「お待たせ!」
先に二人入ってもらってます、と名前を出すと、店員さんはお待ちしておりました、と笑顔を浮かべて案内してくれた。布の仕切りによる半個室が並ぶ通路を歩いていくと、二人の穏やかな笑い声が聞こえる。ヒカリは布を潜った。
「先に始めちゃってるよ、何飲む?」
「とりあえず、そうだなぁ……」
明るい声とともにリセがメニューを渡してくれる。一番目立つページに書かれている文字をサッと読み、後ろで待っていてくれた店員さんに伝えると、店員さんははい、ただいま! と頷いて厨房に戻っていった。
「久しぶりだね、元気にしてた?」
手袋を外し、コートのポケットに入れると、マフラーを外す。シュトラが渡してくれたハンガーに掛け、更にコートも脱いで掛ける。壁際のフックには三人分の外套が並んだ。
「もちろん、元気だよ! ヒカリも元気そうだね!」
「うん! イダも来れたら良かったんだけどねぇ」
「しょうがないよ、姉さんは今、パパリモと一緒にジャングルの中だし」
今日飲む相手であるシュトラもリセも、大学のサークル活動で出会った相手だ。落ち着いた大人の女性であるシュトラと、とにかく元気で明るく天真爛漫さのあるイダとリセの姉妹はかなりタイプが違うが、根のところで気が合う。大学を卒業したあとも、交流が続いていた。
ヒカリはふと、視線を感じて斜向かいの席を見た。シュトラが頬杖をつき、ヒカリを静かに見つめている。シュトラの透き通った色の瞳は、時折物質以上のものを見ているような気にさせる。その様に何だか、空中の何もないところをじっと見ている猫を思い出すのだった。
「ど、どうしたのシュトラ……」
少したじろいでしまう。シュトラはにゅっと瞳を細めた。ルージュを引いた唇が微笑む。
「あなた、身に着けるものが随分変わったわね」
ドキッとした。確かに、ヒカリを寒さから守ってくれる物の数々は、部長が買い与えてくれたものだ。コートだけは自分で新調したが、それでも小物と合うように、今までより品質の高いものを購入した。どれもこれも、本来のヒカリのセンスとは差異がある。
「私も一応、社会人ですから」
もっと堂々と答えれば良かったのだけれど、声は妙に籠もってしまった。リセが隣で笑ってくれる。
「確かに、ちょっと会わなかっただけですごい大人っぽくなってて、アタシもびっくりしちゃった! でも、とっても似合うよ。今までと全然違うけど、良いと思うな」
「えへへ、ありがと……」
照れるヒカリに、シュトラがカクテルを飲みながら微笑む。
「あなた案外、影響を受けやすいタイプなのね」
「……っ」
「どういうこと?」
リセが首を傾げた。シュトラはちらり、壁のコートに視線を向ける。
「どんな人なのかしら。年はかなり上みたいね。会社で出会った人?」
「や、待って待って、何を突然」
「プレゼント、でしょう?」
どうして分かるの! やましいことはない筈なのに、何故だか知られてはならないことのような気がして、身が強張ってしまう。シュトラの瞳が痛い。ヒカリは指先をつつき合わせた。
「どれもこれもブランドの品ね。元々あなたは実用性を重視するでしょう? 生活水準が多少上がっても、急にブランド品ばかり買うようになるとは思えないわ。買うにしても、あなたくらいの年頃の子が真っ先に手を出すクラスじゃない。となれば、誰かいい人がプレゼントしたと想像がつくわね」
「いい人!? ヒカリ、恋人が出来たの!?」
「出来てない!!」
丁度良く店員がヒカリの分の酒を置きに来た。ぺこりと会釈をして受け取った白桃サワーのジョッキを煽る。半分ほど一気に飲み、机に置いた。おしぼりで口元を拭い、長く息を吐く。
シュトラは、電子書籍に関する会社を経営している女社長だ。彼女自身が立ち上げた新興企業であり、業歴は短いが、急激な成長を遂げている。社長として他社の経営陣などと交流もあるだろうし、そういった部分に目敏くてもおかしくはない。
腕を軽く組み、シュトラが拳で口元をゆっくりと叩く。考え事をしているときの彼女の癖だ。怖い。
リセがビールのジョッキを持ち、ずいとヒカリに向かって距離を詰めた。目がキラキラとしている。
「ねぇ、どんな人なの? まだ恋人じゃないってこと?」
「まだとかそういうんじゃない! ただの上司と部下!」
「カッコいいと思う!?」
「カッ…………コいいとは、思うけど」
「何だかアタシまでドキドキしてきちゃった! 応援するからね、ヒカリ!」
「応援とかいらない! 違うったら!」
「ねぇ、ヒカリ」
静かな声に、振り向いた。シュトラの熟考は終わったようで、肘をつき、組んだ指の上に顎を載せて、ヒカリをまっすぐ見据えている。いつも冴えた思考の彼女の意見は為になって、活動の時はとても頼りにしていたものだったのに、解剖される側になるとこれほど恐怖を抱くとは。
ごくり、唾を飲み込む。
「あなたの感情は、あなたにしか紐解けない部分なのだけれど。……一応、人生の先輩としての立場から言うのなら、受け取る時は、考えたほうがいいわ。無償の施しなんてないと思っていい。もしもそうであると言うのなら、……それこそ、重い感情に基づくものでしょうね」
ヒカリは、首を小さく横に振った。
「無償だとは、思ってない。その分、働いて返せって、そういう意味だから、大丈夫」
「あ、出世払いってこと?」
「そうそう、出世払い。そんなのなくったって、あの人のことは尊敬してるし、下で働いていたいって思うんだけどね」
「ヒカリにとって大切な人なんだ」
にこ、と太陽のように明るく笑うリセに、一瞬言葉に詰まる。大切。そう、とても大切な人。だからこそ、誤解されたら申し訳ないと思うのだ。妙な関係だなんて、噂が立つだけで迷惑がかかる。
シュトラが呟いた。出世払い、ね……。含みがある物言いに、二人で視線を向ける。彼女は伏せていた目を開いて、軽く首を傾げて見せた。
「あなた、自分で払いきれる量だと思っていて?」
「…………払いきれる、とは」
「文字通りの意味よ。出世払いも、言ってみれば借金と同じだわ。あなたはとても、踏み倒せる人間だとは思えないの。……あなたの上司の人が、どの程度施せる人であるかは分からないけれど……。健全に長くその人と居たいのなら、与えすぎるのも、受け取りすぎるのも良くないと、そう思えて仕方がないのよ。……ヒカリ、あなたは」
猫のような瞳が細められる。ぎゅっと胸が締まった。
「彼にとって、どんな価値があるのかしら」
ヒカリは大きな姿見の前に立ち、全身の服装を確認した。
秋も深まり、時折真冬の日すらチラつく季節である。深い色のニットの下は、ハイウエストのロングスカート。タイツは厚手だし、コートとマフラー、手袋の品質が高いおかげで、中は多少身軽でも防寒に問題はないだろう。
……一年前どころか、半年前と比べても、確かに私服は大きく変わった。シュトラの言うとおり、ヒカリは影響されやすい女だったのかもしれない。服装の年齢が、五歳程度は上がった気がする。
ヒカリの実用性重視は、機能性と価格、両方の面からの話だ。動きやすい服装が好きだし、気楽に汚したり洗ったりできる低価格帯の服が好き。女性らしいフェミニンさのある格好も嫌いではないが、服を扱う店に入って真っ先に目に入るのは、カジュアルなものである。
けれど最近は、ある程度意識して服を入れ替えていた。綺麗めな、オフィスカジュアル。社会人も二年目だから、と言い訳をするけれど、ヒカリだって分かっている。職場ではスーツなので、休日を過ごす格好を変化させる必要なんかない。
きっかけは、間違いなくあの人だ。大通りを歩いているとき、何度も思い出す。初めて休日に部長と出掛けた日のこと。
システム手帳のサロンは、仕事終わりに行ってもゆっくりとなんて見られないから。そう言われて、初めてヒカリは部長と休日に待ち合わせたのだ。高級と言われる文具が、大人たちを引き込む沼の広がる嗜好品だと知ったヒカリは、場から浮かないように自分の持つ中で最大限に、綺麗めの格好をすることにした。
鏡の前で今日と同じようにチェックして、よし、これは年齢相応な感じになったのでは、と思って出発したのだ。自信はあった。
マンションの前の細い道に、あの高級車が停まっているのを見たときはうっかり悲鳴を上げたヒカリであるが、乗るのは初めてじゃない。深呼吸をして、窓の外から覗き込むと、部長が閉じていた目を開けてヒカリを見た。
なんと言うか、中年男性の私服といえば、お父さんくらいしか、ちゃんとは見てこなかったもので。ヒカリは言葉を失ってしまった。造りはゴテゴテとしていないのに、質が良いと一目見て分かるジャケットやシャツに身を包んだ部長が、当然のようにヒカリをエスコートしようとしている。ヒカリはショルダーバッグの紐を握り締めた。
動き始めてしまえば、話が弾んで、すっかりそちらに夢中になっていた。でも、地下鉄に降りる階段がところどころに口を開ける大通りを歩きながら、ショーウィンドウに目をやったとき。反射して見えたものに、うわ、と小さく呻く。
大きなガラスの中を、二人が歩いている。背の高い彼と、ぺたんこのパンプスを履いたヒカリ。
隣に居る筈なのに。ああ、彼は別の世界のひとだ。そう、思った。
ぼんやりと思考を巡らせた。部長って何歳だったっけ。四十は越えていそう。そっか、私と二十くらい離れているんだ。ほとんど親子くらいの歳の差だ。
並んでいると、こんなにはっきりと分かる。ヒカリは確かに、ヒカリの年齢相応のデザインと素材のものを着ているだけで、単体で見れば何の問題もないのだけれど。並んだときに、明らかな違和感があった。お連れ様とはとても思われなさそうだ。テクスチャが違いすぎるから、娘と認識して貰うのも難しいと思う。
妙に恥ずかしく感じた。申し訳なくも感じた。彼が連れ歩くなら、それなりの品格があって然るべきだと思う。彼の審美眼が疑われる原因になるのは耐えられない。
ヒカリは、鏡の前でコートを羽織った。彼の方も、少し思うところがあったのだろうか。手袋や、マフラー、靴など。外からも見えやすい小物を贈られるようになった。社外の人に対しても、一流商社の社員らしく見えるように、との気遣いだと思うのだけれど。もしかすると、彼が連れ歩いて恥ずかしくない人を作り上げる作業だったのかもしれない。
彼の贈ってくれた防寒具は、休日も身に着けていた。そのためにコーディネートを考えていると言っても過言ではない。下手な安物を身に着けると、それだけ浮いてしまうから。
一年目、趣味に使えなかった分、貯蓄は多くなっていた。ぽんぽんと新作を買ったりは出来ないけれど、とっておきの日にひと揃え、全身を整える程度のアイテムは集められている。慣れぬお洒落な巻き方に悪戦苦闘しながら、なんとかマフラーを巻き終え。ヒカリは再度鏡を見据えた。
お化粧も、服に合う綺麗色のパレットを買って。手を出してこなかった美容雑誌とにらめっこしながら、少しずつ上達させている。髪の毛もヘアアイロンでアレンジした。うん、きっと、これなら大丈夫。
ヒカリは苦笑する。何も、今日隣を歩く訳ではないのだけれど。彼が教えてくれた舞台を見に行くのに、ちょっとお洒落をしたかったのだ。彼の行動範囲を歩くときに、恥ずかしい服装はしたくなくて。
チケットは昨日の晩にしっかり入れた。いつもよりも小さなバッグを手に持って、玄関に向かう。座って今年買ったばかりのブーティに足を入れる。横のチャックを引き上げて、立ち上がった。
仕上げだ。ヒカリの性別にも、年齢にも、合わないことは分かっているのに、どうしても使いたい。休日の彼から香って、ヒカリが部長っていい匂いしますね、と逆セクハラ一歩手前のことを言ったとき、随分彼は顔をしかめていたので、あっやらかしたわ! と内心思うなどしたのだが、その後ぽんと、会社帰りに投げてよこしてくれた、香水。
ほんのちょっとだけ、手首の内側に付ける。とんとん、と反対側に乗せて、手袋を嵌める。香水なんて付けたことなかったから、貰ってから初めて調べたのだ。動いたときにふっと香るのがいい。
足を踏み出すと、カツンとタイルをヒールが叩く。五センチのヒール。大人の女性には低いかもしれない。
けれどそれでも。いつもの二倍、ヒカリは背伸びをしていた。これが自然になれば、きっともう少し背伸びが出来る。背伸びが背伸びじゃなくなるのは、一体いつになるのだろう。
舞台を見るのは好きだ。でも、テレビコマーシャルを打ち、専用の劇場を持ってロングラン公演をしている大規模劇団や、姉のツテでたまたまチケットが手に入った舞台くらいしか見たことがなかった。
大きな箱の遠い客席から、大掛かりな舞台装置で華やかな演出がなされるのを見るのももちろん悪くはない。でも、セットがシンプルでも、工夫と演技力で世界観を創り上げる小劇団の公演も、なかなかに迫力があって良いものだな、と思った。
今回、この舞台と出会うことになったきっかけは、脚本家だ。今までに好きだと思ったドラマの話を部長としているときに、どれも脚本家が同じだな、と指摘されたのだ。ドラマは好きでよく見るが、同じ曜日の同じ時間帯に放送されるから、だとか、好きな俳優が出演するから、だとか、好きな漫画の実写化だから、だとか、まあごく一般的に娯楽を愛する消費者だな、って取っ掛かりしかなかった。
言われてみれば、展開や台詞回しが好きだなぁ、ってドラマの方が、結局は話題作よりも記憶に焼き付いている。よくそんなに昔の作品のスタッフを覚えているものだなぁ、と驚いてしまったのだが、そんな部長が「今度新作の舞台を手掛けるらしい」と教えてくれたのだから、興味を引かれないわけがない。
とても面白かった。ヒカリは座席に腰掛けたまま、しばし放心していた。怒涛の伏線回収は、さすがの腕前である。見た瞬間はそうであると気付けないのに、回収されるときになれば、しっかりと思い出されるのだから、印象付けが上手すぎる。
原作などのないオリジナル脚本だから、チケットを手に入れた人としか語り合えないのだ。今すぐに誰かと話したいが、残念ながら今日のヒカリはひとりぼっちだ。かと言って、友達に一方的にネタバレしながら語るのも違う。ヒカリの語彙力では魅力が全て伝わるとは到底思えないし、初見の感動があってこその作劇だった。話の筋だけかいつまんでも、それは全くの別物だ。
ヒカリはシートから立ち上がると、膝にかけていたコートを纏った。フットワークの軽い姉なら、巻き込めるだろうか? すっごく面白かったから、と連絡したなら、明日には見てくれそうな人だ。映画やドラマと違って生の舞台だから、必ずしもヒカリと姉が見るものは同じではないのだけれど、ストーリー構成の話をするのには十分な筈だ。
本当は、今この瞬間の、感動と熱量で喋りたくてたまらない。仕方ない、カフェで手帳のフリーページにでも書き連ねるか。身支度を整え、ロビーへと向かう。
まだロビーは混雑していて、至るところから観客の語る感想が響いていた。うう、羨ましい。
……言えばよかったのかなぁ。一緒に行きませんか、って。あの人に。ヒカリは俯いた。彼は勧めた張本人だ。興味があるから情報を仕入れたのだろうし、時間が合えば付き合ってくれたかもしれない。
いいや、でも。ヒカリはいつもよりも赤い唇を軽く噛んだ。仕事に関するものを買いに行くのに、一緒に出掛けるのはまだ分かる。だけど、観劇だなんて、言い訳が効かなすぎる。完全に趣味の話だ。流石に歳の離れた上司と部下が二人きりで行く場所じゃない。まるでデートみたいになってしまう。それは、違うと思う。
次回はちゃんと友達を連れてこよう。演目の種類によって、興味がありそうな人が変わってくるから……。ヒカリはロビーの端にあるフライヤー置き場に近付いた。片っ端から持って帰ってゆっくり検討しよう、と手を伸ばした時だ。
不意に、あの香りがした。
あれ、私から? いや、ちがう。ヒカリは左右に視線を振って、目を見開いた。壁際、ポスターとポスターの間に。あの人が、居た。
「部長!」
遠くを眺めていた金の瞳が、驚いた様子で向いた。ヒカリはぱっと顔を輝かせた。今日は休日だ、そういうこともあるのかもしれない! フライヤーに手を付けるのも忘れて、絨毯の敷かれた上を小走りに近付く。
「部長も来てたんですね!」
「……ああ、お前は、一人か」
「はい!」
隣に並ぶと、やっぱり見上げるかたちになる。普段よりちょっとだけ距離が詰まっていたが、誤差の範囲だった。ヒカリはそわそわと髪の毛の先を弄った。まだセットしたふわふわ、残ってる? こんなところで会うだなんて思ってもみなかった。よそ行きの格好を選んだ自分を褒めてやりたい。
この後部長、時間あるかな。示し合わせて趣味の場所に遊びに行くのはよろしくないけど、たまたま出会ってしまったのだから、お茶をしながら感想を言い合うくらいはきっと普通だ。ヒカリはぐっと手のひらを握り込み、エメトセルクを見上げた。
「あの、この後」
「ごめんなさい、お待たせ」
声の方向が自分たちに向いていることに気付き、ヒカリは驚いて顔を向けた。そこに立っていたのは、長身のお姉さんだった。背が高い上に、ハイヒールを履いているから、それなりにヒカリは見下される。あら、と不思議そうにお姉さんが首を傾げる。ランダムに見えるように計算されたカールが、胸元で揺れた。
「あなた、今度はこんな若い子を引っ掛けたの?」
つかつかと部長の隣まで辿り着いたお姉さんが、おかしそうにルージュの引かれた唇で笑う。
わざとらしく腕を絡ませたりなんかしないけれど。女の勘、ってやつだろうか。この人、部長の、いい人だ。
切り分ける線が見える、どころの騒ぎじゃなかった。ヒカリは少し、目眩がしそうだった。ぽっかりと境界に深い谷が口を開けているような気になった。断絶だ。別の世界だ。
お姉さんは、三十代の後半くらいだろうか。若作りは感じない。大人の色気って、こういうものを言うのだろうと思う。口紅のプラムは肌によく馴染んでいる。目元の色合いは派手ではないけど、よく作り込まれたグラデーションが元々くっきりとした目鼻立ちを更に華やかにさせていた。
服装も、部長に負けていない。ロングコートとブーツで、中の服装までじっくりと観察することは出来ないが、しっかりと服を着こなしていることが分かる。服に着られている感じが一切ない。質の良いもので飾られた彼女は、御本人も最高品質のお姉さんだった。
そうだ、あの人にはこういう女性が似合う。
どれだけ着飾っても、中身が急に変わることはない。たとえヒカリが同じものを纏っても、同じ印象を与えることは絶対にない。立ち姿がまず違うし、口を開けば経験と教養の差があらわになる。
黙り込んだヒカリと、言葉に迷う様子の部長を見て、お姉さんがひとつ瞬きをした。
「勘違いするな、こいつは遊びの相手ではない」
苦々しく呟いた横顔にはっとして、ヒカリはこくこくと頷いた。にこり、貼り付けたような笑みを浮かべる。
「会社の部下です。すみません、お邪魔する気はなくて! あっ、もうこんな時間! 私友達と次の約束があるので失礼しますね!」
脱兎の勢いというやつだったろう。大きく頭を下げると、ヒカリは慌ててその場から逃げ出した。いつものパンプスだったなら、もっと早く走れただろう。人の隙間を縫って、ヒールの音を響かせる。走りにくい。せいぜい競歩の速度しかでない。当たり前だ、走るように作られた道具じゃない。
地下鉄の駅に駆け込んで、見慣れた色合いの路線に降り、丁度やってきた電車に乗り込む。閉まった反対側のドア付近まで近付き、ガラスに額を寄せて上がった息を整える。発車ベルの後、ぷしゅ、と空気の抜ける音がしてドアが閉まる。
ヒカリはくるりと方向転換し、ドアに背中を付けてもたれかかった。ぼんやりとドアの上に設置されたモニターを見上げる。
電車は、家とは反対方向に進んでいた。
(フライヤー、貰いそこねたな……)
ヒカリは長く溜め息を吐いた。戻る気にはなれないし、しばらくあの劇場には、足を向けたくなかった。
次の約束があるのなら、この後だなんて言い出さない。部長のことだから、気付いていない筈がない。気分は少し重かった。
分かっていたことだった。部長はそれなりに遊び慣れた人だろうことは、最初の食事の時に察していた。今までにそういう間柄のお姉さんと出会わなかったのは、むしろ奇跡だったのかもしれない。
月曜日もそこそこから、エメトセルクはヒカリを昼食に誘った。逃げたことを追求されたらたまらない、とヒカリは友人との約束をでっち上げて食堂に向かった。テーブルに友人たちが居たからお邪魔させてもらったら、「何かあったでしょ」の大合唱だ。そんなに酷い顔色をしていただろうか。
用事がありますので。食べたい定食が売り切れちゃう。ちょっと腹痛が……。そうやって二週間ほど逃げていたところで。就業後、席に部長の姿がないことを確認してから、身を少し縮め、鞄を担いでそそくさとデスクを離れたヒカリは、フロアの扉を出るなり、コートの首根っこを掴まれてつんのめった。
軽く首が締まって、涙目になりながら振り返る。平行にたどった視線の先には、高そうなネクタイとネクタイピン。ゆっくりと視線を上げる。金色がドアの影から見下ろしている。ヒカリはうなだれた。
お酒の席に誘われたら断る。姉からの一文を頭の中にぐるぐると浮かべたが、ヒカリが連れてこられたのは社内のミーティング用スペースを兼ねたラウンジだった。隔離されているが、密室ではない。少人数での利用を想定して、防音パーティションが囲む一角に引きずり込まれたヒカリは、どっかりと座り込んで自分を睨む上司に、すっかり怯えていた。
はぁ、と重苦しい溜め息が聞こえ、ヒカリはびく、と肩を揺らした。
「何故逃げる」
「逃げ、ては」
「逃げてない? この目をしっかりと見て言ってもらおうか」
「…………」
めちゃくちゃ怒っている。仕事はちゃんとしてたんだけどな。ある程度距離感は詰まっていたわけで、確かに突然飛び退かれれば、不快にも感じるだろう。
「……すみません」
「……別に怒っているわけではない」
いや、怒ってるでしょう。膝の上の鞄を無言で抱き締めたヒカリに、エメトセルクは再度溜め息を吐いた。額を押さえ、首を振る。
エメトセルクが、傍らの空席に置いていたコートの下に手を突っ込んだ。仕事用の黒い鞄の中から何かを取り出して、ヒカリの目の前に置く。小さなショッパーだ、分厚い紙袋には、金色の箔で店名が書いてある。
「渡す機会を損ねていた。やる」
ヒカリはすす、と指先で紙袋を押し戻した。
「頂けません」
「へそを曲げるな。お前に合うと思って買った」
「……ちなみに、中身は」
「イヤリングだ。顔周りに飾りのひとつもないのは寂しいだろう」
やっぱり、おかしいのだ、これは。姉や、シュトラの言うとおり。ずっと気付いていなかったのは、盲目になっていたからか。上司が部下に贈るには、やはり度が過ぎている気がする。
ヒカリは唇を噛んだ。清掃の行き届いた、真っ白なテーブルをじっと見下ろす。
「部長はこんなことしなくても、ちゃんと部下に慕われていると思います。他の人は受け取っているのかもしれないけど、私は、これ以上は期待が重すぎるので、無理です」
手が震えているのを見られたくなくて、テーブルの下に隠す。縋るように鞄の角を抱えたヒカリは、黙って次の言葉を待った。
「…………お前は」
顔が上げられない。低い声の表情は読めなかった。
「私が、誰にでもこうしていると思っているのか」
喉が詰まる。逃げ道が塞がれている。
「そうじゃなかったら、今までも受け取ってません。あなたは部下にお金を使いたいひと。そうでしょう」
声の震えは全く隠せていなかった。名前を呼ばれる。顔は上げたくない。
どんな顔でこちらを見ているのか。怖くて、たまらなくて。強く目を瞑りたくなった。
「……残念なことだが、随分前から、私はお前に執心していたらしい」
淡々と告げられる言葉に、ヒカリは指先の力が抜けていくのを感じた。
「ただの部下相手に、ここまで心を割くものか」
嘘だ。嘘。違う。そんなわけない。その言葉が指す意味は分かっている上で、理解を心が拒んでいた。
呆然と、呟く。
「…………同じ職場の女は嫌だって、言ってたじゃないですか……」
同じ時にヒカリも言った筈だ。付き合うなら真剣ですよ、と。
遊ぶ相手には選んでほしくなかった。着せ替え人形にしたって、素体がよくないのだ。たまには身分違いの相手を引き上げてみたくなったのかもしれないけれど、見目を変えただけで中身までそっくり入れ替えられるなら、人間はここまで苦労しない。
立場としては、明らかにエメトセルクが上だ。与えられるがままに受け取りすぎた。すぐに関係を御破算にしようとして。返せるものなど。
ああ、彼女たちの言葉がリフレインしている。
血の気の引いたヒカリに、エメトセルクがどこか自嘲したように笑った。
「……私が勝手に貢いだだけだ、お前が嫌ならそれでいい。カラダで返せなどと、三下のようなことを言うとでも思ったか?」
がたん、と椅子を引き、コートと鞄を持って立ち上がる。立ち上がれないヒカリと小さな贈り物だけを置いて行こうとしている。
「仕事に私情は挟まない。安心しろ。……気を付けて帰れよ」
足音が遠ざかっていく。ヒカリはべしょりと机に突っ伏した。
開けられない包みは、棚の上にそのまま置いた。ラグの上で小さく三角座りをして、携帯を耳に当てる。
軽やかな呼び出し音が数回鳴ってから、繋がった瞬間の雑音が鼓膜を揺らした。
『……もしもし? ヒカリ〜? どしたの?』
「おねえちゃん……」
ぐす、と鼻を啜る。電話の向こうでは慌てた声が聞こえた。
苦しくて、辛くて。涙がぼろぼろと溢れる。
信頼している人に裏切られた。そんな気持ちだけで済んだなら良かった。良くはないけど、今よりずっとマシだっただろう。
好きだって、思われていることに、心は揺れたのだ。一緒に居るのが、楽しくて仕方がなかった。共有する時間が大切で、大好きで。
でも、どうせ遊びの一人なんだと、知っている。比べられる相手も、知っている。彼は物珍しさで、ヒカリのような女も集めたくなったのかもしれないが。今まで出会ったことのない生き物だっただけのヒカリが、彼女たちを押しのけて、最後に選ばれる可能性なんかない。そもそも彼には、選ぶ気すら、ないのかもしれない。
気付きたくなかった。
「部長ね、やっぱり、そういうつもりで貢いでたんだって」
電話からつんざくような悲鳴が聞こえて、ヒカリは慌てて手を耳から離した。
『無事!? 何もされてない!?』
「だいじょぶだいじょぶ、落ち着いてお姉ちゃん。落ち着きついでに聞いてほしいんだけど……」
へら、と笑うものの、鼻はちょっと詰まっている。
「私、あの人のこと、好きだったみたい」
先んじて携帯は目いっぱいに腕を伸ばして遠ざけた。でも、何も聞こえてこない。言葉を失ったらしい。何と言い訳したものか、と思いながら画面を見る。姉のアイコンと、通話時間が表示されている。
そろそろいいかな、ともう一度手を近付けたと同時に、音割れした叫び声が耳を貫いた。成功した不意打ちに何だか笑えてきてしまって、ヒカリは肩を揺らした。
好きだった。違うな。まだ、好きだ。
だからこそ。選ばれない戦いに行く勇気はなかったし、隣に立つだけで彼の品を下げるのが嫌でたまらなかった。もっと気軽に恋をしておくのだったなぁ、とサークル活動と友人との馬鹿騒ぎばかりしてきた大学生活を思う。
もう少し経験値を積んでいたのなら、挑むことを選べたのかもしれないが。たらればなんて、言ったってどうしようもないのだ。
恋って、気付くのも、終わるのも、呆気ないんだな。誰も教えてくれなかった事実は酷く響くが、語る相手が居るから、大丈夫。乗り越えられるものに、違いないのだ。
