の一極集中はマネジメントの問題だな」
「え、えっと、私のせいで来ちゃった仕事なので、私がやる責任があります!」
「お前が何かミスをして増やした仕事なのか?」
「ミスというか、え、えーっと、……そ、そうですね! 巡り巡ってそうです!」
根本的な話をするなら、ヒカリの判断ミスだ。間違いない。
ヒカリの背に冷や汗が流れた。一言発する度に、温度が下がっている気がする。男の目が、剣呑になっていく。ただそれは、ヒカリ本人への敵意というよりは、部内全体への印象が悪くなっているような、そんな気配で。まずい、まずい。ヒカリは焦って両手を顔の前で振った。
「私が悪くてやってる仕事なので、先輩や課長たちに責任はありません!」
「……お前、このままでいいと思っているのか?」
静かな言葉に、少し、ぎくりとした。ヒカリは言葉に詰まり、視線を漂わせた。
連日残業をしている。早出もしている。睡眠時間が少なくなり、自炊をする元気もないから、最近はもっぱら値引きされた惣菜を並べて夕食を摂っている。お風呂もうっかり寝落ちするので、長く入らないようにしていた。
趣味だった映画鑑賞や舞台観劇にはしばらく行けていないし、今季のドラマもレコーダーの中に溜まり続けている。本や漫画を読む余裕もなく、通勤電車の中でも吊り革に掴まったまま黙って目を閉じていた。休日も疲れていて、睡眠に充てることが多い。
よく考えれば、これは、無理をしている、という状況なのではないか。このままでいいかと問われれば、よくない、と答えたい。
答えたいが、答えて、どうするのだろう。
「……おつかいのエキスパート、とやらが居るらしいな」
ヒカリは、力なく笑った。先輩たちに囁かれた。流石、おつかいのエキスパートは違うね、と。
「あはは、私ですね、それ……」
やっていることは同じなのに、どうしてこんなに突き刺さるのだろう。
男が胸の前で腕を組む。高い位置から見下されて、ヒカリはゆっくりと視線を上げた。金色の瞳に真っ直ぐ貫かれて、眩しかった。
「お前、ここに骨を埋めたいか?」
唇を結んで、言葉を探す。ヒカリは眉を寄せる。
「社内の方なら、ここに配属された意味が分かるのでは?」
男は溜め息を吐き、やれやれと手を肩の位置に上げた。
「私は、お前に問うたのだが。お前は、ここに居たいか? 誰にでも出来るはずの仕事を全て押し付けられて、使い潰されたいか?」
ぐっ、と喉が鳴る。男は鼻で笑った。
「それとも、どうしても残業代を稼ぎたいとでも言うのかね? 無駄に残業代を払う羽目になるのは弊社にとって不幸なことだと思うのだが、お前は自分の我が儘で稼ぐだけ稼ぎたいと、そういうわけか」
「そ、それは、違います」
貯金は確かに増えている。でも、使う時間がないだけだった。残業はしたくてしている訳じゃない。
「……私、は。人の役に立つのが、好きなんです。ここにいて、仕事が来るのは、私が働いて誰かが楽になることだから。辛くなんて、ありません」
「お前は鏡を見たことがないらしい」
「あ、ありますよそれくらい!」
むっと顔を歪めるヒカリに、男は目を細めた。
「やりがい搾取という言葉が私は好きではない。労力を使い、成果を出したなら、相応しい報酬と名声があって然るべきだ。今のお前にそれは与えられているか?」
かちん、と来た。やりがいだけがヒカリの支えだ。
「与えられていないとして、どうすれば良いって言うんですか!」
ヒカリは立ち上がり、男を睨んだ。男はヒカリに比べて随分背が高く、均整の取れた身体は上等なスーツに相応しい厚みを持たせていたが、いざというときに相手の大きさなど関係はない。
「人事か誰かに訴えれば良いんですか? 無理です。私は人事に最初から疎まれてるんです。人事の意向でここにいるんですよ? 状況が把握されていないわけないじゃないですか! 先輩や上司の人たちにも嫌われてます! 友達はいますけど、新人が何をどうとか出来ません! 訴えるべき相手が存在しないんです! 私だってこのままじゃ、いずれ、身体を壊しそうとか、怖い、ですけど。でも、私に出来ることなんて、何にも、ない!」
噛み付くだけ噛み付いたヒカリは、大きく息を吐き出しながら、頭を抱えた。どこの所属かは知らないが、このおじさんに言って何になるって言うんだ。確かにめちゃくちゃ態度と見た目は偉そうだけど、人事の関係で顔を見たことはない。
と、そこまで考えてからヒカリはハッとした。むしろ、このおじさんに歯向かったことで、立場は更に悪くなるのでは!? どこかのお偉いさんの機嫌を損ねて! ヒカリは呻いた。ああどうしよう、私の考えなし!
そろそろと顔を上げたヒカリは、すみません、と小さく声を出した。
「失礼なことをしました。上には言わないで頂けませんか。私みたいなのがこの会社に拾ってもらったのは奇跡なんです。本当に音を上げるまではもうちょっと頑張りたいので、クビにはなりたくありません」
男は、ふっと笑った。ヒカリは驚いた。
「もう少し、頑張りたい」
「……はい」
「嘘じゃないな?」
「はい」
「言葉は違えるなよ?」
ぽん、と大きな手が軽くヒカリの頭に乗せられた。目上の人に優しくされたのは相当久しぶりで、ヒカリは目を丸くした。男はくるりと踵を返し、ひらひらと手を振る。その姿がパーティションの向こうに消えたところで、ヒカリはすとん、とオフィスチェアに腰を落とした。
何だったんだ、アレは。誰だったんだ、あのおじさん。っていうか何しに来たんだ。
発破を、掛けに来た……? 関わったこともないおじさんが、窓際部署の小娘のために?
戸惑ったヒカリだったが、その一件は心の支えとなった。これは良くない状況だ、と再認識しつつ、頑張ると啖呵を切った手前、早々に音を上げたくない。仕事量は更に増えたが、負けられるか、と歯を食いしばって作業スピードを上げた。
そうして冬が終わり、春が近付いてきた。異動の通達が来たのは、そんな時期であった。
(ここから、抜けられ、る……?)
ヒカリは呆然とした。異動先は、本社内でもかなり上層に近いようだった。とても窓際から赴く場所ではない。
社内での発表前に、一旦挨拶を、とヒカリは足を踏み入れたことのないフロアに案内された。忙しなく社員が動き回るそのエリアを、人事社員に伴われて歩いていく。見慣れない姿に、すれ違う人々やデスクに座った社員から視線が突き刺さる。愛想を振りまく余裕もなく、辿り着いた一番奥で。
彼は、特等席に腰掛け、書類に目を通していた。
「あっ!」
ヒカリは声を上げた。男が視線を向ける。
金色の、猛禽の瞳。きゅっと釣り上がった眉。値踏みをするような視線が、楽しそうに細められる。
あの日のおじさんだった。何が起こったのか、ヒカリは理解した。
偉そうなおじさんは、ヒカリの救世主だったらしい。
「その節は、ありがとうございました!」
深々と頭を下げたヒカリに、男は「はて、何のことだか」と呟き、デスクに頬杖をついた。ヒカリが顔を上げると、男は口元を歪める。
「私は、使えそうな手駒を確保したに過ぎない。言っておくが、私はお前を使い潰すつもりだ。役に立たないならすぐ見限る。代わりになる人材はいくらでもいるのだから。……私を、幻滅させるなよ?」
性格の悪そうなその笑みを前に、ヒカリは満面の笑みを浮かべた。
「はいっ!」
□■□
「怖くはないよ、優しい人」
ヒカリはスープの水面を吹いた。コンソメスープの琥珀色が波立って揺れる。カップの端に唇を付けて啜ると、野菜の甘味が舌先に触れた。そういえばあの頃は、昼食も急いで食べていたし、味わう余裕なんてなかったな。
「優しい? あの人が?」
「なんだかいっつも眉間にしわ寄ってるし、上同士で立ち話してるの聞いたとき、口元は笑ってるのに『戦争か?』ってレベルで冷え切ってたけど?」
「仕事に関してはほんと、鬼とか悪魔なのは認める……」
ヒカリは苦笑した。「使い潰す」の宣言通り、ヒカリの業務量は元の部署の比でないほどに増えた。仕事内容としては、部内全体の補佐としての事務である。外注的立場ではないので、より専門的で機密性の高いデータを扱うようになり、責任も重くなった。
けれど、支え合う土壌がある。ほか部署からの引き抜きも多いようだが、部内には結束感があった。部長のカリスマ性というやつだろうか。アルコールが入った状態で「あの人のためなら死んでもいい」なんて言わしめる上司が居るとは、半年前なら信じられなかったことだ。
ヒカリの仕事も、多いけれど分担で何とかなっている。早く終わったメンバーが流動的に助けてくれるし、逆もしかりだ。自分の成した仕事が実務部隊の成果として上がってくるのは逐一目にできたし、やりがいの部分でも不満はない。
ふふふ、とヒカリは肩を揺らす。
「あの人、結構マメなんだよ。やらかした時は、そりゃあもう、絶対零度って感じの目で睨まれて喉がヒュッてなるんだけど、結果出すと褒めてくれるの。私みたいな後方部隊に対してもね。人には気付かれなさそうな頑張りにもコメントくれるから、本当に視野が広いんだなぁって」
「飴と鞭?」
「調教?」
「言い方!」
「はぁ〜、でもまぁ、ヒカリが幸せそうで良かったよ。前、すっごかったからね、死相が」
「死相」
ヒカリは顔を両手でむに、と押した。そんなもの出てたのか。やばいじゃん。真顔になったヒカリに、友人たちはけらけらと笑う。
受付業務の友人がふと、にやり、と悪い顔をした。
「そうそう、帝国は恐ろしいところだけど、高給取りのエリート部隊としても有名なのよね」
「……そうなんだ?」
「取り込まれついでにヒカリには頼みたいところだよね〜」
「何を?」
ヒカリは首を傾げた。他の二人もうんうん、と頷いてヒカリに顔を寄せる。
「何って、もちろん、出会いの提供よ。ねぇ〜、昇進間違いなさそうな適度に若いイケメン居ない〜?」
「昇進間違いなさそうな適度に若いイケメン」
ヒカリは宙を見て眉間にしわを寄せた。大体みんな仕事ができるので、昇進はいずれ果たしそう。イケメンという基準はよくわからないが、年齢だけで言えば三十手前から、そこそこ……は、まぁまぁいる。けれど、それはそれとして。
「社内恋愛って、大変そうじゃない……? したいもの……?」
戸惑うヒカリに、友人が指を一本立てる。
「ウチに勤めてる時点で、高給取りと出会いやすいのはメリットよ。規模がでかいだけあって、隠すのも別部署ならそんなに大変じゃないし。ま、隠すスリルも悪くないと思うけどね?」
「そうなの……?」
「あー、ヒカリはだめなんじゃない?」
法務部の友人が、したり顔で口にした。だめ、とは? 確かに社内の同僚をそういう目で見たことは一度もないが……。
「だって、ねぇ? 直属の上司となんて……色々と、ねぇ?」
「あー……」
「あ〜……」
「待って、なんでそうなるの!? あの人は恩人だけどそんなことになるわけないじゃん!」
「皇帝かわいそう」
「憐れ〜」
「玉の輿なのに」
「ち・が・う!」
憤慨したヒカリに、友人たちが笑いながら手を合わせる。ちら、と時計を見上げると、それなりにいい時間だ。慌てて残りのスープを飲み干すと、ヒカリも手を合わせて立ち上がった。
「いい!? あの人耳聡いんだから! 交流会なら企画してあげるから、そういうこと言わないでね!?」
「やりぃ」
トレーを持ち、足早にテーブルを離れる。手際よく片付けながら、ヒカリは唇を尖らせた。
(何が、皇帝陛下のお気に入りだ)
拾ってくれたのは、便利な使いっ走りの確保に過ぎない。本人が言ったとおりだ。細かいところを褒めてくれるのも部内全体に対してで、じゃなかったらあんなに忠誠心が高まるわけがない。
どれだけ立場や歳が違うと思っているんだ。向こうは四十過ぎの脂の乗った管理職のおじさん、こっちは入社二年目のちんちくりんだぞ。
指輪はしてないけど、もしかしたら結婚してるかもしれないし、あれくらいの立場の人なら女はいくらでも寄ってくると思う。社内のちんちくりんに手を出す理由なんか欠片もないだろうが。ふん、と鼻を鳴らして下膳台にトレーを突っ込み、パンパンと手を払う。
午後の仕事だ、頑張るぞ!
なお、声を掛けた結果、部内の同僚たちはそこそこ「交流会」に集まってくれた。結構社内恋愛に期待するものなのだろうか。
ヒカリにはやはり、よく分からなかった。
