蒼く静かな街を、背を丸めて一人歩いていた。
高くそびえ並び建つ高層ビルディングの窓には、生きる光が灯っている。見上げれば遥かな空からは柔らかな陽光が降り注いでいる。それは、在りし日の幻想だった。
この場所の本来の姿は、冥き水底に沈む光なき廃墟である。原初世界のアーモロートは、七度の世界統合による痛みで壊れてしまっている。しかし鏡像世界はその痛みを知らない。海底に沈んだ街は、エメトセルクが訪れた時も、その形を残していた。元より永い時を生きる人の街であったのだ。終末で倒壊した建築物は、一万年以上に亘り自然の波に晒されようとも、消え去るようなことはない。
街に火を灯したのは、エメトセルク自身だ。もはや太古の時代を生きた命はエメトセルクとエリディブスしか残されておらず、エリディブスは動いているものの、その在り方は既に人のそれではなく、多くが欠落している。実質的にこの街を識っているのはエメトセルクだけだった。
かつては多くが夢に見た懐かしい街は、繰り返す転生のうちにすっかり忘れ去られてしまった。この街が残るのは、エメトセルクの胸の中だけだ。黒い海の中で小魚に占拠された、死んだ星の都を前にして、ぱちん、と指を鳴らした理由は何だったろう。在りし日への郷愁か。……いや、忘れないためだ。痛みがエメトセルクの原動力だった。
浸るためなら、幸せな夢を創ればよかった。エメトセルクは歩いている。終末が迫り、終わる日常の最後を。繰り返し耳に入るのは、海の向こうからやってくる終末の話題ばかりだ。
本当は、もっと穏やかで、誰もが笑顔で星の明日の話を交わす、賑やかな都だった。しかしこの日、既に終末を退けるべく人々が取るべき方策は決まっていた。贄となることを決めた人々は、既に街から姿を消すか、あるいは眠る前の最後の時を大切な相手と過ごしていた。明日は続くと信じ、残って豊かにするべく星の明日を語る者も居ない訳ではないが、多数派ではなかった。
思い出すままに、エメトセルクの手は魔法を紡いだ。「あの日」の、ありのままを。しばしの別れの後、出合うべき人に出会えると信じていたあの日。終末さえ退ければ明日が続くと信じていたあの日。
人は万能であったが、未来を予知することは出来なかった。
火が灯ってから、この街にはそれほど月日が経っていない。もうじき英雄の旅は終わり、裁定の時が来る。もしも全ての光を呑み込んでみせるなら、その魂の強度はそれなりに見るべきものがあったということだ。なれば、かつての時を語るのも悪くはないだろう。
どうせ、欠けた魂は思い出すことなどないのだろうが。なりそこないの身を超えた命には、敬意を払ってもいい。今回は。今回だけは、頷かせるいつかが、あるのかもしれない。
この街は、あの日を繰り返している。エメトセルクは小さく息を吐いた。つまり、あの日に在ったものだけが、ここには存在している。逆を言えば、あの日既にここになかった存在を捏造することなど出来ようがなかった。そんなことをして、感傷に浸りたいとも思わない。だからこの街には、あの色はない。
いいのだ、そもそもこの街に常に居た生き物でさえなかった。旅暮らしで、本籍はこの街に置きつつも、一年の半分も滞在していなかったんだ、あの女は。
「おーい」
幻聴に首を振り、溜め息を吐く。アレは、星の運営の主導権を持つ委員会の決定に歯向かうばかりか、それを強行するのなら私は抜ける、とさっさと座を降りて旅立ったような女だ。そんなあいつに、何を引き摺られることがある。アーモロートの空が燃え、星が降った日。彼女さえ居ればと泣いて縋った市民の声も聞かなかったくせに。
「エメトセルクー」
歩く速度を速め、振り切るように進む。こんなの幻聴だ。顔を見ずとも、その声の持ち主がどんな表情をしているかなんて、分かりすぎる程に分かった。違う、違う、あんなもの。
「ねえってば!」
声は段々と大きくなる。そんな訳がない。エメトセルクは苛立たしげに、手を頭上に高く上げて、後ろを振り返った。
「お前なんか、創っていない!」
見上げた先には、「あの日」にはなかった彼女の姿が、在った。
随分と見下ろすほどにエメトセルクの身は小さく、その身には嫌っていた華美な装飾の施された軍服を纏い、顔貌も別人のものだ。
しかし、彼女は振り向いたエメトセルクに、にこりと笑って背を屈めた。
「やっと、私を見てくれたね」
ぱちん。指を弾くと同時に、泡も、弾けた。
雑念が産み出した、泡。彼女はそうとしか形容ができなかった。
自ら創り出すつもりなど一切ないし、存在を許せるわけもない。だから、エメトセルクはその手でしっかりと消した。消した筈だった。
「ねぇねぇ、それって今の時代の外の服? すっごい良いじゃん! 私、それ、好み!」
せっかく塔の上まで逃げてきたにもかかわらず、当たり前のように隣に腰掛けて話し掛けてくる姿に、エメトセルクは深く息を吐いた。
消した筈の「彼女」は、翌日になるとごく当たり前のようにマカレンサス広場に居て、歩くエメトセルクを見るとぶんぶんと手を振って明るく叫んだのだ。
「話も聞かずに消すなんて酷いじゃないか〜!」
つまり、昨日の彼女と記憶が続いている。こんなの、幻想の街にはありえないことだった。創り出したアーモロートは箱庭だ。皆、日付が変わる頃になるとそれぞれの家へと帰路に就く。そして翌朝、まっさらな記憶でまた「新しい今日」を始めるのだ。その記憶に連続性はなく、自分たちが繰り返す今日を歩んでいる自覚はないし、ましてや創り出された存在であるという認識もない。
あるいは、この街にあの日在り、意図して創り上げた命のうち、あのやたらと敏い、旧い友人であれば気付いたかもしれないが……。ただそこに居たから排除はしなかったものの、わざわざ会いに行くこともなく、はたしてそれが本当なのかは知る由もない。
ともあれ、この煩い泡は、自らが過去を模したエメトセルクの創造物であるという自覚のもと、今を生きるエメトセルクに自ら接触してきている。非常に面倒だ、と溜め息ばかりが出る。おそらく、何度消したとて日付が変わればまた、元気よくエメトセルクを訪ねるのだろう。
「……お前、思うところはないのか」
蒼く霞む空気に沈む、幻想の街を見下ろしながら、エメトセルクは声を発した。隣の巨大な影は、嬉しそうに顔をぱっと上げた。
「やーっと私の存在を認めてくれたってわけだね!」
「そこに在りはしないと何度繰り返しても、付き纏って来るんだろう、お前」
気怠げに視線を向けたエメトセルクに、影はにこりと笑って頷いた。
「そりゃそうだよ。この街にとって私は異物だ。せっかく生まれたというのに、だぁれも、私のこと認識してくれないんだよ! もう、暇で暇で仕方がなくて。そんなところにちゃんと生きてるきみが通りすがったのだもの、捕まえない道理がない!」
エメトセルクは少しだけ泡に憐憫を抱いた。かつて、彼女は出会う世界と人に想いを割き続ける人生を送っていた。エメトセルクの中にあった彼女の記憶が形を造ったなら、創造物たるこの泡も同じようにしたがるだろう。終末直前に怯える街の人々をその手で宥める、もしも。それが差し出されたなら喜んでやり抜いただろう。
ああ、これは。紛れもなく、彼女なのだ。
「……アゼム」
アゼムは、一万と二千年ぶりに聞いた呼び声に、仮面の下で微笑んだ。
「エメトセルク、私と話をしよう」
アゼムの知識は、中途半端に止まっていた。「今日」の先を知っており、終末の訪れたアーモロートで何があったのかも、ゾディアークを召喚した後の淀んだ世界の光景も、次いで捧げた命により、風の巡り始めた星の姿も知っている。最後に、ゾディアークが……全ての命が、ハイデリンに砕かれた様も。
しかし分かたれた命が何を思い、何を作って生きていたのかは知らない。エメトセルクが、彼女は知る必要がないと思ったからかもしれない。
にもかかわらず、アゼムは「外の世界」を知りたがった。無意識のうちに彼女に触れさせまいと隠したものも、動くアゼムの追求は執拗で抵抗がしきれない。
「へえ、この衣装はきみの作った国のもの? センスあるね! だから私言ったじゃん、創造の世界が人の服装にだけは適用されないのはおかしいって! すっごい似合ってるよ。この、後ろ側にちょこんとついてるリボンとか可愛いね! 何に使うリボン? 何に使わなくても可愛いからいっか!」
「私は特に何も指示していない。デザインの意図など知らない。軍国の皇帝がそれらしくあってほしいという押し付けがましい願望のあらわれだろう」
「かっこいいじゃん、私好きだよ! 肩に乗ってる飾りとひらひらはアレかな? 随分猫背と撫で肩になってるからそれを誤魔化すために」
「煩い、誰のせいで背が丸くなったと思ってる」
唸るエメトセルクに、アゼムは首を傾げた。
「誰だろ、ヒュトロダエウス?」
「お前だよ、お・ま・え!」
何処ともなく、世界が砕かれる最後の日まで彼女は行方知れずだった。一体何を思ってどうしていたのか、エメトセルクはそれを知らない。たとえこのアゼムが何かを述べたとて、それはエメトセルクの思うアゼムの言葉でしかないだろうし、死角から突き付けられる後ろ暗い願望など御免被りたい。問いかけることはない。
「私かぁ〜」
アゼムは遙か頭上でけらけらと笑った。
ローブと仮面はその姿を隠そうとしていたが、半分覗くかんばせは、あからさまにあの時代の彼女だった。分かたれた人と同じ縮尺のエメトセルクであるから、とても見覚えなどない見上げる角度からの姿にはなるが、その滑らかな肌も、笑うと横に広がる唇も、焦がれた彼女だ。
思えば、アゼムとしての生は砕かれ、欠片として散ってもなお、圧倒的に力量に差のあるエメトセルクたちアシエンに幾度となく食らいついてきたのは、この魂だった。
性別も種族も、転生を繰り返す度に変わる。しかも、鏡像世界の数だけ可能性がある。出会う「彼女だった」命は、取るに足らないちっぽけなものに成り果てていた。けれども、毎度限界を超えて、あり得ない結果を引きずりだしてきた「アゼム」のように。ちっぽけなくせに、歯向かってくるのだ。
その色は、どれだけ薄まっても見間違えることなどありえなかった。アシエンとして世界統合に向けて暗躍するたびに、いつの間にか最前線に躍り出るのが彼女の魂だった。幾度、「光の戦士」として祭り上げられた魂を縊っただろう。
どうして、お前なんだ。どうして、お前はいつだって。
働き者のラハブレアは、創造に長けた男であったが、見通す目は持っていない。エメトセルクの苦しみは知らなかっただろう。鏡像世界と原初世界で、それぞれの英雄が歴史の最中ですり潰されれば、傾いた属性に抵抗できる者は居らず、アーダーが起こる。七度の統合を果たしたが、彼女を殺した数はそれだけではきかない。大抵百年も生きられない命の終わりだ。繰り返すのは当然で。
どうせなら、ただ平穏に生きて死んでくれればいいのに。世界を見通す目と言っても、限界はある。眼の前に現れさえしなければいいのに。なのに、彼女は。時代の変革が訪れれば、そこに携わらずにはいられないらしい。
そっと、アゼムの大きな手がエメトセルクの丸まった肩に乗せられた。ぽん、ぽん、と慰めるように優しく触れる様が痛くて、エメトセルクは奥歯を噛んだ。何が悲しくて幻想に労られなければならない。お前のせいだと言うのに。
「……んふふ、ちっちゃいエメトセルク、かわいい」
「…………はぁ?」
何を言い出すかと思えば。突然の言葉を受け、呆れて声を出したエメトセルクに、アゼムはくすくすと笑う。
「ほら、私はきみたちを見上げていたからさぁ? 子供サイズのきみなんか新鮮でたまらないよ!」
「……なりそこないはこの縮尺なんだ」
「きみなら自分を引き伸ばすくらいわけないだろ? アーモロートで暮らすには不便じゃないかい?」
「私は、ここで生きている訳じゃない」
拠点とはしているが、この街は、誰も生きてはいない。仮初めの命である住民たちもそうであるし、エメトセルクだって今の生をここで満足に行えるほど単純ではなかった。箱庭で遊べるほど子供じみた心を持ってはいない。そうであれたらどんなに楽だったろう。いつか、同じ視点でこの街を眺められる日への憧れが、胸を掻き毟るのだ。
「そっか、なるほど、なるほど」
アゼムは頷いた。そして、エメトセルクがするように頭上に手を掲げ、ぱちん、と指を鳴らした。
すると、一度彼女を構成していたエーテルが光となって霧散する。瞬きほどの間もなく、それらはぎゅっと縮まり、肉体を再構成した。
エメトセルクは驚いて隣を振り返る。少し下にある小さな顔が、微笑みながら手を伸ばした。
「やっぱり、こうじゃなきゃね」
ほとんど変わらない視点の彼女は、周囲のサイズさえまともであれば、あの日の続きのようだった。エメトセルクは顔をしかめた。そのやつれた頬を撫でて、アゼムはそっと頭をエメトセルクの肩に預けた。
「どうして、今更私が喚ばれたのか。きっと理由は、きみの中にあるのだろうね。私はそれを知るまで、消えることなど出来ないのだろう。覚悟しておくことだよ、」
もはや誰にも呼ばれない真名の頭文字に、エメトセルクはアゼムの唇を指で塞いだ。アゼムは目を丸くして、それから肩を揺らして笑った。
「私の諦めが悪いことは、きみが一番知っている。だろう? ……エメトセルク!」
「もう、どこ遊びに行ってたのさ〜! 私も外行きたいけど、街の外には出られないの! きみがいてくれないとつまんない!」
誰も遊びになんて行ってはいない。敵情視察だ。転移するなりぱたぱたと駆け寄る小さな影に、エメトセルクは眉を寄せて振り返った。
せっかく停滞に沈んでいた筈の享楽都市は、ちらつかされた希望を前に活性へと極性の天秤を揺らしていた。エメトセルクが仕込んだ最後の大罪喰いは天空の楽園都市を創り上げ、終わらない光の園に立て篭もろうとしている。
果たして、どのように罪喰いの襲撃を躱し、あの空に浮かぶ島に向かうつもりかは知らないが、同じ目的のために違う立場と信条の中でも集った人々の姿は、少しばかり太古の世界と似ていた。まさか、矮小な命にその選択が出来るとは。
隣まで走ってきた小さなアゼムは、エメトセルクの顔を見上げて首を傾げ、微笑んだ。
「何か、良いことがあったんでしょう」
「…………はぁ?」
呆れた声に、ほら! とアゼムは自慢気に人差し指を立てて突き付けた。何がどうしてそうなるんだ。エメトセルクの無言の視線に、するりと猫のように距離を詰めてその腕を取る。
「詳しくはデートしながら聞こうじゃないか。さぁ、エスコートしておくれよ。創造主たるきみはこの街に認識されているのだろう? きみのエーテルで出来ている身ではあるが、お腹が空いたような感覚はあるんだ。ご飯食べに行こう!」
「……幻覚も飯を食らうと」
「私という命が求めているのかは知らないがね。『私』がそうしていたから、そうしたいだけかも知れない。……とにかくだな、この街の住人にとって私は透明人間だ。きみも全く意地が悪い。お腹空いた! 奢ってくれ!」
腕をとって肩にぐりぐりと額を擦り付けるアゼムを片手で押しやる。しかし、しっかりとしがみついた身体が簡単に離れるようなことはない。しばし抵抗を試みたが、幾度やっても片付けられないのは「そういう」存在であるからか。諦めたエメトセルクは、はぁ、と溜め息を吐いて肩を丸めた。
隣でアゼムはこともなげに呼吸を繰り返している。エメトセルクの横顔を見つめながら、アゼムはぐいぐいと腕を引いた。
「そうだ、カリストスがやっていた食堂は? 果実のソースをかけた肉料理が美味しかったとこ!」
エメトセルクは首を横に振った。
「いや、あそこの主人は早いうちに自らを贄に供することを決め、この時期には店を閉めていた。既に人口が半減することが決まっていたんだ、自らがそうでなくたって、そういう決断をする店主は多かった」
賑やかだった大通りも、終末が近付くごとに人の影を減らしていった。本来見付けだした使命は諦め、欠員の出た箇所を埋めて存続する街を守るべく、職を変えた市民もかなりいたのだ。娯楽と呼べる食事処は、この頃にはかなり数を減らしていた筈だ。
「でも、食べないことにはエーテルも不足するだろ? 私は居なかったからまるで知らないのさ。ヒッポリュトスの店は? メトディオスのバーも、酒がメインだけどなかなかご飯が美味しかったよね。官庁街のエウラリアの店も、早く出てきてサッと食べるのにすごく良かった! ちょっと高級だけど……アエティオンの店のディナーは手が込んでいて美味しい……。どこかしらは生き残ってるはず!」
どうせ奢らせるのだから、と顔に書いてあるアゼムはどんどん名前を挙げた。あの日の再現であるから、あの日在った店であればここに在る筈だ。しかし、当時は明日を続けることに必死だった。十四人委員会もアゼムを欠いた状態で、刻一刻と変わる状況を収集し、都度答えを出して……。まともな飯にありついていた記憶がない。そもそもそれが思い出せないのも、こいつのせいだ。こいつさえあの日に居たならば、もう少しは……。
過ぎた日のことを思っても仕方がない。エメトセルクはアゼムを腕に貼り付けたまま、歩き出した。官庁街は星の中枢だ。誰にも相談せずに力として身を捧げた局長もいた程で、欠員だらけの役所はどこも忙しく、あの店は重宝されていた筈だ。ならば、在るのはそこだろう。
「懐かしいね、エメトセルク。私が滅多にしない書類仕事をしていると、大体限界近くのタイミングで、図ったようにきみが外に連れ出してくれたものだ。どこでどうやって見てたんだい?」
「お前のことなんか、見ていなくても分かる」
分かっていた。……そう、思っていた。未だに何故あのタイミングで離反したかなど、理由は知らない。いつでも突拍子もなく不可解な言動をする彼女のことを、他の誰よりも理解していたと思っていたのは、驕りでしかないだろう。歯噛みするエメトセルクに、アゼムは機嫌良さげに頷いた。
「ふふふ、きみが居てくれて良かったと、心の底から思うよ!」
これを、私は泡に言わせているのか。エメトセルクは胸に爪を立てられるような心地でいた。これはアゼムじゃない。あくまでも、エメトセルクの中の彼女を模した幻想だ。どれもこれも、エメトセルクが望む言葉であったに違いないのだ。
ある建物の前まで辿り着いたところで、エメトセルクはアゼムの肩を押して引き剥がした。大人しく剥がされたアゼムが、エメトセルクの背後から中を覗き込む。最盛期の頃よりも随分人影は減っていたが、それでも空席の数は少なかった。
『あら、エメトセルク様、一人ですか?』
中から店主の影が現れる。子供を覗くように見下ろす姿勢になることに、あまり影は違和感を持っていないようだった。アゼムが「ね?」とエメトセルクに頷く。
「いや、二人だ」
軽く背後を振り返ったエメトセルクに、影は一瞬驚いた様子を見せたが、困るようなことはなかった。
『二人。……なるほど、すぐご案内しますね』
この手の対応であっさり呑み込まれるのも、アゼムという生き物に付き合っていたせいかもしれない。アゼムが居るのなら、そのようなこともあるのだろうと。全く、信頼とは恐ろしいものだ。
スキップするようにエメトセルクの後を付いてきたアゼムは、案内された先で大きすぎる椅子を見上げ、指先をくるりと回した。幻想であるのをいいことに、勝手に椅子と机のサイズを縮めていく。
「やっぱり、生きるのには不便だよね?」
「だから、生きているつもりがないんだ、この街では」
エメトセルクは、縮んだ椅子を引いて腰掛けた。アゼムも同様に腰掛け、机に据えられていたメニューを手に取る。
「エメトセルクは?」
「要らない」
「ええ、美味しいのに。私好きなの頼んでもらうよ?」
遠慮などするたまではない。アゼムはメニューをぱらぱらと捲り、悩ましげに口元に手を当てて唸った。別に相手がどんなものを頼んだか、釣り合うものは、だとかそういう悩み方ではなく、ただ単に今食べたいものがいくつもあった、それだけの理由だろう。
「……肉と魚、迷うなぁ」
ほら、やっぱり。エメトセルクは頬杖をついてアゼムの顔を眺めていた。いつだって、彼女は選択に全力だった。食事なんて、最低限のエーテルさえとれればそれでいい。美食に寄り過ぎた食物は過ぎた娯楽だ。そう捉える市民も居た中で、彼女は食事というものを大いに楽しむタイプの人間だった。
次に、食わなかった方を食えばいい。そんな言葉は、発されることはなかった。次があるとも思わない。いつ弾けてもおかしくない泡なのだから。まるで明日が続いてほしいかのような自らの思考に、エメトセルクは細く息を吐いた。こんな幻覚、消えて然るべきだ。
「決めた。白身魚のフライにする。この店はタルタルソースが美味しかった!」
ぱすん、とメニューを勢いよく閉じた風圧でアゼムの髪が揺れた。彼女は振り返り、すみませーん! と声を上げたが、店の中に虚しく響いて消えていく。エメトセルクは代理でベルを押した。寄ってきた店主に、口頭で品を告げる。
『おひとつでよろしいのですか? お連れ様は……』
「ああ、そいつの分だ。私のじゃない」
『お連れ様も、お体は創り変えて居られます?』
「……そうだな、私と同じように」
『では、それに合わせて。お待ちくださいませ』
遠ざかる影を見送ったアゼムが、肘をテーブルについて身を乗り出した。エメトセルクは軽く身を引く。
「それで、だ! きみが会いに行った外の子の話を聞かせてもらおうか!」
「聞いて何の得になる」
「探究心が満ち満ちる!」
「興味本意か」
「いやぁ? 今きみがしていることと関わりがあるのだろう。なら、私がここにいる意味とも関連が深いのではないかともね、一応思うわけだ」
エメトセルクは顔をしかめた。……どうせ、何を導くこともない。エメトセルクがアゼムなら興味を示すだろうと、心のどこかで思っている、それだけに過ぎないのだ。
運ばれてきた適正サイズの飲料水を手にして、エメトセルクは唇を濡らした。
「……なに、アレはお前だよ。砕かれた後、いくらかの統合を経て存在を濃くしても、なお私達には遠く及ばない、弱き命と化した、お前だ」
「…………私?」
アゼムは目を丸くした。言わねば終わらないなら、述べない理由もない。
エメトセルクは訥々と語った。一万と二千年後のお前は、冒険者だ。元々生まれた原初世界に訪れる統合を阻止しようと、今は次に統合されるべきこの第一世界へと渡って抵抗を続けている。
その旅の最中、いくらかはエメトセルクも直接隣を歩いた。それを述べると、アゼムはきらきらと目を輝かせた。
「ねぇ、私とその子って似ているの?」
エメトセルクは不快感を表情に乗せてみたが、その程度で引き下がる女ではない。エメトセルクは頬杖をついたまま、息を吐いた。
「生まれた境遇も、生きた道も違う。魂こそお前でも、その見目は両親から継いだものでしかあり得ない。まるで別人だ」
「……本当に?」
アゼムは睫毛を揺らして、口角を薄く持ち上げた。窺う視線に、エメトセルクは黙り込む。
「永い時を経たのに、まだ私はきみに会いたかったのだね」
会いたかった。そんな馬鹿な話があるか。時代が毎度彼女の魂を押し出してくるだけで、そんな意図などあるわけもない。そうであるなら、彼女は明確にエメトセルクを苦しめようと責め立てていることにほかならない。
「違う。お前は、まるで思い出さない」
拗ねたような声に、エメトセルクははっとして目を見開いた。向かいでは、アゼムが驚いた顔をしたのち、にやぁ、と猫のようににんまり笑うところだった。
「思い出してほしいんだ? 私が居ないとやっぱり寂しい?」
アゼムの歌うような声に、エメトセルクは首を振った。
「……静かだな。少なくとも、お前のいない舞台は、静かだ」
静かだが、それが却って良かったのかもしれない。現れればアシエンの思惑とはまるで真反対の陣営に居て、毎度煩く歴史を引っ掻き回していくのだ。
しかし、今回は。今回こそは。数え切れない離別の後に、漸く手が取れるのかもしれない。エメトセルクは額を手の甲に付けて俯いた。
「地道に統合を進めてきた甲斐があったとでも言うべきか。ちっとも、さっぱり、思い出す気配など、欠片もないが。今回のお前は、上手くすれば。ようやっと、私達の理念を理解するかもしれない」
「……なるほどね」
アゼムはころころと鈴を転がしたように笑った。
「じゃあ、この街もきみの心の中にだけあっては駄目だ。例え、思い出さなくても。手を広げてあげないと、きっとその子に語りかけるのは難しいよ」
ああ。……エメトセルクはその言葉に、眉を寄せて、低く唸った。この在りし日の幻想を見たならば。お前の魂を持つのだから、やもすれば。
エメトセルクの痛みだけを込めた終わらない街を晒す。それは、あり得る選択だ。かつてこの街を幻視した誰かが壁に描いたように。蘇らないとも限らない。
『お待たせしました……あら? アゼム様!? いつの間に……!』
「おっと……!? そっかそっか。んふふ、食べるのは私。ここに置いてくれ、エウラリア!」
突然アゼムのことを認識し始めた街に、気恥ずかしさが昇る。エメトセルクは奥歯を噛んで、嬉しそうにナイフとフォークを構えるアゼムを睨んだ。
街にとって異物であった筈のアゼムは、日々せっせと幻影たちの困りごとを解決するために奔走していた。毎日違う場所でその姿を見かける。彼女であれば、可能とされた時、当然のようにそうしただろう。
この街は毎日を繰り返している。日付が変われば事象は綺麗さっぱりなかったことになり、何も起こさなかった日が始まるのだが、その崩れることが決まった砂の城の築城も、アゼムにとって苦ではない様子だった。
「もしかしたら、変わるかもしれないだろ?」
代理でイデアを借りに来たというアゼムと、創造物管理局の前で出会ったとき、彼女はそんなことを口にした。
「きみの心持ち一つでこの街のルールが書き換わった。ここは本物の世界じゃない。あの日ゾディアークでなければ避けられなかった終末も、もしかしたら退けられたりして!」
にこりと笑うアゼムに、エメトセルクは頭を押さえた。そんなもしもを、私が空想する筈がないだろう。そんな、あの日の私達を愚弄するような真似を。
十四人委員会は、最善を尽くしたのだ。そして、それによって辿り着いた今の歴史は、この街を弄ったところで何一つ変わることがない。今のエメトセルクがすべきことは、失われたこの世界を奪い返すことだけ。過去の箱庭で遊んでいる暇はない。
光の戦士たちは、巨大なタロースで浮島に取り付き、その背を登ってかの大罪喰いを討伐しようとしているらしい。残された第一世界の住人たちのほとんどに協力させる、途方も無い計画だ。しかし、彼女たちはやり遂げるのだろう。作戦の決行の日は近い。
それはつまり、エメトセルクによる裁定の日も同様である、という意味だ。世界を呑み込むほどの光の全てを、その身一つで力として使いこなすなら。ただの弱き命であると結論付けるには早いのかもしれない。そう思わせるほどの人生を歩んできた彼女は、今回が初めてだった。
「楽しみだなぁ」
アゼムは穏やかな空を見上げた。
「ねぇ、エメトセルク」
不機嫌な表情をしたエメトセルクを、アゼムが振り返る。
「私と会ったら、例の子ってすごく私と気が合いそうじゃない?」
エメトセルクは唇を歪めた。恐ろしく気が合うだろう。絶対に意気投合して、厄介なことを次々と計画して実行に移していく。幻影となりそこないと言えども、エメトセルクが振り回される日が再びやって来そうで、全く面倒極まりない。
「ほら、やっぱり! きみってば、結構その子のこと気に入ってるんでしょう! いっつも聞こうとするとはぐらかすんだから。そろそろ教えてくれてもいいよね? 私、想像で胸がいっぱいなんだよ! エメトセルク、お願い!」
アゼムとエメトセルクは、道に据えられている高いベンチに腰掛けた。街を行く人影は、議題こそ終末の話で持ちきりだが、以前よりもその顔に浮かぶ恐怖の色が薄らいだような気がした。
「思い出しもしない癖に、まるでお前のようなことを言うから、掻き乱される」
エメトセルクは低く呟いた。
光の戦士と呼ばれる女のことを、ゆっくりと、話した。直接顔を合わせたことこそつい最近だが、アシエンとして活動していれば、神狩りの英雄は目に付きすぎる存在だ。……一目見て、その魂が誰であるかなどすぐに分かった。
エオルゼアを救い、千年続く竜と人の禍根を終わらせ、解放の最前線に立ち、今度は光に沈む異世界すら守ろうとしている。後に歴史家が紐解くとき、「これは本当に同一人物のしたことか」と論争にでもなりそうなほどの働きぶりだ。
光の戦士。英雄。そう呼ばれて久しい女。直接会ったとき、エメトセルクは少し驚いたものだ。あまりにも、普通の人間で。
「思えばお前も、立場を隠して旅に出たことがあったな」
結局のところ、動き始めるとその破天荒さや戦闘能力の高さから、いずれ何処の誰であるか自然と明かされてしまうのだが。日常として言葉を交わしたとき、アゼムもまた、ただの人であったことを思い出す。
普通に家族も、友人も。……恋人だって居た、ただの人だった。
「きみだって、今回は遠い敵のアシエンではなく、エメトセルクという旧き人として彼女に出会ったのだろう?」
アゼムは膝の上に頬杖をついたまま、くすくすと笑った。
「彼女は嬉しかったと思うよ。知ることが出来るのなら、知りたいに違いない。私も、きみが彼女と話してくれて嬉しい。新しい命だって、私達の欠片ならば、私達と同じ心があるはずだ」
お前は、そう言ったのだろうな。新しい命に委ねるヴェーネス派に、アゼムの姿はなかったが、委員会を離脱した以上、そう言い出すのに違和感はなかった。
「手を取り合える明日を導けるのは、生きるきみだけなんだ。……エメトセルク」
アゼムの手が伸び、エメトセルクの頬を指の背でそっと撫でた。
「後悔だけは、しないでね」
今回も、駄目だった。エメトセルクは息を吐いた。抵抗を続けるクリスタルタワーの端末からは、さして有用な情報は引き出せなさそうだ。アラグの遺構と未来の「人」の執念が絡んでいることはまず間違いがないが、技術と知識をすぐさま転用するのは難しい。
鎖の魔術で繋いだ男を暗い扉の中に残し、エメトセルクはまた蒼い街を歩き始めた。その足取りは重い。
当初の計画に戻ったに過ぎない。裁定はつつがなく終了した。今回も、なりそこないは、なりそこないに過ぎない。魂の濃度は、真なる人の半分を漸く超えたと言ったところだ。ぎりぎりまで耐え、今も心で以て捻じ伏せているのはいっそ感嘆に値する。それでも、手を取る相手にはなり得なかった。
光の化け物は、その中身が生まれ出たら、この世界を蹂躙する。暁の連中も、主要な面々はこの第一世界から帰還が許されず、魂が死ねば原初世界の身体は朽ち果てるだろう。化け物の手によって、光の氾濫は再び起こり、世界は呑み込まれる。英雄と暁を失った原初世界においても、もう第八霊災を阻める者は居ないはずだ。
エメトセルクは一人、街を歩く。失望した。所詮はなりそこないだ。その魂は今や光に浸食され、砕けそうにひび割れている。目を凝らさずとも、内側を眩い光が塗りつぶしており、あの美しかった色は白く溶けている。人の形を保っているのが不思議なくらいだった。
彼女は来るだろうか。エメトセルクはまたひとつ、息を吐いた。堪えられずに壊れる様を見届けるのは、彼女の魂への愛情であったかもしれない。
今回も、また、私は。
とん、と背中に衝撃が走り、エメトセルクは軽く前につんのめった。軍服の背中に、体温が貼り付いている。
「エメトセルク」
押し殺したような、泣き出しそうな声だった。どうしてお前がそんな色を纏っているのか。エメトセルクは低く笑った。振り返ると、予想通りの女が立っている。
アゼムは、エメトセルクの手袋に包まれた手を掴んだ。そのまま、大股で勢いよく歩き出す。今日はどんなことをしでかしてくれるつもりなのか。エメトセルクは抵抗もせず、引かれるままに歩いた。
辿り着いたのは、彼女がかつて利用していた執務室だった。どこから拾ってきたのかわからない代物や、ヒュトロダエウスからの差し入れであるくだらないイデアをそこら中に転がされたまま、持ち主を失くした部屋だ。
そこに置かれているソファに、アゼムはくるりと魔法をかけた。縮んだそれの端にアゼムが腰掛ける。ぽすんぽすんと隣を叩くから、エメトセルクも腰掛けた。途端に、アゼムの両手が横から伸びて身体に巻き付く。
ぎゅう、と抱き寄せる動きに、エメトセルクは抵抗しなかった。
「外で何があったの。どうしてきみはそんなに泣きそうな顔をしているの」
泣きそうだと? 私が? 馬鹿を言え。笑い飛ばしてやろうと思ったのに、エメトセルクの喉は思ったようには震えなかった。
アゼムの手が、強く掻き抱く。何故私が幻影なんかに慰められなければならない。そう考える思考の一方で、感情はぐらりと揺れていた。
「……あの子のこと?」
否定をしないのが答えであることなど、エメトセルクにも分かっていた。
「良かったな、あいつは自らここに辿り着くかもしれないぞ。私に介錯してもらうために、な」
「…………つまり、私と彼女は友達になれないと、そういう意味」
彼女には見せたくないと思った。いつものように、エメトセルクの手がその命を散らす様を。
「裁定には不合格だった。真なる人とともに並び立つこともできない命だった。ただ、それだけだ。あいつは今にも光の異形となって世界に解き放たれようとしている。大切な仲間も、守りたかった世界の住人も、全てを自らの手で襲うかもしれない。……ああ、繰り返してきた結末のひとつだ。何を悲しく思うことがある」
こうなれば、「次」を願うだけだ。次こそは、もう少しまともに話ができたらいい。今回は失敗したが、真なる人に死はない。数百年、数千年、いつになるかはわからないが、いつかを待って眠るだけ。
働いてきた仕事の意味がまるでなかったことだけが、感傷を呼んでいるのだろう。そうに違いない。
かたん、と仮面が置かれる音がした。
「エメトセルク」
エメトセルクは、軽く顔を上げた。泣く寸前、という、少し赤くなった顔に、潤んだ瞳。
「エメトセルク……」
アゼムがエメトセルクの頬を両手で挟みとり、額を擦り付けた。目を閉じると、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。肩を揺らし、しゃくりあげるアゼムの背に、エメトセルクは手を回した。
「何故お前が泣く。言っておくが、お前の欠片を殺したのは今回が初めてじゃない。お前は残念に思うかもしれないがな、砕かれたお前など、お前と同じように見れようもない」
「うそつき」
わああ、と声を上げてアゼムは泣いた。
「手を取りたかったくせに。一緒に歩いてほしかったくせに。もっと話したかったくせに。ばか、ばか! ばかぁ……!」
軍服の胸に縋り付いて泣くアゼムに、困ってエメトセルクは息を詰めた。そんな筈がない。
「きみが私に無感情で居られる訳がないもの! 何度、きみはそうやって自分の心を殺してきたの。それを誰が知っているの。きみを、……きみを、ひとりになんて、したく、なかった……!」
震える背中を撫でる。仮初めの体温に、今だけは縋りたくなった。
私だって、お前を離したくなど、なかった。
声に出すのは矜持が許さない。静かに、誰にも伝わらない感情を込めて小さな身体を抱き寄せた。
アゼムとエメトセルクは、そっと身体を離した。もうじき日が変わる。ソファの上で手を絡ませたまま、窓の外を二人で見つめた。
「ねぇ、エメトセルク」
「なんだ」
涙でかぴかぴに乾いた頬を軽く擦りながら、アゼムがいたずらっぽく笑った。
「一個、予言をしてあげる」
「予言? そんなもの、信じてどうなる」
「いいから、いいから。……あのね、彼女はきっと、もうすぐ来るよ」
ソファから降りると、アゼムがぐいと手を引いた。大人しく連れられ、議事堂を出て蒼い空を二人で見上げる。
「……お前、見たいのか」
「いいや、多分見られないと思うし」
どういうつもりだ。エメトセルクは怪訝に眉を寄せた。アゼムは小さく笑う。
「私は多分、きみの知られたくない想いをたっぷり詰め込んでしまったから、もうこの街を歩くことはないのだろう。それはきっと、新しい私の欠片にも見せられない」
エメトセルクは、一回り小さな手を強く握った。逃さない、とでも言うような力の強さに、アゼムは目を見開いたあと、嬉しそうに細める。
「来るとも限らない。お前なら、最後まで抗うだろう」
「ああ、抗う。抗うともさ。だからだよ、ハーデス」
アゼムは片手で天を指した。幻想の空の向こうが、激しく揺れる気配がした。エーテル視をすると、本来の黒い海が底から泡に巻き上げられる様が視えた。何だ、あれは。
次いで、勢いよく海の中へと突っ込んでくる、……妖精? エメトセルクは口元を引き攣らせた。一人で呼べば招こうとも思っていたが。妖精の背には、輝く光以外にもそれなりに見慣れた魂がいくつか。
「ほらね」
「……やり口が強引すぎる」
「諦めてないんだよ。じきにここへもやって来るだろうね。きみの横っ面張り倒しに!」
はぁ……、とエメトセルクは重苦しい溜め息を吐いた。アゼムは繋いだ手を揺らして笑っている。
「……私と初めて言葉を交わした時、きみは言ったね。『思うところはないのか』ってさ」
アゼムは、エメトセルクに向き直り、もう片方の手も掴んで指先を絡めた。仮面を着けず見上げた、アゼムの美しく光る瞳に、エメトセルクは唇を引き結ぶ。
終わってくれるな、この時は――。
「私は、後悔してない。謝らない。きみは間違っていなかったし、私も間違っていなかった」
エメトセルクは彼女を呼んだ。彼女は、微笑んだ。
「愛してるよ、ハーデス。きみが大好きだ。だから、さようならは言わない」
背伸びをしたアゼムが、音を立てて口付けた。
「またね」
時計の針が頂点を指す。つまさきから、彼女の身がほどけていく。エメトセルクはその身体を掻き抱いた。しかし、その腕は空を切る。
泡はかすれ、水面へと昇っていく。もう、どこを視ても、彼女の姿はなかった。エメトセルクは、静かに空を見上げた。
世界を塗り替える光は、水底で太陽のように輝いている。どんな顔をしてここまでやってくるのか。辿り着くまで、覗き見るつもりはない。
掴むものを失った手を開き、視線を落とすと、エメトセルクは歩き始めた。
恐らく決戦はこの街になる。この美しい街を見たとき、彼女が何を思うのか。ほんの少しの期待を指摘する泡はなかったが、もはやそれを否定する心も、エメトセルクの中には存在しなかった。
